第一章【驟雨】

六月二十一日

(上)

 六月二十一日

――はあ。

「ねぇ、サラちゃんってば!」

「んえっ? あ、えっと、どうしたの?」

「もうっ! さっきから全然話聞いてくれないじゃん! ずっとうわの空だし、やっと口を開いたと思ったら溜息ばっかり!」

 そんなに私の話がつまらないの、と。

 ぷんすかといった様子の少女――芹澤せりざわ愛莉あいり

 彼女は水溶性、猫の生まれ変わり、たんぽぽの妖精――そんな噂が立つほどに雨を嫌う女。私の数少ない愛すべき友人だ。

 彼女には、二日前にデートをドタキャンされたため、しばらくは会えないことを覚悟していたのだが、思ったよりもずっと早い再会となった。

 そんな彼女のいちばんの特徴と言えば、ゆるりと曲線を描きながら肩上まで伸びる亜麻色あまいろの髪だろう。高校を卒業した後、ころころと髪色を変えてはその度にお披露目しに来てくれていた彼女だったが、亜麻色にしたのを最後にその色を変えなくなった。

 しかしまあ、よく似合っている。

「ああ、ごめんごめん」

「ごめんで済んだらね、閻魔様は要らないんだよ!」

 地獄行きが決まってしまった。どうやら、現世だけでは償い切れない大罪を犯してしまったらしい。よっぽど大事な話をしていたのかもしれない。

「まあまあ、落ち着いてよ」

 そう言って、私は鞄からアプォロチョコの箱を取り出し、チョコをひと粒、二本の指で摘む。

「はい、あーん」

「あーん」

 条件反射。

 私の掛け声に反応して愛莉は咄嗟に口を開ける。眉間に皺を寄せたしかめっ面のままだった。効果音を付けるなら「くわっ」という感じだ。その無防備に開かれた口の中に、私は、ころんとチョコを落とす。すると、亜麻髪の少女は、ごにょごにょと「もうおこだよ、おこ。私は今おこているの」などと言いながら、チョコを舌の上で転がし始める。言動がいまいち一致していない。ややあって「あ゚」と、留守になった口内をもう一度曝す少女。どうやらお気に召したらしい。私は再びその口の中にチョコを落とした。

 こうしていると、なんだか親鳥に餌をねだる雛鳥みたいだ。とても可愛い。彼女の背景に「ぴよぴよ」という丸っこい文字が見える気がする。

 五回程それを繰り返した頃にはすっかり彼女の眉間に平穏が取り戻され、女の子らしさ溢れる、つるんとしたおでことなっていた。地獄の沙汰もチョコ次第な彼女。今後はアプォロチョコを常に持ち歩くことにしよう。そう心に誓った私だった。

「ごめん。それで、何の話だっけ?」

 私は次の免罪符――もとい、チョコを構えながら、そう問いかける。

「あー、えっとね、今日の授……私たちの結婚式の日取りはいつにするかって話をしてたんだけど」

「そんなわけあるか! どさくさに紛れて物語を捏造すんなや!」

 私がそう突っ込むと、亜麻髪の少女は「ちっ」と、鋭く舌打ちをする。

 怖い!

 キャラが変わりすぎだ!

「なんて、腕白な突っ込みは私にできる精一杯の照れ隠しなのであった」

「いや、全然違うわ!」

「あ、そうだよね。まずは両親に挨拶しに行かないとだったね」

「そこじゃない! というか、まだしてなかったのかよ! そんな先走り野郎に娘は渡せないよ!」

「だって……結婚できると思ったら……私、嬉しくて……つい……」

「一生を懸けて幸せにします!」

 あまりの可愛さに思わずプロポーズしちゃった。

 勢いって怖い。若気の至りまくりだ。

「愛莉の可愛さに、たじたじな私であった」

「さっきから何なの。その大変頭の悪そうなモノローグ」

 いや、まあ、概ねその通りなんだけどさ。

「あ゚」

「はいはい」

 ころん。

 口にチョコを含んだ少女の顔が、ふにゃりと綻ぶ。

 可愛い。ふにゃ可愛い。

 これが私と愛莉の距離感。関係性。間柄。

 なんというか、愉快な友人である。

「んで、さっき明らかに言い直してたけど、結局何の話をしてたの?」

「ん〜……わしゅれひゃった」

「そっか」

 別に大した話ではなかった模様。まあ「今日の授」って言ってたしな。

 というか、そんなんで地獄に落とそうとすんな。

 そうして、彼女との戯れを楽しんでいると、ふと、教室の窓から陽射しが差し込む。

「空、明るくなってきたね」

「ふふっ……。ねぇ、今から晴れるよ」

 言う前に自分で笑っちゃう愛莉だった。

 そんな彼女に呆れつつ窓の外に視線を向けると、依然として雨は降っているが、ところどころ、千切れ千切れに青空が見える。愛莉の言う通り、もうすぐ晴れそうだ。もっと早く通り過ぎると思っていたのだが、案外長引いた。

