第23話 西へ(三)

 墓所を出てから八日が過ぎた。ホルンベル達は街道を外れて荒野を一旦北にそれ、丘陵地帯を西に抜けてようやくアラナンドの街が見える辺りまで辿り着いた。


「テオ、セラナ、こっちに来てごらん」ホルンベルは子供達を傍に呼び、目の前の景色を見せてやった。


 丘の向こう側にひろがるのは一面の麦畑。遠くに見えるセム川と並ぶように街道が伸びて、その先にアラナンドの街並みが見えた。


 この辺り一帯は大荒野に残された数少ない穀倉地帯のひとつで、麦と唐黍の産地として有名であった。そして今、畑は実りの季節を迎えたばかりである。雨季の恵みに穂を立ち登らせた畑中の麦が一斉に黄熟を迎え、陽光の元にみるその景色はまさに黄金の原と呼ぶにふさわしい。


「少し休憩しよう」ホルンベルがいった。彼は斜面の中ほどに木の疎らに生えている場所を見つけるとそこで馬の荷を解いた。それからテオに馬を休ませるよう指示をだし、自分は周辺の様子を見てくると言って一人で斜面を下りて行った。


 テオは言い付け通り馬に水を与え、草の覆い茂る辺りの灌木に手綱を繋いだ。それから厚手の布で馬の首や胴周りの汗を丹念に拭い去ってやる。少し離れた場所ではセラナが鞍からおろした荷物を枕代わりにして寝転がっていた。


 テオは馬の世話を終えると近くの木にもたれかかって景色を眺めた。眼下にひろがる麦畑は丁度収穫の時期を迎え、一部ではもうすでに刈り取りの作業が行われていた。


「何してるの?」いつの間にかセラナが傍に立っていた。テオは畑の景色を眺めているのだと答えた。二人は並んで木の根元に腰を下ろすと、遠くに見えるアラナンドの街を見た。


 セム川の東岸にある街でネビアよりも古くから栄えた都市。麦や唐黍の畑が街の周辺から彼等のいる丘の麓までを埋め尽くし、そこで働く人々が蠢く黒い点の集まりに見えた。


「こんなに広い畑って、私初めて見るわ」セラナがしみじみと言った。テオも頷いた。少年はかつて故郷からネビアへと連れてこられた時に一度この近くを通りがかっているのだが、こうやって高みから見渡す景色は記憶の中のそれとはまるで別物のようであった。




「二人とも、休憩は終わりだ」ホルンベルの声にテオとセラナは目を覚ました。どうやら景色を眺めている間に肩を寄せて眠り込んでいたらしい。繋がれていたはずの馬の背にはすでに鞍と荷が据えられ、手綱はホルンベルの手に握られていた。


「この先に農家がある。今からそこへ向かう」ホルンベルは丘の一方を指差した。ちょうど麓の辺り、畑の端に煉瓦積みの農家が見えた。結局この日は街へ向かわず、その農家で一晩世話になることになった。


 宿を与えてくれたのはここで農業を営む老夫婦であった。土地と建物は街の富豪の所有物で、彼等はそれを借り受けて何年もこの場所で麦や唐黍を作り続けてきたのだと言う。


 老夫婦の暮らし振りは決して裕福なものでは無かったが、長旅に疲れた三人に彼等は雨風の凌げる納屋と温かな夕食を用意してくれた。


 しかしホルンベルは自分の分の食事を断ると、アラナンドにいる知人の元をこれからすぐに尋ねなければならぬと老夫婦に伝えた。それから一晩か二晩の間、テオとセラナを彼等の元で預かっては貰えないかと願い出た。


 老夫婦は一瞬困惑した様子でお互いの顔を見た。目の前の男があるいはこのまま二人の子供を置き去りにして去ってしまうかも知れぬと考えたのかもしれない。


 ホルンベルは老夫婦になるべく明日の朝までに戻ると言い、馬は残して行くと伝えた。老夫婦は承諾すると子供達に食卓へ着くよう促した。ホルンベルは背後に控えていたテオ達を振り返ると、話は聞いた通りだと言った。

「遅くとも明後日の朝までには戻る。それまでここで大人しく待っていなさい」ホルンベルはそう言うと、セラナの事をテオに任せると言って出かけた。


 ホルンベルが去ったあと、テオとセラナはすぐに老夫婦と食事を共にし、それから彼等だけで納屋へと向かった。納屋の横手にはホルンベルの馬が繋がれており、鞍と荷物は納屋の中へ運び込まれていた。


 納屋の奥半分は農具や雑貨で埋め尽くされており、残りの半分には藁束が僅かに積まれているだけでがらりとしていた。


 テオが納屋の片隅に置かれていた筵の束を取ってくると、空いている場所に敷き詰めた。それから二人は荷物の詰まった袋を枕代わりにし、毛布に包まり身体を隣り合わせに横たえさせた。


