第26話 分霊のヨナス(二)
翌朝、ホルンベルが再びヨナスの天幕を訪れると、老人は彼の来訪を敷き布の上に座して待っていた。
(尋ねたい事があります)ホルンベルは古い言葉でそう切り出すと、ヨナスの真向かいに腰を下ろした。それから片言の言葉で昨夜見た、記憶の断片が織りなした一連の移ろいについて彼なりに順を追って説明し始めた。
それは暗く、そして豊かだった世界がやがてやせ衰えていく幻灯芝居のようであったとホルンベルは言い、一連の像が彼に示したものは実際にあった光景なのかと尋ねた。
ヨナスは感心したとばかりに唸ると、それらは記憶の中では現実の事なのだとまた謎掛けのような答えを返した。
ヨナスは、彼自身もまたその記憶の時代を直接生きた訳では無いと教え、彼の創造主から与えられた記憶の断片から大地の相の移ろいを示すものを選りすぐり、像として青年に見せたのだと言う。
ホルンベルがヨナスの言う「与えられた記憶」とはどういう意味かと尋ねると、ヨナスはそれが文字通り他者の記憶だと告げた。それから北の古森に住むもう一人の老いたヨナスの事、そしてその先代の守り人達の事をホルンベルに話して聞かせた。
彼等守り人はその長い人生の中で幾度となく自らの分霊を森から送り出し、そのいくつかが再び主の下へ立ち返って外の世界の記憶をもたらしたのだと言う。
歴代の守り人達は荒野に取り残された太古の森に居ながら、この大荒野のあらゆる場所で行われた多くの命の営みを記憶として蓄積し、一つの叙事詩のように織りなし、そして連綿と引き継いで来たのだ。
ヨナスはまた記憶というものがどの程度現実の世界を現しているかは、その記憶を刻んだ者、あるいは受け継いだ者の感受性に大きく左右されるものだと言い、それは単に分霊たちの目を通して見えた世相を映した像であり、像がどの程度真実であるかはさして重要で無いと教えた。
(何れにせよ、かつて世界はより濃い闇と生命に満ちていたのであろう……その名残を今に残す古い森から私は来たのだよ)ヨナスはホルンベルを静かに見詰めた。そして他人から与えられた記憶の数々をわずか一晩で読み解いたホルンベルの気力と胆力を褒め称えた。
褒められた当の本人はというと、記憶の混乱と寝不足とで決して良いとは言えぬ顔色をしながら、これ以上の記憶の混乱は彼から正気を奪いかねないだろうと正直に吐露し、自嘲気味に微笑んで見せた。
(すまぬ事をした)ヨナスは一言詫びると、今度は彼がホルンベルに見せた記憶にまつわる、そしてヨナスが旅に出る経緯を語り始めた。
事の始まりは北の果てにあるという古森に住まう老ヨナスのみた夢であった。古森の守り人である老ヨナスは夢占で森のいく末を予見し、その夢の中で彼は崩れ落ちる大樹の傍でまだ見知らぬ誰かと並び立っていた。
老ヨナスは、夢に出てきた人物こそが恐らくは新たな森を拓く者であろうと考えた。彼は自らの分霊であるヨナスを創造すると、その人物を探し出し、そして新たな森の要となる大樹の種を持ち帰るよう彼に命じた。
すでに実を結ばなくなった老齢の大樹の代わりに、古森は新たな芽生えの種とその守り人を必要としているのだという。
こうしてかりそめの生を受けたヨナスは古森を出てから何年もの間、方々の森を訪ね歩いた。それらの森は、彼が生みだされるより遥か昔、北の古森の大樹がまだ実をなした時代に、老ヨナスや彼の先人達によって遣わされた分霊達が切り開いた森であった。
かつて守り人達は精霊樹の種と、そして森と大地とを繋ぐ絆を記憶として自らの分霊に託し、森の外へと送り出たのだ。それは拡がり続ける大荒野の何処かに新たな森の礎を根付かせる為であった。
そして今、ホルンベルの目の前にいるヨナスも己に与えられた責務を果たさんと旅を続けたが、記憶にあるいずれの土地を訪ねても同朋達が拓いたはずの森は既に廃れた後であり、守り人の姿はどこにも見当たらなかった。
それでもあきらめなかったヨナスは旅を続け、北の荒野をさまよう内に砂漠狼の一群に付け狙われるようになった。彼は進むべき道を見失いながらも狼達の群を何とか振り切ったが、しかしそこで力尽きて行き倒れてしまった。
その場所はここより西方の、セム川の支流の一つを遡った所にある古跡群の近くであった。そして彼はたまたま近くを通りがかった〈失われし光〉の巡礼者によって助けられ、アラナンドの施設へ連れて来られたのである。
