始まりの森

第42話 始まりの森(一)

 セサルはテオとセラナを送り出すと静かに眠りに付いた。その若者が再び眠りから覚めたかどうかを知らぬまま、テオとセラナは北を目指して旅をつづけた。だが二人が森を発つ前に彼等は少々不可思議な光景を目の当たりにする事となった。


 セサルが最後の気力を振り絞ってテオに彼の記憶を伝えようとしたまさにその時、茂みから一頭の砂漠狼が姿を現したのだ。

 狼は痩せてはいたが、艶のある白い毛並みをした大柄の雌であった。胸元には見事な逆三日月の斑紋があり、その瞳は深い緑色の輝きで満たされていた。


 テオもセラナも、そしてセサルまでもが咄嗟に身体を強張らせたが、砂漠狼は頭を垂れるようにして静かに近づいてくると、セサルを慈しむようにその頬を二度三度と舐めた。狼はすぐにその場を離れると一度だけ振り返り、そして森の外へと去っていった。


 あれはヨナスだとテオが言った。セサルも無言で頷いた。セラナは狼がヨナスである筈がないとテオに言ったが、あの印象に残る深い緑の眼差しは、あるいはヨナスのものかも知れぬと心の何処かで信じかけていた。


 それから少しの間、セサルとテオの間でなにかしら重要なやり取りがなされ、セラナはただ静かに見守っていた。それが何なのかこの時の彼女には知る由も無かった。


「僕はここまでだ」そう言ってセサルは瞼を閉じた。セラナはセサルの事をテオに任せると、一旦ホルンベル達を探しに出た。森のひらけた一画で見つけた彼らはちょうど死んだ者達の弔いを済ませた所であった。


 セラナはホルンベルに水と食料、それに馬を一頭分けてくれるよう頼んだ。するとゴロツキ風の男が彼の死んだ仲間の馬を一頭引き連れてやってきた。

 アマディオである。彼は手綱をセラナの手に委ねると鞍に水と食料、それに毛布の束を括りつけてくれた。


 セラナは傷の手当を受けているホルンベルに別れを告げ、イブラヒムと共にテオ達の待つ場所へと戻った。途中、テオと二人で荒野をさらに北へ向かうつもりである事を打ち明けたが、イブラヒムはあまり多くを尋ねようとはせず、セサルの世話を引き受けてくれた。




 テオとセラナは森の外れでセサルと最後の別れを交わしてから、ヨナスが幻覚の中でテオに示したという古森までの道程を信じてひたすら北を目指した。


 その記憶は概ね正しく、十日ほど歩き続けると荒野の向こうに大きな双並びの岩山が現れた。馬を連れてその間を通り抜けると、先にはまた荒野が広がっていた。


 ちょうど岩山を抜けた辺りが小高い丘の頂になっていて、その丘の背にそって綺麗に並んだ岩柱が遠くまで連なっていた。テオの見たという竜の背だ。彼らはその丘を西側へ下り、また何日も荒野を歩き続けた。


 この頃になるとテオは酷い幻覚に苛まれるようになっていた。セサルの守り人としての資質を受け継ぐと決めたときに覚悟していた事だが、二アブの森で育まれたセサルの膨大な記憶がテオのこれまで紡いできた記憶を凌駕し始めたのだろう。


 少年は夜昼問わずに襲いくる幻覚の中で次第に言葉を失い、奇行が目立つようになった。陽のある内は燃え立つ陽炎の向こうに泉を見つけて駆け出し、夜になるとその場におりもせぬ獣の群に怯える日々が続いた。


 セサル達と分かれて二十日以上が過ぎた。二人の立つ丘の向こう側はかつてテオが言っていた通りに何処までも砂丘が連なって見えた。この頃になるとテオは完全に言葉を失ってしまい、常に脅えた眼差しを四方に配りながらセラナの背に隠れるようにして旅を続けていた。


 セラナが丘をくだって砂丘地帯へ歩み出そうとすると突然テオが奇声を発した。セラナが振り返ると少年は酷く取り乱した様子でその場へうずくまった。その様子に馬が脅えてしまい、仕方なしにセラナは少年と馬を連れて今いる丘の反対側まで引き返すと、そこで一晩を過ごす事にした。


 翌朝、セラナは嫌がるテオを何とかなだめすかして丘を越えた。砂丘地帯はネビアの南にあるそれよりも遥かに広大であった。風は絶えず強く吹き、刻一刻と地形がかわる。厚い砂の層に足を取られて歩みは一向にはかどらなかった。


 テオの奇行は砂漠に足を踏み入れてからは幾分鳴りを潜めたものの、彼の正気が果たしてどの程度残されているのか、セラナにはその事が不安でならなかった。セラナはテオと己の胴を細縄で結わいつけ、馬の手綱をひいて先を急いだ。


 時には流砂をおおきく迂回して進み、水も火を焚く薪も乏しい中で幾晩もの夜をやり過ごした。そして過酷な日々の連続にいつしかセラナまでもが幻覚を見るようになった。


 目の前の砂の頂に生き物の姿を見出し、稜線を越えるたびに遥か遠くに小さくゆらいで見える森の幻が決まって姿を現すのだ。セラナは何度もくじけそうになりながら、それでもおのれが正気を保たねば彼女と少年との旅はここで終わるのだと自分に言い聞かせた。


 それからさらに日が過ぎた。セラナには二人が越えた丘や迎えた朝日の数など何の意味もないように思えてきた。


 あるとき砂丘を下った辺りで馬が歩みを止め、セラナがその手綱をどのように引こうとも馬は先へ進む事を頑なに拒絶した。仕方なしに馬を荷から開放してやると、セラナは持てるだけの水と食料を身につけて少年との旅を続ける事にした。