 時折冷たい外気が壁や天井の隙間から流れ込んできたが、テオもセラナも気にするような素振りは見せなかった。昨日まで野晒しの最中で眠りについていた二人には屋根と壁があるだけの寝床でも随分と快適なものに感じられた。




 ホルンベルが街に着いたのは日が落ちてから一刻半ほどであった。アラナンドの街も城壁に囲まれてはいたが、その壁はいたる所に綻びがみられ、ネビアの壁ほど堅牢な造りではなかった。


 ホルンベルは子供達を農家に預けると一旦街道へ出て、それからアラナンドの東大門へと向かった。大門は既に閉ざされた後で、通用門の方へまわると詰め所の中からこの街の衛士と、なぜかゴロツキ風の男が一人顔を覗かせた。


 衛士はこんな時刻に何用あって門を通るのかと詰め寄ってきた。ホルンベルは街の寺院に用があると告げ、己の身体に刻まれた塚の印を見せた。衛士はそれがネビアの塚の印の一つであることを認めるとホルンベルに通るよう促したが、今度は脇に控えていたゴロツキ風の男が彼を呼び止めた。


「東の地の影祓い殿がこの街の寺院に用とは、仔細をお聞かせ願えますかな?」ゴロツキ風の男はその外見よりはるかにましな言葉遣いで、それでもどこか上から物申すような調子で問うた。

 その様子に衛士の男が不快そうな顔をしながら控える様に言ったが、ホルンベルは気にした風も見せずに私用だと告げた。


「寺院に馴染みの者がある。その者に会いに来たのだが、私は何故呼び止められたのか?」今度はホルンベルが尋ね返した。男は表情一つ変えぬホルンベルに満足そうに頷いた。

「我等は人を探している。邪魔をしてすまなかった」ゴロツキ風の男は答えると、後は一言も喋らずに詰め所の方へと引き返して行った。




 ホルンベルは通用門を通ると街の北西を目指した。アラナンドの街並みはネビアのそれに比べて洗練された華やかさに欠けるものであったが、広さに関して言えばネビアを遥かに凌駕していた。


 街には灯りの疎らな通りが多く、それが複雑に入り組んで幾つもの区画を形成している。そんな中をホルンベルは迷うこと無しに歩き続けた。大きな通りや辻毎の小さな広場に人通りは無く、代わりに時折見かける酒場から光と賑わいが外へ漏れ出ていた。


 ここは労働者の街なのだ。彼は歩きながら先程の男の事を考えていた。門の所にいたゴロツキ風の男の事である。


 男はホルンベルが塚の証を示した直後に問いかけてきた。人を探しているのだと言っていたが、まさか訪れた旅人全てに声を掛けていた訳ではあるまい。つまりホルンベルの風体か、あるいは彼が影祓いである事が相手の興味をひいた事に成るが、恐らくその両方が理由であろう。


 ゴロツキ風の男はバローネ商会の身内か、あるいは彼等に雇われた者だろう。その男は誰を捜しているかまでは明かさなかったが、ホルンベルを影祓いと知って呼び止めたのであれば、探しているのは彼と彼の連れている二人の子供であると考えるべきであった。


 何故ホルンベルがセラナ達を連れている事を相手側が知っていたかは不明であったが、どうやらネビアの街を逃れた今となっても気を緩めるわけにはいかぬと言う事だ。




 街の北西一帯はいささか物騒な区画であった。いわゆる貧民街である。通り沿いにはあばら屋が連なり、路上にはその粗末な家すら持たぬ者達が身を寄せ合うように暮らしていた。

 そんな中を旅支度のホルンベルが通り過ぎると、ある者は建物の影から顔を覗かせ、また別の者は辻角にたむろしながら彼の背を胡散臭そうに眺めていた。


 暫く進むと古びた石積みの館が見えてきた。独特の装飾が柱や梁の随所にあしらわれた館で、この貧しい区画においてはすこぶる威厳のある建物に見えた。


 この館は〈失われし光の修道士会〉が建てた寺院である。アラナンドの街の者は“風変わりな”と言う意味合いを込めて単に〈失われし光〉と呼んでいたが、何故彼等が風変わりなのかと言うとこの時代、大荒野の街や村ではいわゆる“カミ”と呼ばれる存在は殆ど忘れ去られた過去の遺物でしか無かったからだ。


 この地に暮らす多くの人々が関心を示すものは己の生死や明日の糧に関する諸々で、乾ききったこの土地でどう生きぬくかや、年に一度氾濫する川をどう治めて生活に結びつけるかなどにしか興味を抱かない。


 そう言った意味では墓所の影祓い達は神秘の徒ではなく、民衆にとっての実利の対象であるのだ。人の生き死にに付きまとう様々な問題に対処するからこそ、塚人達は人々から畏怖と畏敬の念とを与えられているだ。


