第43話 始まりの森(二)

 セラナは斜面を登る途中、向いから吹く風の中に芳醇な土の香りが含まれている事に気付いた。斜面を登りきると、その向こう側に広がる景色にしばし唖然とした。鬱蒼とした森が何処までも広がりを見せているのだ。


 二人は心の高ぶりを抑えながら、ゆっくりと斜面を下り始めた。彼等が歩き続けてきた側の斜面とは対照的に、丘の反対側の斜面には丈の高い草が茂り、森へと続く野分け道ができていた。

 そしてその道のなかほどに砂漠狼の三日月の姿があった。三日月はやはり二人のやって来るのを待っていてくれたのだ。


 セラナはテオの手をひくと三日月の後を追った。森へ踏み入れた途端、強くむせ返るような植物の香りに満たされた。頭上を振り仰ぐと幾重にも折り重なった枝葉が降り注ぐ日差しを柔らかなものに変えてくれた。


 三日月を見失うまいと森を奥へ奥へと進んでいくと、二人は猩猩(しょうじょう)の群に遭遇した。猩猩達は森中の闇の至るところに潜んでいたが、セラナ達がすぐ傍を通り抜けようとしても闇から顔を覗かせてこちらをのぞき見つめるばかりで、特に何もしてこない。そして彼女達が通り過ぎるとまたすぐに興味をなくした様子で森の茂みの奥へと姿を消した。


 セラナは猩猩の顔が間近に現れるたび、荒野の森で襲われた時の記憶がよみがえってきて身体が強張るのを感じた。だがこの森に巣くう猩猩達の眼には僅かな狂気すら感じとることは無かった。


 森に存在する闇のどこを見渡してもそこには微塵の不気味さも存在しない。彼女はヨナスがかつてあの荒野の森を精霊達から見放された土地なのだと言ったのを思い出した。そして何の為に自分達がここまで旅を続けてきたのかを今になってようやく理解した。

「テオ……」セラナは無意識に少年の名を口にすると何故かしら涙が溢れ出した。




 最後の丘を越えてからどれほど歩いたか定かではないが、随分と森の奥深くに達しているはずであった。二アブの森のそれよりはるかに濃厚な土の香りで肺はむせ返り、砂漠の旅でひび割れた肌に湿気が纏わり着いて空気がひどく重く感じられた。


 セラナはテオの手を引きながら目の前を行く狼の背を見失わないように黙々と歩き続けた。ひときわ大きな倒木を乗り越えると、その先に明るく開けた場所を見つけた。


 野分道を光の見える方へ進むと、ちょうどその周囲だけ樹冠が大きく抜け落ちた窪地に出た。そしてその窪地の手前に一人の人影が立っているのが見えた。


 人影はこんな辺鄙な森にセラナ達がやって来た事にこれといって驚いた様子も見せず、ただ黙って彼等の近づいてくるのを待っていた。近づくにつれ、その人影がヨナスと似た面立ちであるのが知れた。


 おそらく彼が古森のヨナスなのだろう。テオやセラナの知るヨナスと同じ深緑の瞳の周りには深く乾いた皺が無数に刻まれており、伸び放題の髪や口髭は気持ちのよいほどに白一色であった。


 セラナ達の少し前を歩いていた砂漠狼の三日月が足並みを速めた。彼女はセラナ達を残して人影のある方へと駆けていった。


 三日月は老人の足元に纏わり付くと、何度もその周りを回っていた。ヨナスに似た老人は屈みこむと、突き出された三日月の鼻面を皺だらけの掌で包み込んでやった。


 老人はセラナには良く分からぬ言葉で三日月に語りかけながら、三日月の耳の後ろや首周りに手を這わせて撫でていた。三日月も動き回るのを止めると老人の前に前足を投げ出して座り込み、そろいの色をした瞳を嬉しそうに見詰め返した。


「ヨナス?」セラナが声を掛けると老人は三日月を構うのをやめ、静かに立ち上がった。老人は彼女の問い掛けには答えず、代わりに手招きでついて来るよう促した。




 子供達は老人の暮らす小屋に招かれた。テオは宛がわれた寝台の上ですでに安らかな寝息を立てており、セラナは火の焚かれた暖炉の傍で老人と隣り合うように椅子を並べて座っていた。

 そしてこの老人が何者であり、また何故この森にひとりで暮らしているのかを聞かされた。彼は自らをヨナスと名乗った。その声は彼女の耳にではなく頭の中に直接語りかけてきた。


 老人は彼女の知るヨナスが老人によって生み出された彼の魂を分かつ存在であると言った。セラナ達の知るヨナスは老人の分霊であり、分霊のヨナスはこの老ヨナスの見た夢占に従って旅に出たと言う。


 結局、分霊のヨナスは自ら使命を全うして再びこの地を踏む事は適わなかったが、代わりに彼の記憶に触れた砂漠狼の三日月がテオとセラナをこの森まで導いてくれたのだ。


 また老ヨナスは三日月を通して自らの分霊であったヨナスの最後の記憶と、そして彼が託した想いをいくらか読み取る事ができたとセラナに伝え、傍らに控えていた砂漠狼の首の辺りを労わるように撫でてやった。