 持ち切れない分の水を馬に全て与え、二人は再び歩き始めた。砂の斜面を登りながら時折後方を振り返ってみたが馬は何時までも同じ場所に留まっていた。




 容赦なく照り付ける日差しにテオだけでなくセラナまでもが意識を朦朧とさせ、それでも二人は歩き続けるしかなかった。食料はそう多く残されておらず、水も何時まで持つか分らぬまま、ただ黙々と歩き続けるほかなかった。


 進むべき方向はとうに見失い、旅の目的が何だったのかすらも分らなくなり、ただ前にすすむ事だけが二人に課せられた使命であるかのように思えてきた。


「少しずつ飲みなさい」セラナが言った。彼女は残り僅かとなった水の殆どを少年の為に取っておいた。

 軽くなった皮袋の飲み口をテオの口元に押し当て、少量だけ流し込んでやる。その口元からこぼれた僅かばかりの水を指先で拭いとり、それを己の乾いた唇へそっと押し当てた。少女はもう何日もまともに水を口にしていなかったが、指先のひと湿りだけでも不思議と潤される気分になった。


 砂漠の夜は暗く、そして寒かった。セラナはテオの身体を己の外套で包み込んで、その肩を優しくあやすようにトントンと叩いてやった。少年は空ろな眼差しを砂の上に向けたまま黙り込んでいた。


 セラナは少年に身体を寄せながら空を振り仰いだ。闇一色の砂の大地の上には満天の星空が拡がっていた。商人達は星の相を頼りに砂漠を旅すると聞いた事があるが、少女にはただの小さな輝きの集まりにしか見えなかった。


「きれいね」セラナが言った。その言葉はテオの返答を期待したものでは無かったが、それでも隣に少年がいると思うと無意識に語りかけてしまうのだ。そうする事で己が一人でない事を実感すると、何故かしらもう一日だけ旅を続けてみようという気が沸いて来た。


 だがこの時はテオが珍しく彼女の問い掛けに言葉を返した。その言葉は弱々しくてよく聞き取れなかったが、セラナの耳には心地よく響いた。

 また幻でもみているのかしらんとテオの様子を覗きみると、少年の目にはいつものような脅えや興奮の兆しは読み取れなかった。


 少年は穏やかな眼差しを夜闇の向こうへと向けていた。セラナがどうしたのか尋ねると、彼は右手の人差し指で暗闇の先を指し示した。

「……ヨ……ナス…………」テオが再び口を開いた。彼は確かにヨナスと言ったのだ。その言葉にセラナは心を振るわせた。


 何故自分達が旅をしているのか、それを思い出したからだ。セラナは少年の指差す先を見た。闇の中から小さな一対の瞳が彼等の事をじっと見詰めていた。深緑の光を秘めたその瞳はセサルと別れた森の外れで出会った一頭の砂漠狼であった。


「ヨナス……」セラナは今度こそ、この砂漠狼がヨナスの化身であると信じてみる気になった。砂漠狼はゆっくりと二人の傍へ近づいてきた。

 狼は差し出されたテオの指先に耳の横を擦り付けると、その腕の下に潜りこむように頭をくぐらせた。そして二人の背後へとまわりこみ、子供達の背に寄り添いながら身体を横たえさせると、セラナの脇腹の辺りから長い鼻頭を覗かせた。




 砂漠狼の三日月は前方に見える砂丘の稜線の向こうへと消えた。セラナがテオをつれて砂丘を登り切ると、三日月は反対側の斜面の途中で立ち止ってこちらを見ていた。


 セラナは何度か三日月に待つよう言ったが、三日月は一定の距離を保ちながら先へ先へと進み続けた。それはまるで子供達を何処かへ導こうとしているようであった。


 セラナ達が休息を取ろうとすると三日月も遠くで休みを取り、子供達が立ち上がるとまたそっけない素振りで二人の遥か前方を歩き始めるのだ。だが夜になって仮眠を取る頃になると三日月も必ず傍へやって来て、二人と一頭はお互いの身を暖め合うように寄り添いながら眠りについた。


 そんな事の繰り返しを四日ほど続けていると次の日の朝には砂丘地帯を抜けた。今、二人の目の前に拡がるのはひび割れて乾燥した大地だ。


 そしてこの日もテオとセラナは三日月の後を追うように歩き続けた。気が付くといつも遠くに見えていたはずの山並みが今は随分と近づいて見えていた。さらに二日歩き続け、淡泊で味気なかった地面の色がやがて赤茶けた色味を帯び始めた。


「森が見えたわ……テオ、森よ!」セラナが叫んだ。思わず走り出そうとした少女の動きに、紐で胴を繋がれていたテオは身体を前につんのめらせた。その反動で少女も背後に引き倒されるように尻餅をつき、互いの頭を強く打ち付けた。


「いたぁ」セラナは後頭部を手でさすりながらゆっくりと身体を起こした。テオも額の辺りを押さえて蹲っていた。


 セラナは二人の身体から縄を解き、身体に巻きつけていた荷を降ろした。土埃で汚れた膝を払いながら起き上がると、二人の近くに三日月の姿は無く、赤い大きな岩の向こう側に小高い丘が見えた。

 そしてその丘の斜面には痩せた木が何本も立っており、木々の間には疎らであったが下草が生えているのが見えた。


 セラナは冷静になって改めて見る森の姿に少し幻滅すると、地面に散乱した荷物を拾い集めた。僅かに残されていた水を一つの皮袋に集め、保存食の包みが二つあるのを確かめるとそれを自分の背嚢へと詰め込んだ。残りの荷物はその場に打ち捨て、テオの手を取ると丘の頂をめざした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る