(下)
――そして、現在。
一度はけを下ってから階段を登るという無駄としか思えない上下移動を終えて、乱れた息を整えている。
「ふう……ふう……」
ここに来る度にこれを二回……。
推し活にも体力が必要ね……。
はあと、深く溜息を零し、ゆるりと辺りを見渡す。
どうやら、天気と人気との間には関係がないようで、透き通るような青空が広がっている本日も、先日のそれと何ら変わらぬ閑散とした境内がそこにはあった。
「…………」
寂しいような、安心するような。私の感情をなんとも言えない複雑な状態にさせる、そんな光景だった。
その境内の真ん中では、これも相変わらず夏椿が綺麗な花を咲かせていた。
夏椿――別名、
私と同じ名前を冠する樹木。いや、頂いたと言うべきだろうか。
私の『
じゃあ、どうして『沙羅』にしたの?
そんな、純粋たる疑問を呈する私に対して、母が語った名付けの理由は実にシンプルなものだった。
『夏椿が好きだから』
ただ、それだけ。
まあ、でも、名前なんてそんなものだと思うし、そんなものでいいとも思う。
そのせいで損や苦労をしたという場面はこれと言って存在せず、強いて挙げるとしたら、小学四年生のあるあるイベント――『二分の一成人式』の一環で『自分の名前の由来を知ろう』という課題が出されたときぐらいなものである。まあしかし、それも結局、二人で後付けの理由を考えたいい思い出として私の胸に残っている。
ちなみに、夏椿の花言葉は『可憐』だ。
そんな花言葉が付けられるほど、儚く美しい花の名前を授かったにも関わらず、現在の私には『可憐』と形容されるような要素は微塵も含まれておらず、名前負けどころか名前に殺されているというのが現実だ。
名前なんてそんなもの。
個性のひとつだが、あくまでひとつ。
まあ、これは持論であるし、中には『されどひとつ』と言う人もいるだろうけれど。
――さて。
ここに来たはいいが、これからどうしたものか。よく考えれば、今現在彼女がいるのかどうかもわからない。
「…………」
とりあえず、参拝しよう。
私は財布から十円玉を取り出して踏台――もとい賽銭箱に落とす。それから、鈴緒を振り、がらがらと音を鳴らした。
まさか、本坪鈴を呼び鈴として使う日が来るとはなあ……。
「ごめんくださーい」
そうして、しばらく待ってみるが、反応はない。
お出かけ中だろうか。
十月でもないのに留守になる神社ね……。
とりあえず、神社における一般的な拝礼作法である二礼二拍手一礼をやっておく。
うーん。
これからどうしたものか。
選択肢としては――出直す。あるいは、彼女が帰ってくるまで待つ。
そのどちらかなのだが……。
後者を選んだ場合、要冷蔵の生菓子を持っていることが懸念事項になってくる。彼女を待つ時間が短いなら問題ないが、長時間待つとなると食品衛生的に問題だ。
「仕方ないかあ……」
残念だけれど、今回は出直すのが正解かな。
そう結論付け、階段の方へ足を踏み出そうとした、そのときだった。
「二度と来るなと言ったはずだ」
御扉の向こうから、そんな声が聞こえた。
魅惑的なハスキーボイスが奏でる、凛とした言葉。
彼女だ。
居留守を使うとは。案外、神様も俗だ。
「よかった、いたんですね。渡したいものがあったんです」
「いいから、さっさと帰れ」
「モンブランはお好きですか? 貴女にと思って買ってきたのですが……」
「聞こえなかったのか? もう一度だけ言う。いいから、モンブランを賽銭箱の上に置いて、さっさと帰れ」
ちゃっかり言い直してる。
どうやら好きみたいだ。
「わかりました。じゃあ、ここに置いておきますね」
そう言って私は、彼女に言われた通りに賽銭箱の上に白い箱を置く。そして、言われた通りにさっさと帰ることはせず、御扉の正面から少し外れたところでじっとしてみる。
だって、悲しいじゃん。
折角、あんな階段を登ってまで来たのに、彼女の姿が見れないなんてそんなの悲しいじゃん。
