第41話 北の荒野をゆく(六)

 みすぼらしい形をしたジベールが木々の間を駆け抜けていった。木の根に足をとられそうになりながら、時折立ち止まって不安そうに周囲を警戒する。


 猩猩(しょうじょう)や狼の争う音ももはや聴こえず、この不吉な闇の中を随分と奥深くまで入り込んでしまったようだ。不用意である。この薄気味悪い森の奥には如何な穢れや妖物が待ち構えているか知れたものでは無い。


 だが今のジベールには自分の置かれた境遇を冷静に判断する余裕などなかった。失印に侵された顔面は一面赤い大きな痣に覆われ、片側の瞳は酷く膿んだように澱み、残されたもう片方の瞳はまっかに充血している。


 砂漠狼の三日月に中ほどまで食い破られた右腕もいつの間にかもげてしまい、森を逃げ惑う最中に何処かへ落としてしまったのだが、ジベールはその事にすら気付ておらぬ様子で、ただ闇雲に前へと前へと歩み続けていた。

 木洩れ日の中に浮かび上がるその姿はもはや人とも思えぬ有様であった。


 今やジベールの心は恐怖と混乱に支配されていた。今、彼が認識できる事といえば彼を追ってくる獣の足音と、その背後に迫る深緑の瞳をもつ影の存在だけであった。


 どのくらいこの森を彷徨い続けたのか定かではなかったが、ジベールはついにその歩みを止めると、一本の巨大な木の根元に倒れこんだ。この大荒野には珍しい樫の木の巨木だ。


 薄暗い森の闇の中で彼は暫くそのまま蹲っていたが、不意に背後を振り返ると背を木肌に擦り付けながら震え、そしてまだ見える方の眼を不気味なまでに見開かせた。


 暫くすると闇の向こう側から落葉を踏みしだく軽やかな足音が聞こえてきた。その足音はやがて息遣いを伴うようになり、目の前の倒木の向こう側で一度止まると一足とびにその上に駆けのぼった。

 木漏れ日に姿を現したのは白い毛並みに逆三日月の斑を持つ砂漠狼の三日月であった。


(……コ……ワ……イ、コ……ワ……イ……)

 ジベールは背中を丸めながらまるで子供のように怯え、ただ同じ言葉を何度も繰り返した。その声はやがて聞き取れない程にか細くなり、あとはただ膝を抱えたまま上目遣いに狼の背後の暗闇を見つめていた。


 ジベールは目の前の狼を恐れ、それ以上に遠くの闇の中に紛れて彼を追ってくる、狼とは別の何かの存在を恐れた。それはこの森にあるどの闇より濃い影の凝縮した霧のように彼には見えた。


 やがてその霧は砂漠狼の背後の倒木から湧きあがると暫くその場に留まっていた。中心には砂漠狼の瞳とよく似た二つのきらめきがあったが、ジベールはそのきらめきが無性に嫌で堪らなかった。


 やがてその影の霧は空中で一つにまとまると、かつてヨナスであった時の姿形をおぼろげながらも再現して見せた。だが今のジベールにはその事をどうこう考えるだけの知性は残されていなかった。


(……イ……ヤ……ダ…………)

 ジベールは呟いた。人の形をした影は再び霧の形に変わると、ジベールの視界をゆっくりと覆いつくしていった。




 霧に変じたヨナスが去った後、テオはセラナを助け起こし、倒れているホルンベルの元へ駆け寄った。いつの間にか猩猩達の気配は周囲の木々の間から消えてなくなり、砂漠狼達も何処かへ去った後であった。


 ホルンベルはベルナールともう一人の男と共に地面に描かれた円の中にいた。三人とも狼達に手ひどくやられた様子で、しかし矢傷をおったホルンベルを除けばその傷は見た目ほど酷くは無かった。


 少し離れたところでイブラヒムが精魂つきはてた様子で地面にへたり込んでおり、そこからさらに離れた場所には全身傷だらけのアマディオが寝転がっていた。


 生き延びた人間はこれだけであった。残る三人の内一人は一番最初に猩猩達に森の奥へ引きずり込まれたきり行方知れずで、あとの二人の亡骸は狼達の死骸の中に混ざって横たわっていた。


「ホルンベル……」テオが声をかけた。ホルンベルは苦痛に顔を歪ませながら声のする方を向いた。

「僕、行かなきゃいけない」テオのその言葉にホルンベルは黙って頷いた。少年は立ち上がると、ホルンベルの事を他の者達に託して茂みの向こうへと消えた。そしてセラナも一瞬心配そうな眼差しをホルンベルに差し向けたが、すぐさま少年の後を追った。