 老ヨナスはまたニアブの森のアルジアの事にも言い及んだ。老ヨナスも彼の分霊であったヨナスも、アルジアと彼女の住む森については何も知らないでいたが、ニアブの森はかつて老ヨナスが送りだした分霊のひとりが拓いた森であるらしかった。


 そしてアルジアの知るヨナスは、彼女の元へ留まる事を選んで結局この古森へ還る事はなく、だから老ヨナスはアルジアや彼女の庇護の元で暮らす森の民の事、そして彼女の森を今まで知らずにいたのである。


 そもそも分霊とは、森をみまもる守り人が大地の精の助力を得て自らの写し身を創り出す技であり、老ヨナスだけでなく歴代の守り人が幾人もの分霊を世に送り出してきたのだという。

 守り人はこの森に帰り着いた分霊達の記憶と言葉によって外の世界を知り、時には自らの分霊に新たな土地を求めて旅をさせるのであった。


 やがて二人の会話は老ヨナスの見たと言う夢の話の詳細に及んだ。質問をしたのはセラナであった。彼女はなぜセサルがこの地を目指し、その若者の意思をテオが引き継がねばならなかったのかを知りたがった。


 彼女の問いに老ヨナスはふむんと一度頷くと、まず老ヨナス自身がいかにしてこの森の守り人になったかを語り、それから彼が夢でみた森の行く末を彼女に話して聞かせた。そして夢の最後に出てくる老人の傍に立つ小さな人影の事を話すと、寝台で静かに眠る少年に目を向けた。




 夜が明けてセラナが眼を覚ますと、小屋の中にヨナスの姿は無かった。

 セラナはテオを起こして外套を着せると小屋の外へ出た。そこは古森の奥深くであったが、彼女達のいる窪地の周囲の樹冠だけ大きく穴が開いており、そこから眩い陽光が地面に降り注いでいた。


 窪地の中心には楕円形をした小さな泉があり、その傍らに老ヨナスと狼の三日月の姿があった。セラナはテオの腕を引いて窪地の底まで降りてくると水面を覗き込んだ。深さは思ったよりもありそうで、光の加減のせいかその水は不思議な色合いを湛えていた。


 セラナのすぐ後ろに立っていたテオは水面を眺めながら時折笑みを浮かべた。セラナは不思議に思い、少年の見ている辺りを同じように眺めてみたが、そこに見えるのは太陽の光を湛えた泉の揺らめきだけであった。


「きゃぅ!」セラナが悲鳴を上げた。背後からこっそり忍び寄って来た砂漠狼の三日月が二人の間から突然頭を突き出したからだ。三日月は甘えるように身体を二人にこすりつけた後、泉の畔へ佇んで長い口先から舌を出して水を舐め始めた。


 セラナはテオを連れて老ヨナスのいる場所へ向かった。ヨナスはかつて巨木のあった辺りに立っていた。その名残は根元が残るばかりで、後は幾つもの破片となって周囲に横たわっていた。ヨナスが夢のお告げとして昨晩彼女に語って聞かせてくれた話はすでに現実として起きてしまった後なのだ。


 セラナはヨナスの傍に立つと頭上を見上げた。この鬱蒼とした森の中にあってそこだけ天の底が抜け落ちたかのように青空がひろがっていた。彼女はその穴の大きさから、かつてそこにあったはずの巨大な木の姿を思い描いてみた。


 するとどうしたことだろう、すでに倒壊した巨木の根元の辺りから幾つもの若い芽生えが興り、その芽生えの一つ一つが互いに絡み合いながら、ものすごい速さでかつて巨木が占めていた空へと向かって伸びていくではないか。


 それらの幹はねじれながら複雑に絡み合い、やがてひとつの巨大な木の姿となってセラナの前にそびえたっていた。その圧倒的な存在感を前に、彼女はただ茫然と立ち尽くし、彼女のすぐ傍らでは老ヨナスが目に微かな涙をたたえながら一言“大樹”と口にした。


 気が付くと目の前にはまた晴れた空がひろがっていた。先ほどの巨木は老ヨナスが一瞬だけセラナに見せてくれた、在りし日の大樹の姿の幻であったのだ。

 セラナはテオの手を取ると老ヨナスに促されて、かつて大樹の立っていた場所の中心へと足を踏み入れた。


 台状に残された大樹の根元の外側はかなり石化が進んでおり、外縁部の樹皮が自然に出来た円形の石壁のように取り残されていたが、そのいたる所に出来た亀裂の一つから内側に分け入る事ができた。


 大樹の根元であった部分は中心に行くほど腐食が進んで、所々地面に空いた洞のように大きく崩れ去り、足元には朽ちて分解されかけの木屑や落葉が堆積していた。


 セラナはテオを近くに呼び寄せた。そして少年の真向かいに立つと彼の首からぶらさがっていた小さな袋を外した。彼女は袋の中身を取り出し、それをテオの手に握らせた。それは大小様々な形をした、二アブの森で集めた種であった。


 セラナは足元の腐植した土を一度手で解してから、それを再び平らに均した。そしてその上から人差し指で幾つもの小さな穴を開け、彼女のする様子を黙ったまま不思議そうに見つめていた少年に、ここへ種を植えるのだと根気よく説いて聞かせた。

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