第39話 北の荒野をゆく(四)

 茂みを抜けた先に男が一人立っていた。テオは思わずその場で足を止める。目の前の人物が誰なのか……それは彼の良く知るアランに違いなかったが、どこかいつもと雰囲気が異なっていた。

 なにかがおかしい。そもそも何故アランがここにいるのか疑問であったが、それ以上に彼がひどく空ろな眼差しでこちらを見ている事がテオをその場に踏みとどまらせた。


「アラン!」遅れて茂みを抜け出してきたセラナがアランに駆け寄ろうとした。

 テオは反射的に少女の腕を掴んで引き止めた。彼女は離せと言わんばかりにテオの方を振り向いたが、少年の険しい顔付きがおのれを通り越してアランを見据えている事に気づくと息をのんだ。


「どうかしたの、テオ?」セラナは喉の奥が張りつくのを感じた。

「おかしいよ……どうしてアランがこの森にいる?」テオは囁くように言った。テオとセラナは周囲の様子に気を配りながら静かに後退る。


 アランは相変らずテオ達の方を向いていたが、その視線は何処へも焦点が定まっておらず、ただ漠然と二人のいる辺りを見ているだけであった。アランとテオ達との間にはわずか数歩ばかりの距離。テオの指摘のおかげで、相手の様子が尋常でない事にようやくセラナも気が付いた。アランは影に取り付かれていたのだ。


 外套の下から覗く巡礼服の裾から、淡い影色の揺らめきが微かにこぼれ出ていた。アランは片方の腕をゆっくり持ち上げると、ぎこちない仕草で手招きしながら前に一歩進み出た。


「さがって」テオが言った。少年は懐から護符を一枚抜き取り、それを手に握り締めた。

(其の影は汝の影にあらず、偽りの光は涼風に吹かれ去る)少年の紡ぎだす古式の詠唱が途切れたとき、掌中の護符は真白の灰と化した。握りしめていた指を静かに解いてそっと息を吹き入る。すると白い灰は無数の光の塵となって宙を舞い、やがて一陣の風と化してアランの身体の近くを吹き抜けた。


「テオ……」セラナが心配そうに少年を見た。テオは腕を駆け上る失印の痛みに耐えながら目の前のアランを凝視していた。


 アランは一瞬身体をふわりと仰け反らせると、糸の切れた吊り人形のように膝を内股に折り、無言のままその場へ崩れ落ちた。彼の両腕は胴の脇にだらりと垂れ下がり、膝立ちのまま頭を垂れ、やがて動かなくなった。


「なかなかにやりおる」ジベールの声がした。アランの背後の茂みから濃紺の法衣姿の男が現れた。他に六人の手下がおり、内二人は矢を番えた小型の機械弓を携えていた。


「たかが餓鬼と侮っていたが、いやはやたいしたものよ。私の元へ来るなら悪いようにはせぬぞ」ジベールはアランの背後に立つと、もはや動こうともせぬその背をまるで感情のこもらぬ眼で見つめた。


 そしてすぐに視線をテオに向け直すと外套の頭巾をゆっくりと後ろへ取り去った。その額にある失印は生々しく脈打ち、呪は今まさにアランに掛けた術の行使に対する代償を術者に払わせている最中であったが、ジベールは己の苦痛の事などみじんも気に留めておらぬ様子であった。


「忌々しいこの失印を解こうと私は多くの時を費やしてきた……だがそんな事は最早どうでもよい」ジベールはセラナを見た。その瞳の片方は血の混じった膿のように赤黒く濁り、残された方の眼には粘つくような妄執の光が宿っていた。


「あの老いぼれは何処だ」ジベールが言った。彼は口元に軽く笑みを浮かべていたが、その眼差しは無慈悲なまでに冴え渡っていた。ジベールはゆっくりと視線をテオの方へ戻した。

「言わねば娘はここで死ぬ」その言葉にテオは激しい憤りを覚え、同時に絶望した。如何ともし難い技量の差に少年はただ沈黙で答えるほかなかった。


「知らない!」そう答えたのはセラナであった。少女はテオを庇おうと二人の間に身体を割り込ませると、相手の事を睨みつけた。ジベールは娘の身体が小刻みに震えている事を揶揄し、テオに再び同じ質問を繰り返した。


