Camellia

接木なじむ

序章【邂逅】

六月十九日

 ぽとり、と。

 可憐な花が一輪、静かに落ちた。

 朱を広げ、地面に咲く夏椿の花を鮮やかに染めていく――



『Camellia』


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ナツツバキ/夏椿【Stewartia pseudocamellia】

別名:沙羅(シャラ)

東北南部から九州の冷温帯に自生する落葉性の中高木。

夏にツバキに似た花を咲かせることからその名がついた。

花期は六月から七月上旬頃で径六センチ程度の白い花を咲かせる。朝に開花し、夕方には落花する一日花である。

樹皮が不規則に剥がれ、褐色、橙色、灰褐色などが入り混じる独特で美しい斑模様を形成する。


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 六月十九日

 今日は記念すべき日だ。

 大学への進学をきっかけにこちらへ引っ越して来てから早三か月弱。ひとり暮らしの寂しさにも慣れて、むしろ自由な暮らしに心地良さを感じ始めた頃だった。

 ここ最近、太陽を見ていない。

 これは、ある朝いつものように目を覚ましたら見知らぬ天井、見知らぬ壁に囲まれていた――というようなミステリ的な展開でもなければ、オーバーテクノロジーを有した地球外からの侵略者によって太陽が隠されてしまった――というようなSF的な展開でもない。

 時節柄。

 毎年訪れる定例イベント――梅雨である。

 五日前に関東の梅雨入りが発表された。平年よりも一週間程遅い梅雨入りらしい。

 まあ、梅雨と言っても、崩れるような山も、氾濫するような大きな川もないこの地域では、ただただ湿っぽいだけの時期。洗濯物に部屋が圧迫されるだけのひと月。

 ただ、それだけ。

 そんなわけで本日も漏れなく、しっとりとした雨が降っている。そんな日。とある土曜日。

 実は――と、前置く程のことではないが、私はそこまで梅雨が嫌いではない。むしろ楽しみだったりする。紫陽花然り、梅雨の時期に咲く花は何かと綺麗なのである。

 不都合があるとすれば、洗濯物のタオルが臭くなることぐらいだろう。まあ、強いてもうひとつ挙げるとしたら、今日遊ぶ予定だった友人が雨を理由にドタキャンしてきたことぐらいだ。

 それくらい。

 それも別にいつも通りの出来事であり、機嫌を損ねるようなものではない。むしろ安心感すらあった。

 その子は同じ大学に通う友人で高校からの付き合いだ。たまたま興味のある分野が同じで、たまたま同じぐらいの学力で、たまたま同じ大学を志望した、何かと気の合う数少ない友人である。新しい環境に飛び込んだ今、お世辞にも社交的とは言えない私にとって、大変貴重な存在である彼女だが、友人と呼べるような関係になってから今日に至るまで、雨の降る日には殆どその姿を見たことがない。デートはもちろんのこと、授業でさえも、雨の日には必ず欠席をする。単位は大丈夫なのだろうかと心配になるが、ちゃんと進級も進学もしている。不思議だ。なんでも、本人曰く「濡れるのが嫌」らしい。そんな理由で――と、初めの頃は呆れていたが、始終一貫したその姿勢。高校時代に至っては、水泳の授業も必ず見学するほどの徹底ぶり。最早、尊敬の念を抱かざるを得なかった。初期設定を大事にするその姿勢は物書きであれば誰もが見習うべきだろう。

 要するに、本日も自然律に従い、土壇場になってデートを断られた、というわけである。彼女は水溶性、猫の生まれ変わり、たんぽぽの妖精――そんな噂が立つほどに雨を嫌う女。そんな人物と梅雨時期にデートの予定を立てたのがそもそも悪かったのだ。彼女の信念と私との二者択一を迫ったようなものである。彼女だってドタキャンすることに微塵も負い目を感じないということはないだろう。

