分霊のヨナス

第25話 分霊のヨナス(一)

 男は夢を見ていた。それは辛く長い旅の日々をなぞらえた夢であった。


 遥か北の果てにある古森で彼は生まれた。ほぼ今と同じ姿で大樹を仰ぐ湖の水面に産み落とされたのだ。厳密に言えばそれは誕生と言うより創造と表現した方が適切であろう。


 男は生まれながらにして己の魂に刻まれた名がヨナスである事を知っていた。そして彼が生み落とされた瞬間に、彼の傍でその一部始終を見届けた彼の創造主とも言うべき老人もまたヨナスであると一目みて理解できた。


 男は己がその老ヨナスのいわば分霊である事を知ると同時に、老人がなぜ己を生み出したかを聞かされた。そして彼はその勤めを果たすべく何年も前に故郷の森を旅立った。生まれたばかりの彼の古い記憶にある、かつての分霊達が辿った道程を追う旅であった。


 彼は生まれながらにして記憶を授かっていたのだ。その記憶は古森の守り人である老ヨナスやその先人達が連綿と受け継いできた記憶の一部であった。じき訪れるであろう大樹の崩落と古森の終焉と共にそれらの記憶は終止符が打たれ、すべてが人知れず大荒野に没するはずであった。


 老ヨナスはその事を彼の夢占によって知り、夢の結末を一度は受け入れたのだ。なぜならそれは連綿と受け継がれてきた大地に根差した記憶の死であり、長年待ち臨んだ、守人の務めに縛られた彼自身の魂の解放の時でもあったからだ。


 だがそんな矢先に老ヨナスは新たな夢占を得た。予知夢には続きがあり、崩れ去った巨木の跡にまだ見ぬ、子供と思しき者のシルエットと彼自身とが共に寄り添い立っている夢であった。


 老ヨナスはその子供の存在を森の蘇りの象徴であると考えた。終わりと始まり。彼は生まれたばかりの自らの分霊にこう言った。古森の樹々は潰え、若い芽吹きに新たな精霊の言葉が宿るのだと……老ヨナスが言うには、夢の若者は新たな森の守人であり、しかし彼の後継者ではない。

 その者は古い記憶を引き継ぐのではなく、自ら精霊達と交わり、それらの語る言葉を知り、記憶を新たに紡いでいかねば成らない。


 だが新たな守り人を育む時をこの老いた森は既に持たず、また荒野の最果てにあるその森に老ヨナスの他に人などついぞ見なくなって久しかった。つまりは未だ見ぬその若者をこの大荒野のどこかで見出さねばならないのだ。その為に老ヨナスは自らの分霊を生み出したのだと言う。


 そしてすでに実を結ぶ事のなくなった老いた大樹の代わりに、かつてこの森から巣立っていった若い苗達の、その生命の根付く土地へと赴いて新たな芽吹きの礎を持ち帰ることが分霊であるヨナスに架せられたもう一つの使命であった。




(気が付かれたようですね)そう言葉を発したのはホルンベルという青年だ。夢から覚めるとそこは木と布と荒縄で組まれた天幕の中であり、いつもヨナスの世話をしてくれるミアという娘が傍に控えていた。


 ホルンベルは身体を横たえたままのヨナスに水の入った椀を差し出した。ヨナスはゆっくりと上体を起こすと青年の手から椀を受け取った。温めの水を一口啜ると微かな香草の香りが鼻腔の奥から抜けていく。


(私の言葉を知る者とあうのは久方ぶりだが、はてさていつ以来になるかな)ヨナスは椀を口から離して一息いれ、しみじみと呟いた。ホルンベルはヨナスの手からまだ水の残されている椀を受け取るとそれを控えていたミアに手渡した。

(ホルンベル。それが私の名です)彼は使い慣れぬ古い言語の中から必要な単語を慎重に選び出して声に乗せた。


 ミアはそんな二人のやり取りを邪魔せぬように気を使いながら、静かにヨナスの背後にまわると薄手の布を肩からそっと掛けてやった。

 天幕の隙間から冷たい夜気が絶え間なく忍び込んでくる。ヨナスは言葉の通じぬ娘のさりげない気遣いに黙礼で答えると、再びホルンベルの方へ向き直った。


(貴方はまだお若いように見えるが随分と知識をお持ちのようだ)ヨナスが尋ねた。その言葉は先程差し出した椀の中身を指しているのだと気が付き、ホルンベルはそれを沈静香の薬水だと彼の言葉で教えた。そして懐から一片の包み紙を取り出し、包みを解くと数種類の薬草を乾燥させて細かく砕いた混ぜ物を見せた。