そうして、そのまま三分程が経過したときだった。中から錠を開ける音が聞こえ、御扉がほんの少しだけ開かれる。どうやら、外の様子を窺っているらしい。
随分と用心深い。先日は、あんなラフな格好で買い物に行っていたというのに。
それから更に三分程が経過して、ようやくその扉が開かれた。ついに彼女と相見えるのかと思うと、胸の高鳴りが止まらなかった。そして、私が出待ちしていることなど露知らず、目の前の白い箱に釘付けになりながらゆっくりと姿を現したのは――だるだるのTシャツにショーツ一枚の少女だった。
「俗すぎる!」
「なんでまだいるんだよ!?」
予想外のサービスショットに思わず叫んでしまった私と、咄嗟に吠え返す少女。
楽しいやり取りだ。
そうして、切実すぎる突っ込みを披露した少女は、目にも留まらぬ俊敏な動きでモンブランを回収し、そのまま流れるような動作で扉を閉め、鍵を掛けるのだった。
洗練された無駄のない動きだった。
今まさに
どんだけ好きなんだよ……。
目の前で繰り広げられた、卑しさの極致のような曲芸に思わず感嘆していると、扉の向こうから思いもよらぬ質問が飛んでくる。
「……見たか?」
「な、なにを……?」
「私の苺パンツを見たかと聞いているんだ!」
「ええっ!?」
自分で言っちゃったよ!
せっかく黙っていてあげたのに!
伏せといてあげたのに!
「何か言ったらどうなんだ!」
何か言えって……。
うーん。
「えっと……似合ってましたよ……?」
「そういうことじゃない!」
「ええ……」
じゃあ、どういうことだったんだ……。
ごちそうさまでした、とかだろうか。
いやしかし、似合っていたのは本当だ。かなり子供っぽいデザインのショーツだったが、小柄で華奢な体躯の彼女が纏うことで、その魅力を最大限に引き出していたのだ。
そう、彼女は凄く小さい。一昨日、私の目の前に立った彼女は、小学校高学年の女子児童ぐらいな背丈だった。恐らく、百五十センチもないと思う。だから、比較的背の高い私との間には頭ひとつ分以上の差があり、普通に向き合うとかなり見下ろす格好になってしまうのだった。
「まったく……。帰れと言っただろ。何度も言わせるな」
「だって、ふたつのうちひとつは私のモンブランですもん」
「えっ」
「えっ」
こ、こいつ……。
ふたつとも食べるつもりでいやがった……。
見掛けによらず食意地が張っている。
「……わかった。じゃあ、階段の方を見ていろ」
少女は、いかにも渋々と言った風にそう言って――
「絶対に振り返るなよ」
と、強い語調で念を押してきた。
「はいはい」
私は素直に後ろを向いた。
それから、別に言われてはいないが、目を瞑り神経を聴覚に集中させた。つまり、耳を澄ました。
すると、微かにだが、すたすたと板張りの床の上を素足で移動する音が聴こえた。次いで、ことりと何か固いものを置く音。かさかさと紙箱をいじる音。かちゃかちゃと食器同士がぶつかる音が、聴こえた。
視える。視えるぞ。
私には扉の向こうが見える!
つまり、こうだ――少女は皿とカトラリーを取りにいった後、紙箱を開けて、モンブランの片方を皿に乗せた。
どうやら、片方のモンブランは私に返してくれるようだ。
そうして、そのまま耳を澄ましていると、再び紙箱をいじる音が聴こえ、それから、かちゃりと錠が開く音が聞こえた。
ああ、早く彼女の姿がみたい……!
この目で……!
逸る気持ちを必死に抑えつつ、耳を澄まして彼女の動向を伺っていると、ぎいと短く扉の開く音が聞こえた。
「………!」
落ち着け、私。
ここで慌ててはいけない。
焦りは禁物だ。急いては事を仕損じる。
そうだ。じっと、機を伺うのだ。虎視眈々と――。
彼女は今、私が後ろを向いていることを確認している。この次に彼女は何を考えるか。そう、私にばれないよう隠密に事を終わらせようとするだろう。いくら俊敏な動きとは言え、流石に私が振り返る方が早い。であるならば、私が振り返らないようにすればいい。つまり、動きを悟られなければよいのだ。
だが、甘い。甘すぎるぜ。モンブランだけにな!