 今度会ったときにひとこと謝るとしよう。まあ、当分は会えないかもしれないけれど……。

 そんなわけで、私は暇だった。

 そして、暇を持て余した結果、目的もなく外を歩いていた。最近買ったばかりの傘を広げて、ひとりぽてぽてと。

 普段であれば映画を観たり、積読を消化したり、と。インドアな趣味に耽って暇を潰すのだが、今日に限ってはそういう気分ではなかった。

 ドタキャンされることはわかっていた。何なら昨日から予想できていたことなのだが、何があるかわからないため、出かけられる準備はしていたのだ。つまり、メイクもしたし、余所行きの服も着ている。折角時間をかけてお洒落をしたのに、外に出ないのは何となくもったいない気がした。

 ただ、それだけ。

 こちらに移り住んでからというものの、外出と言えば学校かその道中にあるスーパーに寄るぐらいだったため、自宅周辺を散策するのはこれが初めてだった。なんだか新鮮である。いつもとは反対の方角に気の赴くままに足を進め、脳内の地図を更新していく。

 当然と言えば当然なのだが、学校から離れれば離れる程に駅前のような賑やかさは薄れていき、家と緑が増えていく。とは言え、流石駅チカ。どこの家も立派な建物と立派な庭を構えている。見るからに高級住宅街だ。その立派な家々の大抵が庭先に紫陽花を咲かせていて、灰色に濁った雨模様の空気を鮮やかに彩っていた。額紫陽花ガクアジサイから、西洋紫陽花セイヨウアジサイ、アナベル、柏葉紫陽花カシワバアジサイ。まさに百花繚乱、百花斉放、千紫万紅、選り取り見取りだ。私は、そんな紫陽花を辿っていくように閑静な住宅街を進んでいく。

 やっぱり、梅雨は嫌いじゃない。

 しばらくして、住宅街の外れまで来た。どうやら、私の住まいは台地の上にあったようで、この先は、いわゆる「はけ」と呼ばれる地形を挟んで、平らな低地が広がっていた。

 眺めがいい。遠くに大きな河川が見える。

 この地形を作り上げた途方もない歳月に思いを馳せながら坂を下る。なんだか、あの番組みたいだ。「チマチョゴリ」みたいな名前の番組。なんだっけ。まあいいや。

 坂を下った先にあったのも住宅街。ただ、先程とは違って何処か親しみのある感じの家並みだ。坂をひとつ挟んだだけでこうも様子が変わるものなのかと、妙な感動を覚えてしまう。

 そして、崖沿いに並ぶ家々を横目にぼちぼちと進んでいると、ある家と家との間。フェンスとブロック塀との間に目が留まった。そこには、崖のある方に向かってひっそりと、細く細く延びる道があった。人ひとり分ぐらいの幅しかない細い道。「隙間」と形容した方がいいような、そんな道。「普通」とは何かという議論は一旦棚の方にしまっておくとして、普通の感性をお持ちの女性ならまず入っていかないであろう不気味さがあった。まだ明るい昼間なのにも関わらず、そんな雰囲気が漂っていた。だが、生憎、そんな健全な感性を持っていない私は――いや、別に全く怖くなかったわけではなく、むしろ健全に、人並みに不気味さを感じたとは思うのだが、猫がいたら大層絵になりそうな雰囲気に、思わず「にゃんこ……!」と呟き、ふらふらりと吸い込まれるようにその道へと入ってしまったのだった。不気味さよりも肉球の気配に強く反応してしまった。猫は人を狂わせる。これは本当だ。ちなみに猫はいなかった。

 道の奥には猫の代わりに狛犬がいた。

 小さな狛犬が一対。そして、小さな鳥居と崖を真っ直ぐに登る石階段があった。

 神社。

 正確には「元神社」だろうか。

 その小さな鳥居は大部分の塗装が剥げていて、前のめりに傾いている。ただ、どっちが前なのかは知らないため、本当に前のめりかどうかは怪しい。

 狛犬に関して言えば、体の至る所が欠けていて、向かって左側の吽形に至っては綺麗に下顎が失くなっていた。悪戯としか思えない仕業。どっちも阿形にしてやろうという犯人の思想が透けて見える。まったく、くだらないにも程があるだろう。

