第40話 北の荒野をゆく(五)

 気が付くと森中が怪しげな気配で満ちていた。影祓い達だけでなく、バローネの男達も何かを感じ取り、脅えた眼差しを木々の向こう側の闇へと這わせていた。


「いかん」イブラヒムは離れた場所にいるベルナールをみると、男に彼の傍へ来るよう促した。助かりたければ手を貸すようベルナールに迫り、相手の返答を待たずにホルンベルの身体を預けた。


 イブラヒムは懐から護符を何枚か抜き取り、その内の一枚に呪(しゅ)を込めてホルンベルの手に握らせた。そしてベルナールが腰から下げていた剣を拝借すると、自分達を囲うように大きな円を描き、術を施していく。

「影に襲われたくなければこの円から決して出ぬことだ」イブラヒムは剣を男の手に返してやり、ホルンベルを死なせてはならぬと言いつけた。


「あがぁ!」背後で短い悲鳴が上がった。皆が振り返ると、ベルナールの手下の一人が今まさに暗闇の中へ引きずり込まれるところであった。男の肩と胴には節くれだった指のような物が食い込んでおり、更にまた別の方角から影を纏わせた長い腕が伸ばされるところであった。


 近くにいたアマディオが男の名を叫びながら腰帯にさした手斧を振りかざしたが、イブラヒムがもう手遅れだと告げ、皆に茂みから離れるよう指示した。


 眼を凝らすと森中の暗闇の中で更に色濃い闇が蠢いているのが見て取れた。

「なんでぇ、こいつら……」別の男が言った。気がつくと男達はすでに不穏な気配に取り囲まれていた。

 それはこの森にすむ狂った猩猩(しょうじょう)であった。猩猩達はジベールの放った古式の術に惑わされ、暗い眼窩の奥に陰火の閃きを宿していた。


 さらに間の悪いことに、闇に潜む者はどうやら猩猩達だけでは無いようで、森の東側からは下草を踏み分ける無数の足音が近づきつつあった。やがて倒木の向こう側から顔を覗かせたのは一頭の砂漠狼であり、狼達は続々とその姿を現すと、人間達を挟んで闇に潜む妖物共と対峙した。


 砂漠狼達は本来であれば影の気配を嫌って穢れの立ち込める土地には決して立ち入ろうとせぬものである。だが今、この飢えきった獣達をひきつけて止まないのはホルンベルの流した血の匂いであり、ベルナール達のする息遣いであり、猩猩達がその身体に取り込んでいる死肉や骨の放つ腐臭であった。


 イブラヒムはホルンベルの容態を確認した。まだ青年に意識はあったが、腹の矢傷からの失血が止まらいようだ。今すぐにでも手当てしてやりたかったが、周りの状況がそれを許してくれそうにない。


 彼は瞬時に思考を切り替えるとジベールへ向き直った。この場にいる全員を守るには、彼一人ではどうにも手が回らぬのだ。ならばホルンベルの事はベルナールと近くにいたもう一人の男に任せ、狂気に堕ちたジベールを自分がなんとか対処するほかない。


 円の内側にいる限り、ホルンベル達が猩猩から狙われる事はないだろう。あとは彼の血の匂いに誘われた獣達を男達が凌いでくれる事に賭けるしかなかった。

 残る者達のうち一人は既に闇の向こう側に引きずり込まれ、離れた場所にいる他の四人には自力で身を守ってもらうしかない。


 矢で射貫かれたヨナスについては既に彼の数勘定から除外されており、あとは子供達であったが、セラナは今に限っていえばジベールの傍にいる事が彼女自身の身の安全を保障してくれるだろう。

 残るはテオと呼ばれた少年だが、彼は放心状態のままジベールの背後にうずくまっており、残念ながらイブラヒムにはどうする事も出来なかった。


「貴様如きが我に何するつもりぞ!」ジベールが吼えた。その表情がさらなる狂気に歪む。イブラヒムは目の前の男を力で断罪するほかないと悟ると、覚悟を決めた。


 二人は同時に古式の呪の詠唱に入った。イブラヒムは手にした護符の全てを両の掌で拝むように挟み込み、ジベールはセラナの首を左腕一本で締め上げながら機械弓を手にした腕をだらりと投げ出した。