私は既に彼女の動きを掴んでいる。
彼女の一挙手一投足が視えているのだ。
そう。既に勝負は見えていた――。
少女は扉に手を掛け、音が鳴らないように慎重に開ける。全開じゃない。彼女の小さな体が通れる分だけの幅。それから、紙箱を手に取り、もう片方の手を床につく。少しだけ離れた位置――手を伸ばせば十分届く距離にある賽銭箱を見据え、紙箱を持った手をゆっくり伸ばす――
――今だ!
私は瞬時に右膝を内側に倒し、腰を捻る。
振り返るのではない――回るのだ。
軸をぶらさない完璧な回転。一切の無駄を排除した最小限の動きで視界を百八十度転回し、彼女の姿を正中線上、真正面に据える。
捉えた!
「苺パンツだ!」
「なんで見てんだよっ!?」
少女は、そう叫びながら、まるで胡瓜を見た猫のように後方に飛び退き、その勢いのまま扉を閉めた。
「振り返るなって私言ったよな!」
「いや、だってそういうお約束じゃん……」
「そんな約束をした覚えはない!」
それはそう。
「え、でも、私に後ろを向かせるまでもなく、服を着れば万事解決だったじゃん……」
「今洗濯してるからこれしかないんだよ!」
「うわあ、俗っぽい……。理由が俗っぽい………」
だからふり返るなと言ったんだ、と。
苺パンツの少女は、拗ねたような口調で吐き捨てる。
「ご、ごめんなさい。つい……」
定番の流れとは言え、流石に少し身勝手すぎたな、と。自分の行いを反省していると、扉の向こうから、かちゃかちゃと音が聞こえた。
どうやら、付属のプラスチックスプーンは使わない派らしい。
「私も一緒に食べていいですか?」
返事はなかった。
ただ、駄目とも言わなかった。
私は賽銭箱の隣――扉の前の石段に腰を下ろす。そして、白い箱を開けた。
そこには、小麦色のスポンジを土台に、純白の生クリームと茶色のマロンペーストが盛り合わせられてできた小高い山がそびえていた。ただ、その頂きに恭しく据え付けられているはずの――据え付けられていたはずの栗は、火口の様に抉り取られたへこみと哀愁だけを残して姿を消していた。
「あの……。私の栗、食べました……?」
返事はない。
なんて卑しいんだ……。
――はあ。
まあ、いいや。
二回も苺見せてもらったんだ。栗のひとつくらい安いもんさ。
我ながら気持ちの悪い思考法だが、兎に角、気を取り直して、店員がつけてくれた小さなスプーンでそれを掬い取り、口へと運ぶ。
少し硬めのマロンペーストと滑らかな生クリームの舌触り。上品で優しい栗の甘みと、口いっぱいにふわりと広がる洋酒の香り。バターの芳醇な香りが漂うくちどけの良いスポンジ。
全てが最高だ。
何度食べても美味しいなんて、もう感動のひとことだ。
ふと、思う。
扉の向こうの彼女は、どんな表情でこのモンブランを食べているのだろうか。
「…………」
扉一枚。
近くて遠い彼女に想いを馳せるのだった。
あ、そう言えば――
「一昨日から気になってたんですけど、あなたは神様なんですか?」
今度は返事があった。
「そんなわけがないだろう。私はただの人間だ」
「ふーん。ここに住んでるから、てっきり神様なのかと思いました」
「もう、ここに神はいない」
もう――?
「以前はいたってことですか?」
「そうだ。昔はいたが、今はいない」
そう語る少女の口振りは、まるで、実際にその目で見てきたかのような――そんな響きだった。
「なんでいなくなっちゃったんですか?」
「信じる人がいないからだ」
「人が、いない……?」
神ではなく、人が――?