「あ~あ……」

 もう、ほとほと呆れてしまって、開いた口が塞がらない私なのであった。

 やかましいわ。

 兎に角、既に廃社となってしまっているような様相だった。人が使っているような雰囲気も感じられない。だが、潰れているわけでもない。そんな理由で、区画整理の際にあの隙間のような細い道だけが残された、ということなのかもしれない。別に思い入れもなければ縁もゆかりもないのだが、なんとなしな、曖昧な寂しさを感じる。

 諸行無常。

 鳥居の下に立ち、階段の先を見上げる。よくよく目を凝らして見てみると、階段――参道の脇に、ぽつりぽつりと小紫陽花が花を咲かせていた。写真には写せない、あの淡く、幽かな青い輝き。

 私がこの階段を登らない理由はなかった。

 登ってみてふと感じたことだが、どうにも人気ひとけがある気がする。階段の石積みはところどころ傾いていたり、外れていたりはするものの、落ち葉も積もっていなければ雑草も生えていない。定期的に清掃でもされていなければ、こうはなっていないだろう。もし、長い間管理されていなかったとしたら、今頃、周囲の雑木林からの落葉落枝で埋まり、草木が繁茂し、獣道のような鬱蒼とした状態になっているはずだ。こうして今現在も階段としての機能と見た目を保っているとなると、やはり、誰かしらによって管理されているということになるだろう。案外、完全に廃れたわけではないのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに最上まで残り数段。そして、はあはあと、情けなく息を切らしながら階段を登りきった先にあったのは、小さな本殿と境内の中央で白い花を咲かせている夏椿。そして、それを見上げるようにして佇む――ひとりの少女だった。

 少女。

 やっぱり、まだ使われているようだ。思い入れもなければ縁もゆかりもないが、何故か少し安心した。

 少女はタイトなデニムパンツにTシャツというシンプルな格好。透明のビニール傘を差しながら、その腕にスーパーのレジ袋を提げ、もう一方の手には花束を持っていた。いかにも買い物帰りといった風貌だ。大きな袋がぱんぱんになるほどの買い物。その帰りがけに寄るような場所なのかと言われるとなんとも頷き難い。ご近所さんなのだとしたら、家に置いてから来るべきだ。私だったらそうする。それに、年端のいかない少女というのがなんとなくひっかかる。後ろ姿だけでははっきりとしないが、私と同じか少し下ぐらいの歳ではないだろうか。

 まあ、信仰に年齢など関係ないか。余計な詮索はしない方が吉だろう。何にせよ、私が言えたことではない。

 しばらくすると、少女はその場に屈み込み、持っていた花束をそっと、夏椿の根元に置いた。供えるように、そっと。

 それから、少しの間を空けて立ち上がり、ゆっくりとこちらへ振り返った――


 ぽとり、と。

 夏椿の花が一輪。白く透き通るような可憐な花が、静かに落ちた。


 いつか、母にこんな相談をしたことがあった。

「好きってどんな感じ?」

 私は生まれて此の方、恋をしたことがなかった。

 小学生の頃、そんな自分と生き生きと恋を語り合う友人達との間にずれを感じて、取り残されたような気がして、自分が異質であるような気がして――恋ができないことを本気で悩んでいたのだ。

 そんな私に、母はこう言った。

「えっ……わかんない……」

 役立たずな母だった。

 そして、もう駄目だ、と。泣き出した私を必死に落ち着かせて、こう言葉を継ぎ足した。

「お母さんね、運命の出会いって本当にあると思うの。ほら、白馬の王子様って言うでしょう。それは出会ったときに心が教えてくれるから、今はわからなくても大丈夫。だから、焦らずに待ちましょう。ね?」