 現在の時刻は十五時七分。

 三十分程前――三限目の講義を終え、帰宅しようと講義館を出る直前。急に空が暗くなったと思った矢先、篠突く雨に見舞われたのだった。まさにバケツをひっくり返したような大雨。鞄に忍ばせた折り畳み傘なんてまるで役に立たないであろう猛烈な雨を前にして、私たちは撤退せざるを得なかった。そんなわけで、こうしてふたりで空き教室に居座り、時間を潰しているのだった。

「今日は終日晴れの予報だったんだけどな~」

 と、亜麻髪の少女は退屈そうに呟く。

 そう、今日はこの時期としては珍しく一日中晴れの予報で、午前中に至っては雲一つない快晴だったのだ。それ故に、水溶性の彼女も家から出て、今現在こうしてここにいるのである。彼女の背景が雨模様というのもあまり見ない光景だ。

「ゲリラ豪雨も予報できればいいのにね~」

「うーん。それは無理なんじゃないかな」

「えっ、なんで」

「いや、予報できたら、それはもうゲリラではないじゃん」

 私がそう言うと、亜麻髪の少女は眉根を寄せて、首を傾げる。理解できないのか、それとも納得がいかずにむっとしているのかいまいち判然としない。

「というか、愛莉が外に出ようとしたタイミングで雨が降るのって珍しいね。愛莉が登校したってことは今日は傘いらずかな、なんて思ってたんだけど」

「ふふん」

 したり顔である。

 表情が豊かだ。

 しかしまあ、珍しいというのは本当で、今日みたいなケースは今までほとんどなかった。そもそも天気が崩れる可能性が高い日は家を出ない彼女なのだが、不思議なことに、彼女が登校した日に予報にはない雨が降り出したとしても、下校時間になると雨が止むのである。雨を嫌う女というより雨に嫌われた女なのかもしれない。そんなこともあり、修学旅行などの学校行事の前日には、一部の生徒が彼女を崇め奉る、なんてこともあった。

 濡れない女、芹澤愛莉。

 一体全体、どういう仕組みなのだろうか。

「あ、そうそう。今日みたいに突然雨が降ってさ、しばらく止みそうもないときってどうしてるの?」

「お母さんに車で迎えに来てもらってるの」

「ああ、なるほど」

 そういえばそうだった。高校生のとき、何度か見かけたことがあった。

「大学は家から遠いからあんまり呼びたくないんだけどね、電話したら来てくれるよ」

「へえ〜」

「ふふっ、大学まで車でお迎えなんて、お嬢様みたいでかっこいいでしょ!」

「…………」

 うーん。コンパクトカーだからなあ……。

 かっこいいかどうかはさておいて、お嬢様っぽさはない。

「まあ、たしかに呼びづらいかもね。愛莉の家からだと車でも一時間ぐらいはかかるだろうし」

「うん。お母さんは遠慮するなって言うんだけどさ」

「大事にされてるんだね」

「そうかも」

 お嬢様というよりお姫様だ。羨ましい限りである。

「じゃあさ、降水確率五十パーセントみたいな、降るかどうか微妙な時ってどうしてるの?」

「前の日からね、晴れるようにお祈りするの」

「すごい。陰陽師みたいじゃん」

「えっ、ミャンマー人?」

「陰陽師! どんな聞き間違いだよ!」

 似ているとも言えなくはないけども。

「なあんだ、陰陽師か~ あはは、私がミャンマー人とのハーフだってことがばれちゃったのかと思ってびっくりしたよ~」

「いや、言ってる言ってる! 愛莉さん、赤裸々に自白しちゃってるよ!」

「はっ……! くっ……誘導尋問とは……っ! おのれ、卑怯だぞっ!」

「いやいや、弱すぎだろ! というか誘導も尋問もしてないよ!」

「愛莉、一生の不覚……っ! だが、ばれてしまっては仕方がない。サラちゃん、これからは背後に気を付けてね!」

「なんか巻き込まれたー!」

 誰だ、こんなぽんこつを送り込んだやつは! さっさとこいつをクビにしろ!

