第27話 分霊のヨナス(三)

 ホルンベルがアラナンドの街を発ったのは四日後であった。この頃には頭の中に流れ込んだ誰かの記憶とも折り合いが付くようになっていた。


 朝早く宿舎の裏手の厩から己の愛馬を引き出すと、見送る者も無いまま寺院を後にした。貧民街を抜ける途中で見知った顔を何度か見かけたが、わざと気付かぬ素振りでやり過ごすとそのまま街の東門へと向かった。


 結局、子供達をあずけてから街を出るまでの間、ホルンベルとテオ達が直接顔を合わせる事は無かったが、彼が寺院に移ったその日の夕刻にはミアを介して事情は二人に伝えられていた。


 その伝言の中でホルンベルは少年にヨナスの世話をするよう頼んだ。ヨナスの出自に関する話は省略して、彼の療養に必要な調薬の手順を紙に記してミアに手渡しておいたのだ。


 テオは最初その書置きを見せられて小首を傾げた。紙に書かれているものは病人の薬というよりは鎮魂の祭壇に備える為の香薬の調合に似ていたからだ。

 少年は手紙をもたらしたミアに調薬の種と道具を揃えるように頼むと、一人でヨナスの待つ天幕へ向かった。


 天幕の中では酷くやつれた身形の男が身体を横たえていた。ランプの灯りに照らし出されたその姿を目にして、ホルンベルの書き残した指示の内容にようやく合点がいった。


 横たわるヨナスの身体には時折影のような瘴気が纏わり付いてみえたのである。その影は常人であれば殆ど見落とす程度の淡い揺らめきに過ぎなかったが、影祓いとしての手ほどきを受けていたテオには見まごう事なき影の揺らめきであった。


 テオはヨナスの傍らに屈むと、息を呑みながら男を観察した。掛け布の上に組まれた手や腕の質感は生きている者のように思えた。呼吸の音はほとんど聞き取れなかったが、胸の辺りが微かに上下しているのを見ると男は確かに息をしていた。


 そのまま視線を男の顔の方へ向けると、眠っていると思っていた男と目が合った。皺深い目元が微かに狭められ、瞼の奥から深い緑色を湛えた瞳がテオの事を見ていた。


「僕はテオ……」少年はそう口に出すと、己の事を指先で指し示した。ホルンベルの書置きには古い言葉で話すように書かれていたのだが、テオは余り得意ではなかった。呪い(まじない)を記す言葉として読み書きを一通り習ってはいたものの、まさかその言葉で誰かと意志の疎通を試みる事になるとは思ってもなかったからだ。


 暫くするとミアが薬草とそれを磨り潰す為の道具を天幕に運び入れてくれた。彼女の少し後からセラナも顔を覗かせる。


 テオはセラナに香を焚く準備を手伝うように言った。少女は荷物から携帯用の小さな香炉を取り出すと地面の上に置いた。上蓋を取り去って中の灰溜まりを水平に均したあと、小さな板状の炭片を香炉の中央に一枚ずつ重ねていき、最後に炭片の一切れを手に取るとランプの炎を移してまた香炉の中へと戻した。


「どうして香を焚くの?」セラナは尋ねた。彼女は影祓いとしての手解きを受けてはいなかったが、マルセン達と共に過ごす内に彼等の儀式の幾つかは傍で見て覚えていた。そしてテオが今煎じている薬草の香りに覚えがあった。


 テオは黙ったまま、すり鉢に差し込んだすりこぎ棒を一定の律で動かしながら、ときおり数種類の薬種を少量ずつ鉢の中に落とし込んでいった。


「それ、沈静香でしょ?」セラナがテオの手元を覗き込んで言った。少年が棒を動かすたびに微かに鼻をつくような、そしてどこか黴臭い香りが立ち上る。


 それは霊や影人達を一時鎮めておくのに影祓いが用いる薬香の香りであった。テオはホルンベルの指示であると述べ、懐から一枚の紙切れを取り出した。彼はそれを少女に渡すと、セラナの用意してくれた香炉を手元に引き寄せた。


 灰溜まりの中央に小さく積まれた炭片にほどよく熱がまわり、微かな赤みを帯びてくる。テオは細い鉄製の棒の先端で炭の山を少しだけ崩すと、中に空気の層を含ませ、上から細かくすり潰した薬草片を静かに振りまいた。


 すぐに微かな煙と共に香の香りが天幕を満たし始めた。

(良い香りだ……)身体を横たえたままのヨナスが口を開いた。テオは相手が何と言ったのかよく理解出来ないでいたが、それでもどうにか意思の疎通を図ろうと昔習った古い言葉を何度も思い返した。