 そんな時代にあって、〈失われし光〉と呼ばれる者達の間では大昔にすたれた信仰という概念の中にこそ真の幸福があるという考えが根付いていた。

 

彼等は古い印や文字から大昔の人々の思考や思想を知ろうと荒野に点在する古跡を巡り続けていたが、そんな無形の幸せを求めるという生き様は、それ以外の多くの者達からすれば道楽や酔狂以外の何者でもないと映ってしまうのだろう。


「ここへくるのはいつ以来かな」ホルンベルは通りの暗がりから抜け出て、篝火で照らされた寺院の石段を登った。館の前に門番や信徒達の姿はなく、青年は勝手に入り口を通り抜けると、そのすぐ内側にたむろしていた質素な身形の若者の一団に近づいた。


「私はネビアのホルンベル。アラン殿はおられるか?」ホルンベルの問いかけに若者達の一人が頷くと、そのまま寺院の奥へと消えた。暫くしてその男と共に現れたのはホルンベルよりも幾らか老けて見える男であった。


「これは東の塚の導師殿ではないか」現れた男はしかつめらしい顔をしながら大仰な素振りでホルンベルを迎え入れてくれた。男はすぐに表情を崩すと両腕を彼の背に廻して軽く抱擁を交わした。


「その、導師殿は止めてくれ」ホルンベルがバツの悪そうな顔で相手に文句を言うと、男は呵々と笑って抱擁を解いた。


 このアランという男とホルンベルとの付き合いは随分古いものになる。アランはアラナンドの寺院で祭事職を兼任する〈失われし光〉の主幹の一人であったが、その彼がまだ若い頃、信徒の一団を率いて荒野の巡礼へと出向いた折にホルンベルに助けられた事があったのだ。


 当時はホルンベルが霧の帳に迎えられたばかりの頃で、慣れぬ荒野の巡検中、知らずに性質の良くない穢れ場へと足を踏み入れてしまい、そこでアラン達に出くわした。


 影祓いとしては今よりも随分と未熟であった当時のホルンベルは、大層難儀しながらも巡礼者の一団を何とか無事街道まで送り届けたのであるが、それ以来、アランはホルンベルが街を尋ねて来るとお互いの立場の違いなど抜きにして何時でも彼を暖かく迎え入れてくれた。


「しかし塚人だの塚守だの影祓いだのと陰気臭くていかん。もそっと聞き栄えのする呼び方の方が大衆受けも良かろうに……」男は悪びれた風も無しに言うと、ホルンベルを寺院の一画にある自室に案内した。


 通された部屋は窓の無い殺風景な所で、天井に小さな通気孔が穿たれている。奥の壁際に木製の寝台が一つ置かれ、他に机と椅子、机の上に置かれた水差し、マグ、明かりの灯された燭台と必要最小限の物しか無い。


 アランはホルンベルに椅子を勧めると彼に食事はまだかと尋ねてきた。ホルンベルが頷くと、アランはちょうど廊下を通りがかった同朋の娘を呼び寄せて彼の客人に夕飯を振舞ってやるよう言いつけた。


「粗末な食事だが遠慮無しにやってくれ」アランは人懐っこい笑みを浮かべながらホルンベルの向いの席に着いた。

「……して、塚人殿はこんな夜更けに我が寺院へ何用あってまいられた?」アランは相変らずひとの良さそうな表情をしながら尋ねてきたが、しかしその声音は先程までとは少しばかり違って聞こえた。


 ホルンベルが彼の声音の変化に僅かに身構えると、アランは探るような問いかけをした事を軽く詫び、バローネ商会の手の者がホルンベルより先にこの寺院へ踏み込んで来た事を明かした。


「人相風体の宜しくないのが何度か来おってな。なにやら子連れの影祓いの男を探しているそうだ。奴らは宿なり何なりを総出で探し周っているようだが、我々も寄る辺無い者等を随分と預かっているからな」アランはここで話を一旦区切ると、ホルンベルの様子を窺った。


 そこへ先程の娘がパンとスープの入った器を台に載せて部屋に入ってきた。ホルンベルが娘に礼を告げると、娘は無言のまま笑みだけを返した。

 娘はアランに、他に用はあるかと仕草だけで伺いを立て、アランは娘に労いの言葉を掛けて彼女を下がらせた。


「話せないのか?」ホルンベルが尋ねると、アランが曖昧な表情をして見せた。

「ミアと言う。無口だが素直で良い子だ……言葉が話せん訳では無いのだが、今は殆ど口をきこうとしない」アランは目元を綻ばせながら娘の出ていった扉を見ていた。

 彼は先程の娘が孤児である事を教えると、ここへ連れて来られた当初、彼女は周囲の全ての事柄に酷く脅えた様子で、言葉はおろか誰とも目を合わせようとはしなかったのだと言った。


「さあ、冷めぬ内に食え。具は少ないが味は保証するぞ」アランはおどけた様子で食事を勧めると、込み入った話はその後だと付け加えた。

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