(中)
勢いよく茂みから飛び出してきた黒いそれは、私の方へと真っ直ぐに突っ込んでくる。
「――――!」
咄嗟の出来事に、回避行動はおろか、声を出すこともままならない。
そして、黒いそれは、瞬く間に私との距離を詰め、勢いそのまま私に向けて前足を上げる。太い両腕と、その先に付いている鋭い爪が眼前にまで迫った――その刹那。私の身体は勢いよく横方向へと飛ばされた。
「サラ、大丈夫か!?」
柔らかい砂地に打ち付けられた身体を即座に起こし、声のした方を見遣ると、華憐ちゃんが片足を上げた状態で立っていた。どうやら、それが私に爪を立てる直前、すんでのところで彼女が蹴り飛ばしてくれたようだった。
その妨害のおかげで、私への突進が空振りに終わったそれは、今度は近くにいた華憐ちゃんへと標的を変える。前足を上げ、攻撃の姿勢をとったそれは、華憐ちゃんの背丈を優に超す巨体だった。
直観的に、あの子熊の母熊だとわかった。
そして、母熊はその大きな体で覆いかぶさるように、華憐ちゃんへと襲い掛かる。
「華憐ちゃんっ!」
振りかぶった太い腕が、華憐ちゃんの顔に向けて勢いよく走る。太く鋭い爪が彼女の皮膚を破り、肉を抉る光景が脳裏をよぎり、私は思わず目を瞑った。
そして、次の瞬間。
どすん、と。
何かが地面に打ち付けられたような音が聴こえた。
最悪の光景を覚悟して、目を開けると、そこには――立ったままの華憐ちゃんと、その背後で仰向けに倒れている熊の姿があった。
「えっ…………?」
いったい何が起きた……?
全く想像もしていなかった光景に、思わず呆気を取られる。
兎に角、助かった――?
そんな考えがよぎったが、しかし、それはまだ早かったようだった。
倒れていた母熊は起き上がり、再び、華憐ちゃんへと襲い掛かった。
太い腕を振りかざし、少女へと振り抜く。鋭い爪が、再び少女を襲う。
だが、次の瞬間――熊の巨体は宙を舞っていた。
どすん。
背中から地面へと打ち付けられる母熊。そして、すぐさま起き上がり、三度、華憐ちゃんへと襲い掛かる。
が、彼女に触れた瞬間、またも熊の巨体は宙を舞った。
して――
どすん、と。
鈍い音を立てて、背中から地面に落ちる。
その後は繰り返しだった。
母熊は何度も起き上がり、華憐ちゃんへと襲い掛かるが、その度に宙を舞い、どすんと地面に叩き付けられる。
それは目を疑う異様な光景だった。
少女の背丈を優に超し、体重に至っては三倍以上はあるであろう巨体が、少女に触れた瞬間、宙に投げ飛ばされているのだ。
理解など、できるはずがなかった。
繰り返し繰り返し、巨大な熊が宙を舞う。
そうして、幾度となく宙を舞い、地面に打ち付けられた熊は、敵わないことを悟ったのか、ようやく、元来た茂みの方へと逃げていった。それから後を追うように、子熊の小さな影も茂みの中へと駆けていった。
「ふう」
ふたつの影を見送り、少女は小さく息を吐く。
そこでようやく、私は我に返った。
「華憐ちゃん、大丈夫!?」
ああ、大丈夫だ。
と、平然とした口調で彼女は言う。
「お前を突き飛ばしたときに爪が足に掠ったが、問題はない。明日には治るしな」
見ると、履いているジーンズの脛の辺りに、擦ったような跡がついていた。
「大変! 痛くない!?」
「大丈夫だ。気にするな」
「ごめん、私の所為で……華憐ちゃんに怪我させちゃった……」
「だから、気にするなと言っているだろう」
明日には治る、と。
華憐ちゃんは繰り返し言う。
「子熊を連れた母熊は気性が荒くなる。だから、子熊を見掛けたらすぐさまその場を離れるのが正解なんだが、今回は仕方ない。いかんせん、出会う距離が近すぎた」
今度からは気をつけろよ。
と、華憐ちゃんは淡々とそう言って、今回の件を締め括ろうとする。
