(中)

 愛莉を大学の最寄り駅まで見送り、それから家路についた。まだまだ梅雨は終わらない。次に彼女と会えるのはいつだろうか。

 自宅に着くと、すぐに通学用の大きなカバンから小さなショルダーバッグに持ち替える。そして、それに財布と鍵、ハンカチだけを詰めて再び家を出た。今度は駅とは反対の方角――二日前、縁とゆかりと少しの思い入れができてしまった神社を目的地に据えて、私は歩き出す。

 現在の時刻は十七時少し手前。まだまだ空は明るく、先ほどの大雨は夢だったのではないかと、そう疑ってしまうほどに爽やかな青空が広がっていた。だが、ところどころに形成されている水溜りがそんな疑念を溶かしてくれる。どうやらあれは、退屈な講義の中でみた夢だった――とか、そんな落ちではないようだ。愛莉と交わしたどうしようもなく阿保なやりとりも……。

 まあ、あの場面は別に夢でもよかったな。

「さて、あれはまだ残ってるかな」

 私は、家から歩いて三分ほどの距離にある洋菓子店の前に来ていた。店名は『ブラジル』。日本人店主が経営する、昭和の雰囲気が漂うノスタルジックな造りの店だ。この際、国際色が豊かだという感想は正解なのかどうかはよくわからないが、ここのモンブランが兎に角絶品で、週に一回は足を運ぶお気に入りの店だ。

 ドアに下げられたベルを景気よく鳴らしながら店内へと入り、早速、ショーケースの中を確認すると、例のモンブランがちょうどふたつ残っていた。

 よかった。

 お供え物としてはハイカラ過ぎる気もするが、あの神社なら問題ないだろう。

 もうすっかり顔馴染みになってしまった妙齢の女性店員。いつもよりひとつ多い注文で困惑させた後、いつもはつけないドライアイスをひとつ頼んで、さらに困惑させるのだった。

 会計を済ませて白い箱を受け取り、再度ベルを鳴らして店を出る。

 さて、気に入ってくれるだろうか。

 先日も通った高級住宅街の道。相も変わらず多種多様、色取り取りな紫陽花が陽に照らされて燦然と輝いている。私は、そんな道を歩きながら、二日前の出来事を思い出していた。ロマンチックさの欠片もない、それでいてドラマチックな出来事を――


「えっと……今、なんと……?」

「私を殺して欲しい」

 少女はそう言った。実に端的に、驚くほどに淡白に、聞き間違う余地なんて少しも残らないほどにはっきりとした口調で――そう言った。

 突拍子もなく。

 脈絡もなく。

 彼女が告げたのはこの上なく簡易な言葉だった。だが、どれだけ簡易な言葉であろうと、聞いた者がそれを理解できるかどうかは別問題だ。現に私は、彼女の美しい顔を見つめながら首を傾げることしかできなかった。

 趣味の悪い冗談だなあ、と。

 呑気にそう思いながら、真剣そのものに染まった彼女の表情を呆然と見つめることしかできなかった。

「頼む、シャラ。私はこの時をずっと待っていたんだ」

 シャラ――?

「あ、あの……人違い、じゃないですか?」

「ん? 何を言っているんだ?」

 いや、それは私の台詞だ。

「えっと、だから、私はその、あなたの言う『シャラ』さんではないと思いますよ?」

「は……? じゃあ、お前は一体……何なんだ……?」

 それも私の台詞だった。

 何って……。

「私は藤咲沙羅です。藤が咲くと書いて『藤咲』。下は沙羅双樹の沙羅と書いて『サラ』と読みます」

 ん?

 ということは、漢字の読み違いだろうか。

 だとしても、この少女は何故私のことを知っているのかという疑問がでてくるが……。

「藤咲サラ……」

 少女は確かめるように私の名を繰り返し、そして――

「本当に私のことがわからないのか?」

 と、震えた声で訊いてくる。

 何やら只事ではない事情がありそうだが、私は正直に頷いた。残念だけど、わからないものはわからない。

 それを見た少女は、その凛とした顔を絶望に歪める。崩れ落ちてしまいそうなほど情緒的に。美しいほど悲劇的に。

 だから、私は訊かずにはいられなかった。

「あの……何かあったんですか?」

「いや、なんでもない……」

 少女は呟くように言う。

「すまない。人違いだった」

 穏やかな雨にかき消されてしまいそうなほど、酷く弱々しい声音だった。

 なんでもないって……。

 それなら、どうしてそんなに悲しい顔をしているのだ。どうして泣き出しそうな表情でいるのだ。

 なんでもないなんて――そんなの嘘だ。

 私にできることがあればなんでもしたい。この少女を笑顔にできるなら、人探しでもなんでもしよう。

 そう心に決めて、自ら協力を申し出ようとしたその矢先のことだった。

「今日のことは忘れろ。今日、私たちは合っていない。いいな?」

「は、はあ?」

 少女は、そんな無茶苦茶で身勝手な言い分で私を制し、そして――

「ここにはもう二度と来るな」

 と、取り付く島もなく、少女は凛とした声でそう言い放ち、こちらに背を向けて本殿の方へと歩み去っていく。

「ちょっ、待ってください……って、んん?」

 本殿の方に?

 話の流れ的に少女がここを去る場面だと思ったのだが……。

 こんな展開からでも、律儀にお参りをしてから帰るつもりなのだろうか。信心深い少女だ。もしかすると『ここにはもう二度と来るな』という先の台詞から察するに、彼女は頻繁にこの神社を訪れてはお参りをしているのかもしれないな。

 私は、そんなことを考えながら、玉砂利の清らかな音と共に本殿の方へと歩いていく少女を見つめる。そして、少女は本殿の前まで来ると、御扉みとびらの前に置いてある背の低い賽銭箱の上に乗った。

「えっ……?」

 それから、黒のレインシューズを足だけで器用に脱ぎ、慣れた手付きで無作法に御扉を開けると、我が物顔でその中へと入っていくのだった。

「使われてるというか住まわれてるー!」

 ご近所さんどころじゃないじゃん!

 こちらにお住いじゃん!

 ちらっと見えた扉の向こうにすごい生活感あったんだけど。下着とか脱ぎ散らかしてあったんだけど。

 え? なに? どういうこと?

 神様なの?

 買い物帰りの神様だったの?

 理解不能な出来事の連続に、私の頭はどうしようもなく混乱してしまう。

 なんかもう、頭痛くなってきた……。眩暈もする……。

「忘れろって……」

 こんな衝撃的なことをどう忘れろと言うのだろうか。前世の記憶として次の世代に残る程にセンセーショナルな出来事だっての。

 ふと、夏椿の方を見遣ると、先程、少女が置いていった花束が目に留まる。菊を主役とした慎ましい見た目の花束。

「…………」

 そうして、しばらく呆然と立ち尽くした後、強くなってきた雨脚に押され、自宅へと帰ったのだった。


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