「本当に……知らないんだ」テオはヨナス達と森の奥ではぐれた事を正直に教えた。その言葉をジベールは案外すんなりと信じた。彼は手下の男にテオ達を捕らえさせると、森の中の拓けた一画までひきずって行き、その中心に二人を引き据えた。


(近くにいるなら聞くがいい!)狂気じみたジベールの声が森中の闇に木霊した。




(久しく会いたかったぞ、老いぼれめ!)ジベールが吐き捨てるように言った。木陰の向こうから姿を表したのはヨナスであった。その姿をみてジベールの顔が思わず歪む。ヨナスの身体中から黒い影が立ち上り、顔色はかつてないほど青白く透き通って見えた。


(随分と景気の良さそうな面をしているな)ジベールが皮肉を言った。

(だがお前の事を二度とは侮るまい。私の頭の中ではお前の見せた幻がいまだに小踊りしておるよ……)ジベールはニヤリと笑うと己のこめかみに人差し指を突き立てる仕草をしてみせた。彼はヨナスの見せた記憶を偽りの像と捉えてあらがい続けていたのだ。


(生身の身体で影をまとい、自在に操る……如何にすれば正気を保てるのか後でじっくり聞かせてもらおうか)ジベールが部下に目配せをするとその内の一人が機械弓を肩に寄せて構えた。


 ジベールは殺さぬよう部下に念を押し、顎先を軽く突きだした。テオが叫ぼうとしたがそれより先に引き金の指が軽く絞るように引かれた。空を切る音が鳴り、ほぼ同時にヨナスが上体を大きく仰け反らせた。


 矢はヨナスの右肩を砕き、矢の先は彼の身体を通り抜けて背後の木の幹に突き立てられた。その衝撃はすさまじいものであったはずだ。だがヨナスは一言も声を発せず、首を垂れたまま視線だけを正面に戻した。


 ジベールはいぶかしむように眼を細めると、先ほど矢を射た男に次を番えるように言い、自分は別の男から機械弓を取り上げてその矢先をヨナスに向けた。彼等の用いている矢の表面には文字が細かに刻み込まれていた。


(少しばかり工夫がなされておってな。思うように影を操れまい)ジベールは勝ち誇ったように言いながら腰溜めに構えた機械弓を僅かに下方にずらすと躊躇無しに引き金を引いた。


 再び空を切った矢は外れる事なしに今度はヨナスの左腿を木に縫いとめた。テオが叫ぶようにヨナスの名を呼び、セラナはそのあまりに惨い仕打ちに言葉を失った。そんな二人にヨナスは眼差しを向けると彼等を安心させるように目元を綻ばせた。


 相変らず悲鳴の一つも上げようとせぬヨナスを前にジベールは苛立ちを募らせた。手にしていた機械弓を投げ捨てると部下の男へ次の弓をよこすよう求めた。矢を番える事も忘れて茫然としていた男は慌てて次の矢をつがえ、それをジベールに手渡した。


 ジベールは機械弓を片手で構えて目一杯前へと突き出した。そのまま一歩二歩とヨナスへ近づき、彼の影が届かぬ辺りまで詰め寄ると、今度はその狙いをヨナスの額へと定めた。


(助かりたければ真なる言葉で私に全てを捧げると誓え)ジベールが静かに言った。今その眼差しには狂気も蔑みも憤りも感じられず、ただ己の問いに対するヨナスの返答を真摯に待つ学士のようですらあった。


(テオよ……)これがヨナスの発した言葉であった。その声に打たれるように少年は我を取り戻すとヨナスの眼を正面から捉えた。ヨナスはそれ以上何も言わずに、ただその視線に幾つかの像を宿すと少年の瞳へと送り出した。