 ヨナスは若者から包みを受け取ると匂いをかいだ。そして満足そうにうなずくとその包みを静かに閉じてホルンベルに返した。


(これは……死者の魂を落ち着かせる為に用います)ホルンベルはやや躊躇いがちにそう告げると、ヨナスの腕を手に取った。彼が呪い言葉(まじないことば)を一言短く唱えると老人の痩せた腕の表面を薄っすらと漂っていた淡い影色の淀みが一瞬だけ鮮明な闇と化した。


 すぐ傍で見ていたミアが小さな悲鳴を上げ、そして顔を背けた。変化はそれだけで闇はすぐに淡くなり、殆ど気にならぬ程度の暗い気配へと変じた。ミアは顔を背けた事を恥じて申し訳なさそうにヨナスを見たが、ヨナスはただ優しく微笑むと彼女からの謝意を受け入れた。


 ホルンベルは己を東方の霧の帳の塚の影祓いだと告げ、古い言葉で墓所の守り人であると言い直した。そして本来影とは死者達にまつわるものだと述べ、ヨナスが生者であり死者のようでもあると率直な疑問を投げかけた。


 ヨナスは彼の言葉に静かに耳を傾けていたが、最後に青年から何者なのかと尋ねられると相手の目を見詰めたままゆったりとした口ぶりで語りだした。


(私は何者でもない……ある世捨て人の、いわば記憶の断片とでも言うべき存在なのだろう)それはまるでなぞかけのような答えであった。


 それからヨナスが皺深い目元を大きく開かせた。ホルンベルもつられるように目を見開き、二人はしばし無表情のまま対峙した。


 時折、ヨナスが古い言葉で何かを話して聞かせている様子であったが、聴き手であるホルンベルの方はというと固い表情のままだんまりを決め込み、その額に薄っすらと汗をにじませていた。


 ひとり事情が呑み込めぬミアはただ黙って見まもるほか無かった。やがてヨナスがそっと瞼を伏せるとホルンベルはなにかの呪縛から解放されたかのように身体をよろめかせた。青年はミアに肩を支えられながらヨナスを見た。


「今のはいったい……」そう発したホルンベルの言葉はヨナスには理解できぬ物であったが、どうやら察しは付いた様子で、ヨナスは黙ったまま己の額を指し示すように右手の指を束ねて添えると、ゆっくりと一度頷いて見せた。


(貴方が今目にしたものは北の果てに住まう一人の男が受け継いだ古い記憶……その記憶の一部だ)ヨナスは古い言葉でそう教え、ホルンベルの反応を静かに伺った。


「記憶?」ホルンベルはぽつりと呟きながら、首筋を這う汗を衣服の袖で無意識に何度も拭い去った。肌の至る所から汗が珠のように噴き出してくる。垣間見せられた何者かの記憶に頭の中は今もかき乱され、青年は酷く混乱していた。

 だがその混乱の最中、ホルンベルの頭の中に結ばれたいくつもの像は彼の拙い古語の語彙を超え、より多くの事を青年に語り聴かせてくれた。


(その男の名もまたヨナスという)ヨナスはホルンベルが彼の頭の中で見たであろう老人について述べた。(私はいわば彼の影……彼の記憶の断片にすぎない)その言葉は抽象的なものでしかなかったが、今のホルンベルにはそれが至極全うな説明のように思えた。




 ホルンベルは眩暈を覚えながら天幕を後にした。ミアが心配そうにしながら彼の後ろに付き従う。ホルンベルは大丈夫であると彼女に伝え、後は力なく微笑んだ。


 実のところ彼は今すこぶる体調が優れなかったが、それは具体的に身体のどこが悪いとかではなく、先ほど見せられた何か――ヨナスが言うには古森に住まう誰かの記憶――に酷く頭の中を混乱させられているからだ。


 ホルンベルは子供達の様子を見てくるとミアに告げ、月灯りを頼りに子供達のいる天幕へと向かった。中を覗いてみると真っ暗闇の中から微かな寝息が二つ聞こえてきた。ホルンベルは天幕の入り口の覆いを静かに閉ざすと自分も与えられた寝床へ向かう事にした。