(ホルンベル……彼が、貴方の世話、するよう言った)テオはそれだけの単語を何とかひねり出すと、後は黙り込んでしまった。

 ヨナスは上を向いたまま黙って目元を綻ばせ、天幕の内を満たしていく薬香の香りに心を遊ばせた。




 ホルンベルがアラナンドの街を発った日の夕方、アラン達のいる寺院にバローネ商会の使者が現れた。アマディオとベルナールを先頭に軽装備で身を固めた傭兵風の男達が四名続く。そしてその最後尾には濃紺の法衣を身に纏ったジベールの姿があった。


 彼等は断りもなしに敷地内へ踏み入ると、廊下に面した扉を片っ端から検めながら奥にある広間までやってきた。


「我等が集いの場に何用があって参られた?」その場に居合わせた年配の主幹の男が前に進み出た。広場に居合わせた信徒の多くが何事かと乱入者達を取り巻き、皆その傍若無人な振る舞いにいろめき立っていた。


「ここへ塚人の印を持つ者が訪れた筈だ。その者と話がしたい」ジベールが言った。彼はその者がとうに街を去っているのを見張りの者から聞かされていたが、あえてそう言うと一同の者の様子を探る様に見回した。

 年配の主幹の男も突然ふってわいた話に訳が分らぬと言った様子で、寺院に詰めていた信徒達の顔を見回した。


「その者は私の客人です」信徒経ちの人だかりの背後からアランの声がした。アランは廊下の暗がりから広間へ入ってくると年配の男に会釈をした。

 年配の男も軽く会釈を反し、その者は何者かと尋ねた。アランはホルンベルの素性を明かし、かつて彼に荒野で助けられて以来の付き合いであると説明した。


「数日前ですか、夜中に私の元を尋ねて参りました。彼は暫く街に留まった後、今朝方ネビアへと戻ったはずですが……」アランは当たり障りの無い事だけを告げ、込み入った話であれば場所を変えるようジベールに持ちかけた。


 アランは自分に宛がわれた部屋があると言い、相手の出方を待った。アマディオとベルナールはジベールの判断を伺うために法衣姿の男を見た。ジベールは静かに頷くと、部屋まで案内するよう促した。


「それではヨース大兄、それに兄弟姉妹の方々もお騒がせした」アランは広間に会した一同に視線をめぐらせると、後列に控えていたミアに一瞬だけ目を留め、そしてすぐさま踵を返すとジベール達を彼の部屋へ案内した。




 アランがバローネの一行を連れて広間を出て行くと、残された者達は途端にざわめき始めた。彼等は訪問者達の非礼を口々に非難しながらそれぞれ勤めに戻って行った。


 その場に居合わせた者の中でアランからある程度の事情を知らされていたのはミア一人だけであった。彼女は去り際のアランの一瞥に託された想いを理解し、果たそうとした。


 子供達を逃がしてやらねばならぬ。ミアは早鐘のように脈打つ鼓動の音を意識しながら、なんとか周囲に悟られないよう気を静めて広間を出ようとしたが、ちょうど年配の男の傍を通り抜けようとしたところで呼び止められた。アランがヨースと呼んだ主幹の一人であった。


 ミアは息をするのも忘れてゆっくりとヨースの方を向いたが、相手の胸元を見詰めるとそれ以上視線を上げることが出来ずにいた。


「じき、講話が始まるはずだが何処へいこうというのか?」ヨースが尋ねた。ミアはどう答えていいか分らず、顔を俯かせると黙り込んでしまった。


 一刻も早く子供達の元へ向かわねばならぬと気ばかりが急いて、しかしその使命を押し通す為の嘘の一つも出てこない。元来人を謀る事にこの娘は向いていないのだ。彼女は心の芯が震え始めるのを意識しながら、それが両の手足にまで飛び火してしまいそうで喘ぐように口を開かせた。


「行きなさい」ヨースが穏やかな声音で言った。彼はミアの為に道を譲ると、夜にアランと共に彼の部屋まで来るよう伝え、あとは何事も無かったかのように広間の反対側の通路へと歩き去ってしまった。

 ミアはその後ろ姿に深々と頭を垂れ、彼女も足早に広間を後にした。




 廊下に面した部屋の一つにアランが入って行った。昼間であったが部屋の中はかなり薄暗かった。アランはすぐさま蝋燭に灯をともすと、バローネの者達に部屋へ入るよう促した。


 室内には荷物が殆ど置かれておらず、客人がなんとか全員入れるだけの広さがあったが、中に入ってきたのはアマディオとジベール、そしてもう一人の男だけであった。


「俺は外で待つ」ベルナールはアマディオにそう告げると、残る三人の男を連れて寺院の外へ出た。そのまま通りの反対側へ向かい、建物の影に身を落ち着かせる。ベルナールは傍に居た男の一人を呼ぶと、外で待機させていた他の仲間に伝言するよう指示した。