 ジベールとイブラヒムの間に突如生じた異質な空気の流れにセラナが苦悶の声をあげた。その声を耳にした途端、テオは辛うじて正気を取り戻した。二人の術者のせめぎ合いに触発され、森中の暗がりから猩猩達とそして狼の群がなだれ込んできた。


 対峙するジベールとイブラヒムを中心に森の中のひらけた一画は瞬く間に狂乱の渦と化した。バローネの男達が各々剣を振るい、追いすがる狼達を脚で引きはがして茂みの向こうへと叩き込んだ。


 森中のいたる所から不気味な腕が次々伸びてきて人といわず獣といわず闇の向こう側へ引きずり込もうと宙をかき、それに抗おうと人はさらに激しく得物を振りかざし、狼達は猩猩の腕や首筋に牙をたてて彼らを成す枝や死骨を容赦なく噛み砕いた。


 そんな乱闘騒ぎの只中でジベール達の周囲だけがまるでこの狂乱の渦から取り残されたかのように派手な動は見られなかった。だが向かい合う二人の術者の間では今熾烈な精神力の闘争が繰り広げられていたのである。


 ジベールとイブラヒムは共に不動の姿で立ち、影を繰る呪い言葉を繰り返し唱え続けていた。ジベールは術の行使の代償で火傷のように腫れ上がった失印をものともせずに鬼の形相で相手を見据え、対するイブラヒムも額から汗を滝のように流しながら必死に踏みとどまっていた。


 だが術者としての二人の格の差は歴然としていた。イブラヒムは面と向かって対峙して、すぐにジベールが天才と呼ばれた所以を理解した。


 元来慎重であったイブラヒムはおのれとジベールとの力量の差をよく心得ていたつもりだ。それゆえ短期の技比べであれば万に一つも勝てぬと読んでいた。だから己から仕掛けると見せかけて実のところジベールの攻めを誘ったのである。

 ジベールは彼の内に取り込んだ影のことごとくを技にのせて繰り出し、イブラヒムはそれを消散し続ける事で相手の自滅を待つ構えであった。


 しかし時が長引くにつれて追い込まれたのはイブラヒムの方であった。イブラヒムの犯した誤算の一つは、ジベールがこれほどまでに失印の戒めに耐え得ると思っていなかった事だ。そしてもう一つは対峙する相手が想像以上に色濃い闇をその心の内に抱え込んでいたことである。


 ジベールの失印は既に血で染め上げられたように真っ赤にたぎり、これは並の術者であればとうに失神していてもおかしくない程の苦痛をもたらすはずであった。


 だがジベールの唱和は益々激しさを増すばかりで、そこから繰り出される影の流れはイブラヒムがどれだけ消し去ろうとも相手を取り込もうと着実ににじり寄ってくるのだ。ヨナスから受けた記憶の奔流の殆どを影として受け入れた今のジベールの心の闇はまさに無尽蔵であった。




 事態が密かに動き始めたのはこの時であった。ジベール達のいるすぐ傍の木陰から一頭の砂漠狼が転げ出てきたのである。


 木立の向こう側では猩猩と狼達の死闘が延々と繰り広げられている最中であったが、乱闘から弾き出されたこの狼はジベール達の放つ異質な気のせめぎ合いに打たれ、血の狂気から一変して引き戻された。


 この砂漠狼――胸元に逆三日月の斑がある雌――は己を奮い立たせる為に新たな獲物を探し求めた。そして一番近くにいた人間の少年に眼が留まり、三日月は本能的に牙をむき出した。


 すると何処からか彼女を呼ぶ声が聞こえた。実際には彼女の本能をくすぐる匂いであった。三日月は自分の本能に従い、匂いのする方へ頭を廻らせた。そこにいるのは矢に射抜かれた老人であった。だが彼女には相手が人間であるという確証が持てなかった。