 少し離れた場所にある大きな天幕の前でミアが待っていた。彼女はランプを掲げてホルンベルの足元を照らしてやると、相変らず不安そうな表情で青年の事を見詰めていた。


 余程具合が悪く見えるらしい……ホルンベルはまるで他人事のように考えた。この不調の原因が先程のヨナスとのやり取りにある事は明らかであった。彼はヨナスの語る話を聞きながら、自らのあずかり知らぬ他者の記憶を垣間見せられる事となった。


 ヨナスの言うにはそれはある男の記憶だそうだが、その記憶のごく一部分を見せられただけで彼の頭の中は手で直接かき回さたかのような、ひどい有様にさせられた。もしヨナスが彼の持つ記憶の全てをそのまま彼の頭の中に投影しつづけたならば、ホルンベルは抗う術も無いまま発狂させられていたかも知れないと思った。


「早くお休みになってください」ミアが押し殺した声で言い、天幕の覆いを手繰り寄せてホルンベルを中へ招き入れた。仮設の床にはすでに他の信徒達が眠りについていた。


 ミアはランプの灯りを絞ると、それを支柱の出っ張りに引っ掛けた。それからホルンベルを空いていた寝床に案内し、厚手の毛布を手渡してやる。ホルンベルは礼を述べると天幕を後にする娘の姿を見送った。


  ミアがランプを手に立ち去ると天幕の中はまったくの暗闇となった。ホルンベルは脱いだ外套を丸めて枕代りにすると、毛布に包まって寝台の上に身体を横たえた。そしてそのまま瞼を閉じて眠りにつこうとしたがその試みはなかなかうまくいかなかった。


 妙な高揚感の中、先程ヨナスに見せられた誰かの記憶の断片が次から次へと暗い瞼の内側を駆け抜けていくのだ。


 それは何処かの古い森であったり、或いは大平原の只中であったりと様々であったが、その何れもが誰かの視点を通したものであり、彼の知る景色では無かった。


 それら記憶の断片が切り替わるたびに額の血管が大きくうずき、重く鈍い痛みが彼から眠りを遠ざけてしまう。それはまるで彼の頭が自らの知りえぬ記憶に抗おうと拒絶しているかのようであった。


 そんな状態が続く中、ホルンベルは眠る事を諦めると瞼を閉じたままゆっくりと深呼吸を繰り返した。


 そうこうする内に最初はくらくらするほどの早さで切り替わっていた記憶の断片が徐々にゆったりと流れ始め、気付くと額のうずきはほとんど治って、無秩序に明滅を繰り返していた頭の中の残像はいつしか一つの時間軸に沿って流れ始めた。

 そして、流れ込んだ記憶の断片の全てという訳には行かなかったが、特徴的な幾つかの像の連なりが彼の閉じた瞳の内側で不思議な世界を織り成し始めた。


 はじめの幾つかは山や平地にある森の景色であった。その何れもが今では考えられぬほど鬱蒼とした樹冠に覆われ、陰鬱な森の中の景色に混在する多くの生と死が目まぐるしく入れ変わりながら彼の意識を駆け抜けてゆく。


 その神々しくも不吉な森の中を影のようなものが徘徊し、また所々に不思議な燐光がたゆたう一連の景色の移ろいに彼は心を奪われ続けた。


 そして次の象の流れでそれらの景色から闇が次第に取り払われていく様子が綴られていった。その移り行く様はまるで村祭りの幻灯芝居をみるようであった。


 この誰かの記憶の中の森は象の移ろいと共に神々しい闇を失い、古い木々の落とす影も、その中を彷徨う燐光もやがて何処かへ姿を消した。


 頭の中の像が切り替わる毎に樹冠の隙間は押し拡げられ、そこから降り注ぐ強烈な陽光が大地を焼き尽くしていく。下草は萎えて衰え、空気が陽炎のようにゆらいで見えた。


 そしてさらに続く幾つかの像は大地の劇的な変貌を彼に指示した。やがてあらゆる象はひとつの情景へと収束し、痩せ細った木々と乾いた大地を映し出した。それは彼のよく知る、大荒野の今の姿を映し出していた。

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