「めぼしい奴が出てきたら後をつけろ。手出しはするなよ」ベルナールに指示された男は黙って頷くと横手の路地へ入っていった。


 そしてベルナールともう一人の男はというと、建物の影で立ち話をする振りをしながら寺院正面にある石段を見張っていた。寺院の正面では信徒や旅装束の巡礼者が出入りを繰り返していたが、ベルナールはその中から先ほど広間にいた娘を見つけると、隣の男に目配せで知らせた。


 娘はミアであった。彼女はひどく顔を俯かせながらゆっくりとした足取りで石段を降りてきた。だがその歩く姿には不自然さがありありとにじみ出ていた。


「当たりですかねぇ」ベルナールの隣に居た男が呟いた。彼等がこれ見よがしに寺院の中で騒ぎ立てたのは、彼女のような者が現れないかと期待しての事であった。


 アマディオの元に街の東門で見張りをしていた者から報告があったのが数日前。夜中に霧の塚の影祓いが寺院に用があると言って一人で街へ入ったのだが、その後の足取りがまったく掴めずにいた。

 そこでアマディオ達は無作為に街中を探し回るのを止め、人手の割り振りを寺院の監視に絞ることにした。


 街には〈失われし光〉と関連のある施設は数多く存在したが、それらから彼等の共同宿舎や入信者達の為の教導施設に的を絞り、それぞれに人を張り付かせた。

 街の北側にある慈善施設も監視の対象になっており、浮浪者に身をやつした手下の者が連日目を光らせていた。


 葬儀の折に子供達の顔を見ている者をいずれの持ち場にも一人つけてあり、探している子供達が表に顔を出しさえすれば、すぐに知らせが届く手はずになっていた。そして知らせの来ぬまま四日が過ぎた。


 五日目の早朝、霧の帳の塚人は街を立ち去った。一頭の馬を連れ、一人で街道を東へ向けて発ったのだ。それからも監視の態勢は継続され、今も彼のあとを仲間の誰かしらがつけているはずであるが、肝心の子供達の所在は未だ掴めずにいた。


「今日で終わりにしようや」ベルナールは低い声で呟くと、寺院から出てきた娘の後をつけ始めた。もう一人の男も彼と同意見の様子で、少し距離を保ちながら彼の後に続いた。




 ベルナールや彼の同僚達は、実のところ十日以上にも及ぶ監視の日々に倦んでいた。ベルナールはアマディオと二人で人買いの商隊の一つを任されていたが、どうやらセラナは彼等の隊から逃れた娘と思しかった。


 つまりあの娘が逃げ出した事に関してベルナールはまったくの無関係ではなかったのだが、だとしても娘一人を追いまわすのにこれだけ手間隙かけたのでは割が合わぬと言うものである。


 娘がもし公然と逃げだしたのであれば話は別であったが、彼女は荒野で立ち往生した商隊から密かに逃がれたのだ。同じ商隊にいた奴隷達の中には他にまだ見つからぬ者もいたが、皆砂塵に撒かれて野垂れ死にしたものとされていた。


 だが娘は、理由は分らぬがネビアの娼館へ忍び込み、影祓いの少年の手引きで再び彼等の元から逃げおおせた。その折に何やらちょっとした騒動を起こしたようであったが、それとて実のところを知るものなど殆ど居ないのである。


 ベルナールのように長年この商売を続けていると、搬送中に虜囚が逃げ出す事などそう珍しい事ではなかった。命がけで事に臨んで逃げ果せたのであれば、それはその者の持つ運というものである。

 中には同情なのか、人買い自らがその裁量で目を掛けた者を解き放つ事さえあると言うが、その分を差し引いても十分な程に貢献してさえいれば、雇い主達もとやかく言わないのが彼等の渡世での流儀であった。


「どうやら、嬢ちゃん達の運も尽きたかな……」ベルナールがまた呟いた。寺院から出てきた娘は明らかに周囲を警戒しながら貧民街を北へ抜けると、外壁の小さな門の一つを潜りぬけた。


 壁の外側には〈失われし光〉の慈善施設が拡がっていた。門を抜けた辺りで娘は一度後方を振り返ると、突然駆け出して慈善施設の人混みに紛れ込んだ。ベルナールは舌打ちすると、連れの男に戻ってジベールに報告するよう指示し、彼は急いで娘の後を追った。


 人混みの中へ視線をやると、すぐに天幕の間を駆け抜ける娘の姿が目に留まった。あるいは感づかれたかも知れぬと考えたが、どうやらそうでは無い様子で、娘はわき目も振らずに人混みをかき分けながら前へ前へと歩き続けた。


 ベルナールは施設の西の外れ辺りで再び娘の姿を見失ってしまったが、その向こう側には天幕が数棟隔離されている一画があるのみであった。

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