 テオは予期せぬヨナスの記憶の流入に心を乱しながら、それでも今ヨナスが伝えようとしている想いを必死に受け止めた。

(セサルの元へ急げ)ヨナスは最後にそれだけを伝えると、後は力なく首を項垂れた。ジベールは最後まで己を無視し続けたヨナスを何処かしら寂しげな眼差しで見詰めていた。

(今、楽にしてやる)ジベールは弓の先をヨナスの額から眉間に移し、引き金に添えられた指先にそっと力を加えた。


「待ってくれ、旦那……」背後でアマディオの声がした。ジベールは咄嗟に矢の狙いを逸らすと苛立たしげに声のする方へ振り向いた。


 アマディオは手下達の最後尾にいた。喉元には背後から差し出された黒曜石の刃が突きつけられ、彼の隣にはもう一人別の男が立っていた。

 刃を手にしていたのはホルンベルで、彼はアマディオに武器を捨てさせると周りの男達にもさがるよう指示した。


 ジベールはホルンベルと面識はなかったが、彼が影祓いである事をすぐに見抜いた。それは隣にいた男の方に見覚えがあったからである。


「これ以上、無益な殺生を重ねる必要もなかろう」もう一人の男、朱風のイブラヒムが言った。ジベールはかつての同門であるイブラヒムの事を疎ましそうに睨み付けた。もう随分と昔の話になるが、朱風の塚において二人は共に技をみがいた同じ世代の影祓いであった。


「こんな場所まで何しに来た?」ジベールが尋ねた。イブラヒムは右の手を掲げて害意の無い事を明らかにすると反対の手をゆっくりと外套の中へ差し入れた。バローネの男達がそれぞれ獲物に手を掛け、半歩さがって身構える。


「まずは、話をしたい」イブラヒムは穏やかな口調で述べると腰帯の横へ差し込んでおいた細い筒状の物を取り出した。中にはオドレイ自らが認めた書簡が収められていた。ジベールは書簡を己へ手渡すようイブラヒムに命じたが、彼はその要求を拒絶した。


「お前達の頭目は誰か」イブラヒムはバローネに雇われた男達に問いかけた。彼等はまずお互いの顔を見比べ、そして最後にアマディオを見た。その意を受けてホルンベルは突きつけていた刃からアマディオを解放してやった。

 ゆっくりと後方へさがるホルンベルと入れ替わるようにイブラヒムがアマディオの傍へ歩み寄り、手にしていた筒を彼の前に差し出した。


 アマディオはジベールの顔色を伺いながらイブラヒムの手から書簡を受け取った。書簡は封印が施された公書で、封に用いられていたのは間違いなくバローネの刻印であった。


 アマディオは閉じられた封書の僅かな隙間に指先を差し込んでその封を解いた。彼は手にした文章にすばやく目を通すと何も言わずにジベールを見た。そして視線をそのまま、横に数歩移動すると読み終えた公書を今度はベルナールへ手渡した。


 ベルナールは公書に書かれた内容を理解すると、逆手に持っていた短剣を手元でくるりと弄び、そのまま鞘へと収めた。そして読み終えた公書をまたホルンベルへと投げてよこし、仲間達と意味ありげな視線を交わすと無言のまま数歩後退りした。


「何が書かれていた、言え!」ジベールが苛立たしげに尋ねた。

「旦那、あっしらもう旦那の指示には従えませんや」悪びれる素振りも無しにそう答えたのはアマディオであった。事情が呑み込めぬ様子であったジベールの足元へホルンベルが公書を投げてよこした。


 ジベールはそれを一瞥しただけで自ら拾おうとはせず、手にした機械弓の先を今度はセラナへと向けた。そこに何が書かれているか確かめるまでもなく、己が今この場で完全に孤立した事を理解したからである。彼はセラナの近くにいたテオを下がらせると少女を己の前へ引き据えた。


「お前はもうバローネとは縁がきれた」ホルンベルが言った。青年が近寄ろうとすると、ジベールは目の前に立つセラナの後ろ髪を鷲掴みにし、その背に矢尻を軽く押しあてた。

 セラナは突然の痛みに悲鳴を上げて上体を仰け反らせた。


 ジベールはセラナを伴って少しずつ後退しながら、口ごもるように古式の呪い言葉を唱え始めた。彼を説得しようとするホルンベルの言葉に一切耳をかそうとはせず、徐々に詠唱の声を早めながら声圧を高め、終句を口ずさむ頃にはその声はほぼ絶叫と化していた。