ホルンベルはヨナスの用いる耳慣れない言語に苦心しながらも、彼なりに話を理解しようと努めた。要点となりそうな言葉を頭に留め置きながら、与えられた一連の記憶を元に何とか彼の話のあらましまでは理解できた。そしてちょうどヨナスが話に一息いれたところで彼は一つの疑問を口にした。
ホルンベルは、ヨナスがもしその目的を果たせなければどうなるのかと尋ねた。ヨナスは無表情のまま、ただ古い森が一つ消えるのだと答えた。
(私の知る精霊の宿る木はいずれ崩れ去る。始まりがあれば必ず終わりもある。その時に私を生み出した北の森のヨナスも解放されるのだろう)ヨナスが言った。(森は地力を失い、やがて外界と同じく荒野の一部となる……そうなる前に新たな礎をもたらす事が出来れば、あるいは森はまた何千年も永らえるかも知れぬ)ヨナスは少し話しつかれた様子で一息つくと、後は黙り込んだ。
昼近くになって、ホルンベルはアラナンドの街にある〈失われし光〉の寺院へと足を運んだ。ちょうど寺院の前の階段で信徒達の一団とすれ違い、その中にミアの姿を見つけた。
ホルンベルは彼女を呼び止めると、アランは寺院にいるかと尋ねた。ミアは首を横に振り、じき戻ると答えた。ホルンベルは頷き、ミアを彼女の仲間の元へ返してやる。信徒の一団は今ちょうど一つ先の辻を曲がったところで、少し遅れてミアが小走りに駆けて行った。
ホルンベルが彼女の後ろ姿を見送っていると別の男達と目が合った。男達は信徒達の曲がった辻の辺りからホルンベルの事を見ていたが、彼と視線が合うや否や、ふらりと建物の奥に姿を消した。
ホルンベルには男達の中の一人に見覚えがあった。その男は、今はみすぼらしい身形を装っていたが、あの不遜な顔つきはひどく彼の印象に残っていた。それはホルンベルがアランを尋ねて街を訪れた晩、門のところで彼に用向きを尋ねてきたゴロツキに違いなかった。
ホルンベルはあえて気に留めた風も無しにその場をやり過ごすと、寺院の石段をゆっくりと登り始めた。そして石段を登りきって入り口を通り抜けると、少し間をおいてからそっと外の様子を除き見した。
すると先ほどの辻から男達が再び姿を現した。男達はなにやら言葉を交わした後、一人がどこかへ立ち去った。
ゴロツキ風の男は相変らず同じ場所に居座る様子であったので、ホルンベルは男を放っておく事にするとアランの部屋へと向った。
途中、廊下で信徒の一人を呼び止めてアランの所在を確かめたがやはり不在であるらしかった。尋ねた相手にアランの部屋で待たせてもらうと告げ、先日アランに招かれた部屋へと向かった。
部屋の扉は開け放たれており、中はやはり無人であった。仕方なしにホルンベルは部屋の外で待つ事にした。
薄暗い廊下に人通りは殆どなく、しかし一応通る者の邪魔にならぬよう廊下の端に寄ると壁に背をもたれさせた。
瞼を閉じると相変らず幻灯のようなヨナスの記憶が像となって浮かび上がってくるが、それらには昨夜ほどの強烈な印象は無かった。
像の輪郭も色彩も一頃より淡くなり、彼の意識を苛むほど早く切り替わる事も無く、ただ鈍い疲労からくるまどろみの中で像が一つ浮かび上がっては霧散するように立ち消え、また新たな像が意識の中で結ばれていくのである。
ホルンベルは色あせた像の移ろいを頭の中でぼんやりと感じ取りながら、昨晩のやり取りを思い返していた。
ヨナスは己の事をある男の記憶の断片であると言った。それが果たして言葉通りの意味なのか、或いは何かしら抽象的な表現と捉えるべきなのか……まともに考えれば後者で在るが、今もなお彼の頭の中で誰かの記憶が翻っているのを踏まえれば、ヨナスはやはり含み事無しに真実を語っていたようにも思える。
ホルンベルはふと心の中に翻る像の一つに意識を向けてみた。それはどこか暗い森の中にある泉の景色であった。
男がひとり泉の畔に立ち尽くしており、泉の傍に生えている大木の頂を見上げていた。樹冠から零れ出た幾条もの木洩れ日が男の背後に降り注いでいるのが印象的であった。
その景色はじき淡く薄れて別な像へと取って代わられたが、その光景がホルンベルにはひどく儚く、そして美しいものに思えた。
あるいはこの男がヨナスの言っていた、北の果ての森に住まうというもう一人のヨナスその人かも知れぬと思った。