 老人は深い傷を負っているようで、傷跡からは大量の血が流れ出ていたが、不思議な事にその血からは狼達を狂喜させる鉄と肉の匂いが殆ど感じとれなかった。


 三日月はむきだした牙を静かに収めた。彼女は不思議そうに小首を傾げると老人の傍へ歩み寄った。老人の足元に出来た血溜りにそっと舌を当ててみても血の味が薄くするばかりで、代わりに彼女の頭の中では幾つもの光の閃きが踊るように飛び交った。


 閃きは次第に幾つもの鮮明な像を結び、またすぐに消えてゆく。狼である彼女にその全てを理解する事は出来なかったが、そこから何かを感じることは出来た。


 像はいずれも草木や水に満たされた大地を映し出していた。砂漠の北にある岩場で生まれた彼女にとってそれらはどれも馴染みのない景色ばかりであった。だがその景色の何れにも鳥や獣達の姿が垣間見え、緑の茂る木陰で小さな狼の兄弟達がじゃれ合っている光景などは彼女の本能に酷く訴えかけるものがあった。


 三日月は周囲の喧騒に時折耳をそばだてながらも、どうしてもこの老人の傍から離れられずにいた。彼女は味の殆どせぬ血溜りにはすでに興味が失せた様子で、代わりに咽元を反り返らせて老人の足元からそこにある彼の顔を覗きこんだ。


 そこで彼女の視線を釘づけにしたのは深緑の色を湛えた一対の瞳であった。その瞳は三日月の気づくずっと前から彼女の事を観察していたのだ。老人は三日月に脅える様子も見せず、ただ彼女の事を静かに見据えると彼女の本能へと直接語りかけてきた。




 目の前ではセラナが苦しそうに呻いていた。彼女を捉えているジベールの腕が少女の咽元深くまで食い込んでいるのだ。ジベールは故意にそうしていた訳では無かったが、イブラヒムとの争いに半ば狂乱状態で術を繰り出し、セラナの事など眼中に無かったのである。


 テオは朦朧とする意識の中で己を叱咤した。ヨナスとホルンベルは倒れ、イブラヒムもジベールの狂気の前に屈しようとしている。

 今自分が何か行動を起こさねば事態は最悪の結末を迎えるだろう。失印の戒めを知るテオから見て、ジベールはとうに忍耐の限界を迎えていなければならぬはずであったが、もはや彼の精神は常人の域を遥かに凌駕し、このままではセラナもイブラヒムも縊り殺されてしまうほかはないだろう。


 テオは朦朧とする意識の中で何を成すべきか懸命に考えた。今の彼には失印をおしてなお影祓いの技を振るうだけの気力は無く、そもそも見習いでしかなかった彼が目の前の闘争に割って入るだけの技量などあるはずも無かった。


 やがて考えたところでどうしようもない事を悟るとテオは考えるのをやめた。セラナを戒めているあの腕が少しでも緩めば良いのである。あるいは彼の気を一寸でもそらすことが出来ればイブラヒムの助けになるやも知れなかった。


 テオは震える脚に力をこめるとジベールの胴めがけて身体ごとぶつかるように飛び込んだ。外套の端に手が掛かろうとした瞬間、真上から振り下ろされた機械弓の柄の一撃に再び地面に這いつくばらされた。


 ジベールは体制を崩す事なく視線だけを動かして足元のテオを睨みつけた。イブラヒムへの攻め手を緩めることなく、右手の獲物を再び振りかぶると、なおも立ち上がろうとするテオの頭頂めがけて振り下ろした。


 だが最初の殴打で意識を失いかけていたテオは身体をよろめかせ、機械弓の柄は少年の頭部を掠めて肩を打ち据えた。


 セラナが充血しきった顔で声にならない叫びをあげた。テオは片膝を落としながらも意識を途絶えさせまいとジベールの腕にしがみつく。そしてジベールが舌打ちしながら少年の手を振りほどこうとしたまさにその時、白い大きな塊が二人の間に割って入るように飛び込んできた。砂漠狼の三日月である。