(皆、影に喰われるがよいわ!)ジベールは古い言葉でそう吐き捨てると機械弓の切っ先をホルンベルへ向け、そして引き金を引いた。




 ヨナスは森の闇の中におのれの気配を同化させながらじっと機会を伺っていた。肩や脚の傷は確かに深かったが仮初めの生を生きる彼にとってその痛みを切り捨てるのは容易い事であった。


 しかしジベールの放った矢には彼の知らぬ呪(しゅ)が込められており、生身の身体と化している彼の本質は木に縫いとめられていた。このままでは身動きがとれない。そして闇の向こう側ではジベールの不吉な言霊の数々に、彼らが影と呼ぶ妖物が次々吸い寄せられるように集まって来るのが感じられた。




「ホルンベル!」セラナの叫ぶ声が耳に飛び込んで来た。ヨナスは僅かに瞼を開かせると辺りの様子を確かめた。

 いつかアラナンドの街で言葉を交わした青年が腹に血を滲ませて倒れ、別の男にその背を支えられていた。ジベールの放った矢に射抜かれたのだ。矢は抜き取られ、青年の腹を抑えている掌の下から濃厚な血の匂いが辺りに解き放たれた。その匂いは森外れに残して来たセサルの事を思いおこさせた。


(時が惜しい……)ヨナスは我知らずそう呟いた。猩猩達に襲われて深手を負ったセサルは今、森外れの木陰で孤独に横たわっているはずであった。

 その傷は常人で在ればとうに命を落としている程の致命傷であったが、それでもセサルはかろうじて口を開くとテオの名を呼んだ。その瞳の切実さにヨナスは少年を彼の元へ連れてくると約束し、瀕死の若者を一人残して来たのだ。


 セサルもその生の大半を大地の真理にささげてきた者である。たとえ無事でおられなくとも、テオが駆けつけるまでは何とか意識を永らえてくれるに違いないとヨナスは信じていた。


 それよりも気掛かりなのは狼達の事だ。セサルの周囲にはヨナスが結界を施しておいたので猩猩達に気付かれる心配はなかったが、森を取り巻いている狼達に彼の業は意味をなさない。


 もし狼達がセサルの血の匂いを嗅ぎつけたならば、今の彼に抗うだけの体力は残されていないだろう。ヨナスはあせる気持ちを抑えながら、闇の向こうから聞こえてくる者達の足音に意識を集中させた。


「離して!」叫びながら駆け出そうとするセラナをジベールが背後から抱きとめ、手にした機械弓で少女の咽元を締め上げた。セラナは痛みに涙を滲ませながらなおも抗おうとしたが、身体が浮き上がる程の力で後ろへ引き倒されてその場に組み伏せられた。


 テオが少女を庇おうと咄嗟にジベールの袖にすがりついた。だが勢いよく振り降ろされた機械弓の柄が無慈悲にもテオの頭部をとらえると少年はその場に昏倒してしまった。


「セサル……?」テオは虚ろなまなざしをセラナに差し向けた。頭部を襲った衝撃と、先ほどヨナスの見せた幻覚とが、少年の意識を混濁の渦に引き込んだ。

 悲痛な眼差しをむけるセラナの表情に、なぜかしらセサルの顔が重なって見えた。傷まみれの姿をしたセサルはテオに何かを訴えようとしきりに口を動かしていた。それは決して声を伴わない幻であったが、テオは一瞬己の名が呼ばれた気がした。


「幻覚に溺れおったか……」ジベールが憐れむように言った。彼はヨナスが何故少年に幻覚を見せたのか理解できないでいたが、今のテオはヨナスの見せた幻に翻弄されて虚ろな表情でうずくまっており、当面彼の脅威には成らぬと判断した。


「何故、こんな酷い事が出来るの!」組敷かれたままの体制でセラナが吼えた。それをあざ笑うかの如くにジベールは少女に絡めた腕にさらに力をこめた。

 ぐぅと咽をつぶされた様な声を上げてセラナが黙り込むと、ジベールは満足そうに笑みを浮かべながらその場に居合わせた者達の事を見渡した。


「感じるか、森中の影共の呻きを、血に飢えた獣達の息遣いを…………」ジベールは口角を不気味なほどに吊り上げると、狂気じみた声を発した。

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