 テオは焦っていた。一刻も早くセサルの元へたどり着かねばならない。テオを導くものはヨナスの見せてくれた記憶の断片だけであったが、彼はその導きを信じると森の中を北へ北へと進んだ。


 テオが彼の頭の中にある幻の像と現実の景色とを比べながら慎重に方向を選んでいると、突然背後の茂みからセラナが飛び出してきた。


「私も行く!」セラナはそう言い放つとテオの顔を睨みつけた。彼女は眼に涙を浮かべながら、訳も分らず置いていかれた事に大層腹を立てている様子であった。


「急ごう、セサルのところへ」テオが言った。二人は寄り添うように森の暗がりの中を駆け抜けた。猩猩や砂漠狼達にまた襲われないとも限らなかったが、何故かそのような事など気にもとまらなかった。


 そしてどのくらい駆け続けただろうか、二人は森の北辺に辿り着いた。そこから少し西へ向かうとセサルが木の根元にもたれ掛かるようにして身体を休めているのが見えた。テオ達より先にセサルは二人の気配に気付いていた様子で、茂みから駆け出してきた二人を笑顔でむかえてくれた。


「セサル……」セラナは思わず声を詰まらせた。彼女はセサルがどんな状況に置かれているか知らなかったのである。全身のあちこちに突き刺さった木片が彼の衣服をずたずたに引き裂き、傷口からは今も弱弱しく血が染み出している。

 セラナは若者の為に何かしてやれることは無いかと考えたが、泥と血にまみれた若者の顔をじぶんの袖で拭ってやるほかは彼女にできる事は何もなかった。


「このままでいいんだ」セサルがしゃがれた声で言った。セラナはだまって俯くと、彼の腕にそっと手を触れた。

「テオ、そこに居るのかい?」セサルがセラナの隣を見た。どうやら視界がはっきりしないようだ。テオはセサルの正面に回り込むと、セサルが大きな声を出さなくて済むように顔を彼の口元に寄せた。


「私にはもうそんなに時が残されていない。君がもし私の想いを継いでくれるなら、記憶を、私の全てを君に伝えよう……」セサルはそう言うと、衣服のかくしに閉まっておいた小さな袋を取り出そうとした。

 しかし身体の自由は既に利かず、ただ顔を苦痛にゆがめるばかりであった。するとセラナが代わりに袋を取ってやり、それをテオに手渡した。


「これは?」テオが尋ねた。袋の中身はテオも知っていた。ニアブの森でセサルと集めた植物の種であった。


 セサルは一度瞬きをすると、この種をテオに託すと言った。そして彼の代わりにヨナスの生まれた古森を目指してほしいと頼んだ。それからセサルはヨナスがこの場に居ない事に気付いて、彼はどうしたのかとテオ達に訪ねた。


 セラナは顔を曇らせ、テオが小さく首を横に振って見せた。確かな事ではなかったがおそらくヨナスはもう戻っては来ないだろう。テオがそう告げるとセサルは残念そうに一寸の間瞼を閉じた。


「これで道を知る者は誰もいなくなってしまったね」セサルが言った。古森への道を知る者がいなくなった今、彼等の旅は終わったのだ。


 だが暫くの沈黙の後、テオは古森への道なら自分が知っていると言い出した。テオは森での乱闘の最中にヨナスが彼にみせた幻像のつづきを思い返してみる。それはヨナスが少年に託した最後の記憶であり、希望であった。


「森を出て真っ直ぐ北へ……」テオは独りごとのように喋り始めた。「双子岩を抜けて竜の背を西に下れば砂漠に出る、そこから山が見えるまで北へ進むと岩柱の並ぶ荒野の向こうに赤土の大地が見えてくる。その先にある丘を越えるんだ」テオは瞼を閉じれば彼が今、口にしたとおりの景色を何時でも見ることが出来た。


「テオ!」とセサルが言った。若者の顔は既に死人のそれのように蒼白であったが、彼の声には希望の響きが込められていた。

「ここより北を目指すなら、君は私の持つ記憶の全てを引き継がねば成らない……それがどういう事か分るね?」セサルのその問いにテオは黙って頷いた。


 少年の表情には強がりでは隠せぬ程の恐れと、そして不安が見て取れた。守り人としてのセサルの資質は二アブの森でアルジアと共に暮らした彼の記憶そのものにあるのだ。そしてそれをテオに引き継いでほしいと言う。


 かつて北の森のヨナスとその先人達が、連綿と大地に根差した神秘の記憶を引き継いできた事などテオには知る由もなかったが、彼はこれまでに分霊であるヨナスの記憶の断片を何度か覗き見して、そしてその度に彼自身の生来の記憶は酷く混乱をきたした。