「てか待って! 愛莉、ハーフだったの!? なんで教えてくれなかったの!?」

「えっ。だって、仲良くするのに血なんて関係なくない?」

「いや、まあ、そうだけど……」

「けど?」

 けどなに、と。いつになく真剣な眼差しで繰り返す愛莉。

 普段がマスコットキャラクターのような緩い雰囲気なだけに、その問いには妙な迫力があって、私は何も言えない。

「それともサラちゃんは、私が日本人じゃなかったら仲良くしてくれないの?」

 その言葉で、私は、はっとする。

 それは――違うよな。

「ごめん、私が悪かったよ。愛莉がどこの人間だろうと仲良くする――いや、仲良くしてください」

 そう言って、私が素直に頭を下げると、亜麻髪の少女は満足気に頷き、満面の笑みを浮かべる。

「えへへ、よかった。私も、サラちゃんが例え木星人だったとしても大好きだよ!」

「……そっか」

 木星人。

 あまり聞かない単語だな。

 しかしまあ、なんとも器の大きな友人だ。先程、しょうもないことで私を地獄に落とそうとしていたなんてとても思えない寛大さである。いや、私が木星人だったとしたら、人類の為にも然るべき機関に密告して欲しいところではあるけれど。

 それに――

 私が日本人じゃなかったら仲良くしてくれないの、か。

 まったく、目から鱗が落ちるとはまさにこのことだった。

 彼女の言う通り、人種――もっと言えば血族、家庭、性別に至るまで、生得的属性や要素はパーソナリティの一部ではあるが、あくまで一部、決してその人物の本質ではない。そんな一方的に与えられたさがでもって、勝手にカテゴライズすること――望んでもいないレッテルを貼るようなことは、それこそ地獄行きに相応しい罪であろう。

 いやはや、流石は我が友、芹澤愛莉。

 私の尊敬する人。

 愛すべき友人だ。

 私は、そんな彼女の高潔さを前に、水溜りのように浅くて狭い己の器を省みては、恥入るばかりなのであった。

「まあ、ハーフっていうのは噓なんだけどね」

「お前となんか絶交だよ!」

 心の中で褒めたことを後悔している私に謝れ!

「そんなことより、サラちゃん、どうしたの? 悩み事?」

「へっ、どうして?」

 脈絡のない唐突な質問に思わず声が裏返ってしまう。

「だって、いつもより突っ込みにキレがないし、溜息ばっか吐いてたから」

 突っ込みに駄目出しされた……。

「いや、なんもないよ。強いて挙げるとしたら、さっきのくだりを『そんなことより』のひとことで片付けられたことがショックだよ」

「本当に?」

「う、うん……」

 すると、愛莉は「むむむ」と、訝しげな表情を浮かべながら顔を近づけてきて、そして、すんすんと、私の首元で匂いを嗅ぎ始めた。

「え、な、なに? 何なのそれ?」

 そんな私の質問など意にも介さず、亜麻髪の少女はまるで犬のように鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ続ける。

 その行動に何の意味があるのかは全くわからないが、何か疑われていることだけは確かで、よくわからない緊張感が走る。

 そうして、ひとしきり嗅ぎ回った後、はたと気づいたというような仕草を見せる愛莉。

 まさか、本当に匂いで隠し事がわかるのか!?

「わかった! 私とデートできなかったのがショックだったんだ!」

「…………」

 よかった。ぽんこつだった。

「まあ、そんなとこ」

「もうっ! 絶対嘘じゃん!『こいつが馬鹿で助かった』って顔してるもん!」

 それは正解。

 変なとこで敏い彼女だった。

「嘘じゃないって。それより、ほら。雨も止んだからそろそろ帰ろっか」

 私がそう言っても、愛莉は窓の外には一瞥もくれず、むうと唇を尖らせながら、じとっとした視線を私に向けている。

「露骨に話題をすり替えて誤魔化そうとする私なのであった」

「…………」

「あ~あ。困っちゃうなあ」

「……困ったのは私だよ」

 愛莉は、それ以上訊いてはこなかった。

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