 今、まさにそのときだった。

 一目惚れだった。

 一瞬で全てを理解した。

 たった今、私はこの人に恋をした。

 心を完全に奪われてしまった――。

 恋に落ちた瞬間は、ぴしゃりと、雷に打たれたような衝撃が走ると噂に聞いていたが――あれは全くの嘘だった。

 まるで、時が止まってしまったような感覚。

 映画の上映中に完全な無音になったときのようなあの感覚。

 恋に落ちる音は――花が落ちる音のように――とても静かなものだった。

 視覚以外の感覚が遮断され、鋭敏となった私の視線が彼女に囚われる。

 黒髪のワンレングスボブ。少し重めの横一直線な前髪。陶器の様に白い肌。ぱっちりとした二重瞼の切れ長な瞳。細く筋の通った鼻筋。ぷっくりとした桃色の唇。

 まるで人形のような美しさだった。

 呼吸さえも忘れてしまうような凛然とした美しさ。

 この慌ただしい動悸は恐らく、階段を一息に登ったせいではないだろう。

 顔が燃えるように熱い。

 少女は私を視認すると、驚きが隠せないといった風に、その凛とした目を見張った。他に人が来るとは思っていなかったのだろう。私も、まさか本当に人がいるとは思っていなかった。だから、わからなくはない。まあ、滑稽な表情のまま固まっていた私に驚愕したという可能性もあったが、それは考えないことにする。

 少女は驚きの表情を張り付けたまましばらくこちらを眺めていたが、得心が行ったというように深く頷き、どこか物憂げな、それでいて安心したというような――そんな複雑な色の表情を浮かべて、私にこう言った。

「待っていた」

 意外にもハスキーな声音に胸が跳ねる。

 ギャップ!

 いい! よすぎる!

 何だ、この可愛い生物は!

 彼女のあれこれが悉く私の琴線に触れていくじゃないか! というか、もうかき鳴らされっぱなし。それはもうトレモロの如く。

 よし、法を作ろう。彼女を保護する法律を。

 そうだな、まずは二十五歳になるところから始めようかな。

 こうしてこのまま、この時の感動を余すことなく文字にするべく、原稿用紙にして最低でも百枚程度は語りたい所ではあるが、それでは話が一向に進まない。悲しきかな。とりあえず、ここは語り部として見逃すべきではないであろう疑問点に触れておくとしよう。

 待っていた――?

 誰とも約束はしていないはずだ。いや、正確には、唯一あった、とある女と結んでいた約束は雨によって流された。私がここに来たのは単なる偶然で、気まぐれで、彼女に会ったのも今日が初めてだ。私が彼女のことを忘れているという可能性は限りなくゼロに近いだろう。こんな美しい生物のことを忘れるわけがない。超能力で記憶を消されたとしても覚えていられる自信がある。

 それに、あの驚いたような表情はいったい――

 私はこの状況にただただ混乱し、気の利いた返事も、洒落た台詞も口にすることができずに、ただただ、呆然とすることしか出来なかった。

 そして、そんな私の心境を知るや知らずや、少女はこちらにゆっくりと近づいてくる。距離が縮まるにつれて加速度的に心拍数が上がっていく。

 私は、動けない。

 ややあって、少女が立ち止まる。手を伸ばせば届きそうな距離。届いてしまいそうな距離。

 もう心臓が破けてしまいそうだった。

 目の前でこちらを真っ直ぐと見つめる彼女。その秀麗な顔を柔らかく崩して、沸騰寸前の私にこう言った。

「私を殺してくれないか」

「えっ――」


 お母さん。

 私の初恋――白馬の王子様は、お花の様に麗しい女の子でした。

 そして、私は今――

 その人に人殺しを唆されています。


 さて、こうして私たちは出会った。

 運命の出会いというのは必ずしもロマンチックであるとは限らないみたいだ。

 正に奇怪千万。

 こんなおかしな出会いをして物語が始まらないわけがなかった。

 そう、これは私の物語。

 そして、彼女の物語。


 今日は記念すべき日だ。

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