 ニアブの森でセサルが何年生きてきたのかテオには分らなかったが、若者が見た目ほど若くも幼くも無い事をテオは直観で感じていた。

 たかが十年と少しばかり生きただけのテオの脆弱な記憶が、何十年か、あるいは百年以上を生きたかも知れぬ古森の住人の記憶を受け入れてなお、彼の記憶が少年の存在を確かたらしめるもので在り続ける保証など何処にも無いのだ。


 霧となったヨナスはここから先の旅は少年にとって過酷なものになるだろうと言ったが、それはつまりこの先の旅は己の存在を賭けた危険なものになるだろうと警告したのだ。

 そして瀕死のセサルによって今まさにその選択が迫られている。セラナの手にした種入りの小さな袋を手に取れば、少年の全てを掛けた旅は始まってしまうのである。


「僕には、荷が重過ぎる……」テオが珍しく弱気を口にした。セサルは少年の言葉を肯定も否定もせず、しかし種を蒔くだけでは駄目なのだと教えた。


「私がやる」セラナが言った。彼女はテオやセサルほど、この旅の目的の何たるかを理解していなかったが、セサルやヨナスの想いとテオの苦悩とは肌で感じ取っていた。

 ならば少年の背負うべき苦難の幾らかでも自分が肩代わりしてやりたいと彼女は考えた。だがしかし、セサルは彼女の申し出に対して首を縦に振らなかった。


「君はあの森の事を知らない」消え入りそうな声でセサルが言った。あの森とはニアブの森を指して言ったのだ。彼はテオを見つめると再び口元を微笑ませた。

「私はね、君の事を随分昔から知っていたよ。森の中の川で君を助けたよりもずっと古くからね……」セサルは宙を仰ぎ見た。


 若者は今、目の前にぼんやりと霞んで見えるテオの顔に古森で遊ぶ一人の幼子の顔を重ね合わせていた。彼自身が愛した二アブの暗い森の中に散らばる小さな命の一つ一つに目を輝かせている幼子の顔だ。




 アルジアに拾われ、育てられた自分にはおそらく何か欠けたものがあるのだろう。セサルは物心ついた頃からずっとそんな気がしていた。


 森の民達との暮らしの中で、彼等は常に自分に敬意をもって接してくれたが、それは友に払う敬意ではなく、畏敬の念であった。だから彼はいつも一人で森にいた。

 心休まるひと時を得たいと思えば、誰もいない森の一画で鳥の声を聴き、鹿を追い、虫や花や空を愛でた。


 だが、そんなある日の事、森で遊ぶ一人の子供を見かけた。服装からして森に住まう民ではなく周辺の沢で暮らす山の民の子だ。まだそう年端もいかぬ男の子であった。


 それからこの少年を度々森の奥で見かけるようになった。少年はおなじ世代の子供達と森に来ることもあったが、普段はよく一人で遊んでいた。


 セサルはその姿をいつも遠目に見守りながら、何故彼がいつも楽しそうにしているのか観察した。はじめの内は分からなかったが、やがてそれは少年の好奇心だと理解した。

 花を愛で、虫を追い、落ちていた枯れ枝で灌木の枝葉を払う。少年は、たとえ森の中で一人遊んでいるときも孤独そうには見えなかった。彼はあの森の全てが好きなのだ。


 ある時、その少年が沢に落ちたところを助けた事があった。たいして危険があったわけではなかったが、その頃の水はひどく冷たかったのを覚えている。セサルは焚火の前で呆然とする少年に寄り添い、どこから来たのか聞き出し、彼を家の近くまで送り届けてやった。


 別れ際、それまでほとんど無口だった少年が、一度だけ振り返ると一言ありがとうと述べた。そして少し照れくさそうにはにかむと、彼は家の方へと駆けだした。


 ありがとう――屈託のない笑顔でそう言われたのはいつ以来だろう。たしか物心ついた頃にアルジアが些細なことで彼をほめてくれたことが度々あったが、その頃は彼女の笑顔をよく目にしたと記憶している。そしてその笑顔をみると彼自身も掛け値なしに笑う事ができていた。随分と古い記憶だ。


 それからも森でその少年を何度か見かけた。相も変わらずいつも森の中を楽しそうに散策していた。そんな少年の姿を見ていると、何故かはわからないがセサルは自分の事を少し理解できる気がした。自分も人の子なのだと。


 そして月日は流れた。今の彼は久しく見かけないでいた少年と一緒に旅をしている。相手が自分の事を覚えていてくれたかはわからないが、セサルはテオと出会ってすぐに「あの時の少年だ」と確信した。自分と同じようにニアブの森を愛してくれた少年だと。


 そして今、もしセサルの意思と記憶を継いでくれる者があるとすれば、それは他の誰でもなくテオ唯一人なのだと彼は信じていた。

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