ホルンベルの知るヨナスは己をその者の影と呼び、分霊だと言ってのけた。魂や記憶と言う物に肉体を与えるなどという事が果たして可能なのかしらんと訝しんだが、墓所でよく目にする亡霊や影人達の事を考えるとありえぬ事ではないと思えてくる。
影祓い達は亡霊を死者の意識ではなく生前の記憶が投影されたものと捕らえていた。それゆえ亡霊達に幾ら語りかけた所で彼らの本質を変える事は出来ないのである。
死してのちも立ち返った者達は時と共に己の内から出た影に取り込まれ、やがて影と共にどこかへと消え去っていく。ではどこへ行くのか……今のホルンベルには答えようの無い問いであった。
おそらく彼の知る影祓いの誰一人としてこの問いに正確に答えられる者はいないであろう。それは彼の師にあたるマルセンも同じだ。影祓い達は死者の魂や影となった者達を鎮め、または祓う為の技は知っていたが、魂や影の本質にまで辿り着いた者は誰もいないのである。
ホルンベルは、今度はすぐ近くの天幕の中で身体を横たえるヨナスの姿を思い返した。彼は確かに生身の人であると思しかったが、では何故その者の身体に影のような瘴気が纏わり付いているのか、何故彼は正気でいられるのかが分らなかった。
古森の主という者がいるならば一度会ってみたい……ホルンベルはふとそんな事を考えた。彼ら塚守り達が影や影人と呼ぶ存在をその者ならばなんと呼ばわるのか、端的に言えば魂とは何か、生とは何かという問いに、ヨナスの言う古森の主はどの影祓い達よりも的確な答えを示してくれるのではないかと思えたからだ。
「……ホルンベル」アランの声がした。瞼を開くと傍に彼がいた。
ホルンベルはどうやら壁に寄りかかったまま眠り込んでいたようで、アランは具合の悪そうなホルンベルの顔色を冗談交じりに揶揄し、その訳を尋ねた。ホルンベルは適当に返事を返し、ヨナスとのやり取りに関しては特に触れずにおいた。
それから二人はアランの部屋ではなく奥にある広間へ向かった。広間には十数名ほど先客がおり、信徒服を着た者から旅装束の巡礼者と思しき者達まで実に様々であった。
建物の外観とは異なり壁や柱には装飾らしい物は殆ど見受けられなかったが、天井の中央、ちょうど台状に一段高く上へせり出ている辺りに実に見事な硝子細工が施されていた。
その硝子細工には何か特別な工夫がなされているようで、外から取り込んだ陽光を巧みに分散させてやわらかな明るさを広間の隅々にまで行き渡らせていた。その為か、薄暗い廊下からこの部屋へ入った途端、不思議と開放的な気分を味わうことができた。
ホルンベル達は広間の反対側にある扉の無い部屋へ入っていった。ちょうど裏手のテラスへ抜ける通路にあたる部屋で、表廊下からテラスへと風が心地よく流れていた。
「それで、用向きとは何だ?」アランが尋ねた。周囲には二人の他に誰も居なかった。
「実はしばくこの街から離れようと思う」ホルンベルが言った。彼はここに来る途中もバローネの手の者達に見張られていた事を告げた。
「ここを訪れた晩に門の所で私に質問してきた男だ。私を見張っていると言う事は、彼等はまだ子供達の事に気付いてはいまい」ホルンベルのその言葉にアランも頷いた。彼はバローネの者は恐らくこの寺院を見張っていたのではないかとも言った。
「すまないがしばくの間、子供達のことを頼めるか」ホルンベルは少し声を落として言った。彼は頃合を見てテオ達を更に西へ逃がすつもりであることを明かした。
「それで、お前はどうする?」アランが尋ねた。
「私は一度塚へ戻ろうと思う。戻って他の者達と話さねばならない。西の山を超える事にでもなれば旅の元手も必要になろうし、当面役儀を離れる事になるからな」ホルンベルはそう答えるとアランの返答を待った。
「いいだろう、子供達の事は心配するな。ただし……」アランはそこで言葉を区切ると、わざとらしく片眉を上げて見せた。
「お前も今夜はここで休んでいけ。影人みたいな顔してるぞ」アランはそう言うと、ホルンベルの優れぬ顔色を再び揶揄してみせた。彼は寺院の中の一室をホルンベルの為に空けさせると、子供達に伝言があれば自分かミアに伝えるように言った。
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