「ぐおぉ!」ジベールは獣染みた怒声をあげると右腕を庇いながら身体を宙へ投げ出した。二の腕には三日月の鋭い牙が深々と突き立てられ、一人と一頭はもつれ合うようにして地面を転げまわった。


 先に立ちあがったのは三日月であった。彼女は身体を後退させながら咬み合わせた顎を激しく左右に振るう。ジベールは訳も分らぬまま、なかば無意識に己の腕に食らいついた彼女を振り払おうと激しくもがき、着衣の袖ごと腕の中程までを失うはめになった。


 ジベールは皮一枚でつながっている己の右腕を庇いながら、なんとか起き上がると砂漠狼と正面から対峙した。食い破られた腕の痛みも失印の戒めも忘れ、ただ呆けた面で三日月を見ていた。


 三日月はなおも低い唸り声をあげて相手を威嚇したが、それでもすぐに飛びかかろうとはしなかった。


 ジベールは三日月の瞳の奥底にどこかで見知った深緑の閃きを認め、少しおくれて激しい痛みと耐えがたい恐怖が彼の心を支配した。彼は右腕を反対の手で押さえ込みながら無意識の内に後ずさりし始めた。


 その動きを牽制するかのように砂漠狼の三日月は相手との間合いを徐々に詰めながら、さらに激しく牙をむき出した。そして三日月が再び飛びかかろうとしたその時、彼等の横合いで別の気配が動いた。ジベールの放った矢で瀕死の重傷を負わされたはずのヨナスであった。


 ヨナスは一瞬呻き声をあげ、二本の矢で木の幹に射止められた身体を強引に引きはがそうとした。


「馬鹿な……動けるはずがない!」ジベールが吐き捨てるように言った。彼は信じられぬものを見るようにヨナスの事を睨みつけ、また一歩後退りした。ヨナスが身体を僅かに前にのめらせ、そこで動きが止まるとジベールは安堵の表情を浮かべた。


 だがその安堵も束の間、ジベールは再び目の前の光景に吾知らず後退りする。彼の眼にはヨナスの姿が二つに分かたれたように見えたのだ。


 しかしそれはただの錯覚であった。ヨナスの身体にまとわり付いていた影の揺らめきが一瞬色濃く膨張したかと思うと、次の瞬間、ヨナスはその全身を黒い霧と化して矢の戒めから自らを解き放ったのである。


 木の幹には矢で射止められたヨナスの着衣だけが残され、かつてヨナスであった黒い霧は人と妖とそして獣の入り乱れる修羅場の最中を一陣の風となって駆け抜けた。


 ジベールの頭は目の前の事象を理解する事を放棄した。代わりに彼の本能が逃げろと警鐘を鳴らした。右腕を失った痛みも忘れ、ジベールは訳の分らぬ言葉を吐き散らしながら転がるように森の暗闇の奥へと駆け出した。




 宙に漂う黒い霧は人の型にまとまりながらテオの前に降りてきた。テオは状況がまったく呑み込めていなかったが、この霧がヨナスであるとは理解できた。


 そしてその人の型をした霧の顔らしき場所にある深緑の瞳が静かにテオに語りかけてきた。それはテオの頭の中に直接語りかけてくる思念であったが、少年はその声に熱心に心を傾けた。


 声は別れの時が来たと告げた。森の外れで死の縁にあるセサルが少年のやって来るのを待っていると伝えた。テオはただ黙って頷いた。少年は、先程みた幻像の中のセサルはやはり己の名を呼んでいたのだと確信した。


 テオの頭の中の声はセサルに残された時がそう多くない事を伝え、その息がある内に若者の最後の言葉をテオに聞いてやってほしいと頼んだ。そして声は奇妙な事をテオに語り始めた。


 選択肢は無数にあるとテオに教えた上で、これより先もまだ旅を続ける心算ならば、それは少年にとって今まで以上に過酷なものになるだろうと教えた。


 声は最後にジベールとの決着をつけねばならぬと告げ、人型にとどまっていたそれは再び霧の広がりとなって森の彼方へと去った。テオは我に返ると周囲を見渡したが、彼を救ってくれたあの砂漠狼の姿も何処かへ消えた後であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る