「いや、ちょ、待ってよ。さっき、いったい何が起きてたの……?」
「ん?」
「ほら、あんなでかい熊が、華憐ちゃんにぽんぽん投げられて……」
触れずに済ますにはあまりに奇怪な出来事だ。やはり語り部として無視することはできず、必死になって問いかけると、華憐ちゃんは「ああ」と曖昧に返事をして、ぽつりと言った。
「流れを読み、そして従え」
「は……?」
「我らが裂石流の真髄だ」
「さけいし、りゅう……?」
「物事には必ず流れというものがあって、それを読み、適切に力を加えることができれば、石をも裂くことができるという、裂石館初代師範の教えだ」
「え、ちょっと待って。全然話がわからないんだけど……裂石館ってなに?」
「ん? 言ってなかったか?」
華憐ちゃんは淡々とした口調で言う。
「私が世話になった、裂石神社の初代宮司は非常に優れた武術家でな。裂石館という総合格闘術を扱う道場を開いていたんだが、当時、それがかなりの好評で、門下生が多くいたんだ。そして、多くの儲けを得た結果、裂石神社を建立した、と。そういうわけだ」
「え、えっと、つまり……」
「あの神社はサイドビジネスというわけだ」
「違う違う! 聞きたいのはそこじゃなくて!」
というか、聞きたくなかったな、それ。
「つまり、華憐ちゃんはその武術を習ってたってこと?」
「ああ。時間だけは無駄にあったからな」
気が付いたら、その道を極めてしまっていたよ。
と、華憐ちゃん。
「な、なるほど。じゃあ、さっきはその武術を使って熊をいなしていたってこと?」
「そういうことだ。まあ、仕留めて熊鍋にする手もあったんだが、子連れだったからな。子熊に免じて見逃してやったわけだ」
そう言って、華憐ちゃんは「ははっ」と笑うが、私は笑えない。
絵面を想像すると笑えない。
いや、本当に笑えないな。
しかし、今の説明のおかげで、これまでなんとなく引っかかっていたあれやこれやが、すとんと腑に落ちた。
例えば、華憐ちゃんの部屋の中で、私が殴り飛ばされたことや、片手だけで両腕を完全に拘束されたこととか。
普通に考えれば、彼女の小さな体で、比較的大きな身体の私を飛ばしたり拘束したりするのは難しい芸当だろう。だが、その裂石流の武術を応用することで、普通では考えられない離れ業を可能にしていたということなのだろう。
理屈はわからないが、そう解釈するのが妥当そうである。
ん?
「ちょっと待って……。ということは、もしかしてさ……」
「ああ。入口の狛犬、吽形を阿形にしたのは私だ」
「お前だったのかよ!」
「裂石流の力を試したくなって、ついな」
「そんな理不尽な!」
お試し感覚で顎を割られたとか可哀想すぎる……。
彼の一刻も早い修繕を祈る私だった。
「さて、再開するか」
「え、切り替え早すぎない?」
あんな怖い出来事があったのに、よく続けようと思えるな。
胆力がありすぎる。
「だって、見頃はこれからなんだろう?」
「まあ、そうだけど、もう怖くなってきちゃった……」
「大丈夫だ。あんなことはそうそう起きるもんじゃない。それに、あんな騒ぎを起こした後だ。もう熊が寄り付くことはないだろう」
「うう……でも……」
華憐ちゃんの言葉を受けて尚、恐怖感が拭いきれずに渋っていると、彼女は上擦った声でこう言った。
「だめ?」
「ぐっ……!」
そんな甘い声も出せるのか……!
あ、あざとい……!
だが……。
だが、それがいい!
「わかったよ。ちょ、ちょっとだけだからねっ!」
「ちょろい奴だな」
そうして、オタクの弱点を的確に撃ち抜かれ、無事に天体観測は再開された。
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