「人に信じられていない神は、神ではいられないんだ。人に敬われ、人に崇められ、人に感謝され、人に畏れられ、人に信じられて――そうして初めて神は、神でいれる。そこに存在することができる。だから、逆に言えば、神は何処にだって現れる。誰かが暇つぶしに、気まぐれで重ねた石ころにだって、人が信仰すればそこに神が宿る。けれど、信じる人がいなくなれば、瞬く間に存在が消える。儚い存在なんだよ、神って奴は」
「儚い、存在……」
人の夢のような存在。
神は存在するから信仰されるのではない。信じる人がいるから神が存在する――ということか。
「まあ、私は神なんか信じていない。見たことがないからな。私はこの目で見た事しか信じない」
「……そっか」
なんというか、物凄い少女だ。私よりも明らかに年下な見た目をしているのに、言葉の重さが、厚さが――それじゃあない。
大人の私なんかよりも、ずっと達観した視点を持っている。
この目で見た事しか信じない、か。
少女はあの凛とした瞳で――今まで、何を見てきたのだろう。
何を信じて生きてきて――何を信じて生きていくのだろうか。
「つまり、先程お前がやっていたあの下手くそな拝礼は、全くもって無駄だったというわけだ」
「えっ、あれに下手とかあるの?」
「そうだな。もう少し感情を込めて拝むと個性が出るぞ」
「カラオケの採点みたいな駄目出しされた……」
というか、個性的な拝礼ってなんだよ。とても良いようには聞こえないのだけど。
しかし、まあ、なんというか――
「こうして、声だけだと歳上の人と喋ってるみたい。ねえ、貴女って何歳なの?」
「無礼な奴だな。『女性に年齢を訊いてはいけない』と学校で習わなかったのか?」
「す、すみません……」
学校で習うかどうかはさておいて、たしかに必修事項ではある。
けど……。
だけどそれ……。
大人の女性が対象だった場合の話だよな。
うーん。
どう見ても歳下だったけど、実は私より歳上だったりするのだろうか。
いや、それは流石にないか……。
「そうだ。じゃあ代わりに――ってわけじゃないけど、名前を教えて。私の名前は教えたのに、あなたの名前を訊いてなかったからさ」
そう、私が問いかけると、これまでテンポよく返ってきていた反応が、不意に途絶える。
言いたくないのだろうか。
「ああ、無理に教えてとは――」
「華憐だ」
「……えっ?」
「私の名は華憐。蓮華草の『華』に憐憫の『憐』と書いて『カレン』」
「華憐……」
別に覚えなくていい、と。
少女は囁くように、小さく言った。
蓮華草の『華』に憐憫の『憐』と書いて『カレン』。
華を憐れむ――か。
とても似合っている。
それが、私の素直な感想だった。
「素敵な名前ね」
儀礼的ではなく、本当にそう心から思う。
そして、私は続けて問いかける。
「また、会いに来てもいい?」
「……好きにしろ」
少女は、駄目とは言わなかった。
「ふふ、わかった。じゃあ、今日は帰るね」
そう言って、私が立ち上がったそのとき。
「待て」
扉の向こうから響く蒼い声が、にわかに私を呼び止めた。
私は振り返る。
するとそこには――相変わらず、ぴっちりと閉まりきった仰々しい扉。
「どうしたの?」
私は、そう言葉を促して、彼女の二の句を待った。
そして、逡巡するような間を空けて、少女はこう言った。
「モンブラン美味しかった。ありがとう」
見た目に似合わしい、瑞々しい響きだった。
ああ。そういうことね。
「それはよかった」
気に入ってくれたのなら何よりだ。
「じゃあ、またね」
私は空になった白い箱を提げて階段を下っていく。もう十分に陽も傾き、空が枯れるように赤みを帯びてきた頃。
雑木林に囲まれた参道は一足先に夜に近づいていて、木々の間から射し込む掠れた夕陽が頼りなく階段に映っている。そんな階段を注意深く下りながら、ふと、彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
だるだるのTシャツに子供っぽい苺パンツ。パンツの裾から覗く鼠径部。その魅惑的な谷間から右太腿の上部にかけて――そこだけが鮮明に浮かび上がる。
白く透き通るような肌を彩る――何か。
日焼けしたような肌と火傷したような肌とが、複雑に、不規則に入り交じった、迷彩柄のような、斑模様のような――何か。
痛々しい痣のような――何か。
蠱惑的な美しさのある――何か。
何処か見たことがあるようなその何かを――私は、思い返していた。
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