第二章【月暈】
六月二十五日
(上)
六月二十五日
大学の空き教室。
生協で購入した鶏天丼の弁当に二袋目の七味をかけていた、そのとき。
ひとりの少女が――わざとらしく高らかに
「御機嫌よう、諸君! いや、ごみ虫ども!」
「…………」
なんか始まった。
「本日、貴様らに集まって貰ったのには当然ながら理由がある。それ故に、愛する娘の授業参観を泣く泣く欠席して、貴様らの冴えない顔とこうして対面しているというわけだ。藤咲二等兵、私の気持ちがわかるか?」
「芹澤軍曹、全く意味がわかりません」
「まったく……。お前の頭の中には漬物石でも詰まっているのか?」
やれやれと言った風に大袈裟に肩を竦めて、嘆息を漏らす亜麻髪の少女。
なんだこいつ。
「まあいい。さて、今回の指令だが――貴様らには、愛しのサラちゃんとのデートプランを考えて貰いたい」
「軍曹、お言葉ですが、先程からここには私しかいません」
というか、家族溺愛の親バカキャラはどうしたんだよ。娘が聞いたら泣くぞ。
「ほう……活きのいい奴がいるな。よし、お前、希望の日程を言ってみろ」
「自然な流れだ!」
なんだこいつ。
すげーおもしれえ。
このやり取りの為だけに用意したっぽいそのサングラスも、全然似合ってなくて尚のこと面白い。もしかして、この為にわざわざ買ってきたのだろうか。それとも元々持っていたのだろうか。
あとで訊いてみよう。
しかしまあ、いずれにしても面白いし、気合いの入った寸劇であることに違いはなかった。だから、私としては、もう少しこの寸劇を楽しみたいところではあったのだが、残念なことに、続きは用意されていないようである。
私の視線の先――しんと静まり返った教室の壇上では、先程、愉快な台詞回しを披露した彼女が、言い切ったときのどや顔のまま固まっていた。
「さてはお前、今の台詞が言いたかっただけだな?」
「…………」
どうやら図星のようだ。
仕方ないなあ。
「麺伸びちゃうよ?」
「あっ! 忘れてた!」
そうして、亜麻髪の少女が、とてとてと小走りに戻ってきて、この劇は幕を引いたのだった。
ちゃんちゃん。
現在の時刻は十二時四十六分。
二限終了後のお昼時だ。
金曜日は午前の講義しか受講していないため、こうして空き教室でお昼ご飯を食べてから帰宅するのが、ふたりの恒例行事となっている。
「どう? 似合ってるでしょ?」
そう言って愛莉は、生協で買ってきたカップ麺を片手に持ちながら、ずり下がったサングラスをこれ見よがしに割り箸で押し上げる。
「ふふっ……」
不意を突く彼女のギャグ――まるで、奇を衒ったカップ麺のテレビ広告のような絵面に、私は、思わず息を漏らしてしまう。
すると、愛莉は――
「ん〜? おやおや〜?」
と、ここぞとばかりにサングラスを掛けているというより、サングラスに掛けられている顔を近づけて、追い討ちをかけてくる。
くそう。
悔しい。
笑ったら負けだと頭ではわかっているのだが、どうしようもなく、腹の底からふつふつと笑いの衝動が湧き上がってくる。
どうしてだろうか。サングラスが似合ってないというだけで、どうしてこんなにも面白いのだろうか。
わからない。
もう面白いということしかわからない。
しかし、ここで笑ってしまったら愛莉は調子に乗るだろう。いや、絶対に乗る。間違いなく調子に乗る。だから、私は毅然とした態度で先の質問に答えなければならなかった。
「すぅー……」
私は息を浅く吐き出し、気合いで笑いを抑え込みながら、精一杯の澄まし顔で言い放った。
「はいはい。似合ってる似合ってる」
すると今度は、持っていたカップ麺に息を吹きかけ、白く曇らせたサングラスを不敵な笑みとともに見せつけてきた。
「あははははははははははっ!」
くだらねー!
平和。
実に平和な日常だ。
亜麻髪の少女は、大爆笑の結果に満足したようで、明らかにサイズの合っていないサングラスを外し、柔らかそうなカップ麺をちゅるちゅると啜っている。
うん。やっぱり、この顔は隠さない方がいいよな。
丸みのあるフェイスラインにくりくりとした垂れ目。小さな鼻と口。あどけない可愛さのある童顔の女の子。加えて、身長は百五十センチと小柄な体躯。私と頭一つ分以上の差がある。まあ、私がでかいだけなんだけど。
彼女の容姿については、端的に「先輩ウケが大変宜しい雰囲気」と言えば十分にその魅力が伝わるだろう。実際、先輩ウケが大変宜しい。入学してすぐに、とあるサークルに入会したが、二日後には先輩から告白されていた。いやはや、それは流石に節操が無さすぎだろうと言いたいところではあるが、女の私でも強烈に庇護欲を唆られてしまうような彼女を、世の男性が放っておくわけがないのだ。
男性諸君、その気持ち、よくわかるぞ。
こいつ、可愛いよな。
と、まあ、まるで愛くるしさの権化のような彼女なのだが、未だかつて彼氏が出来たことがない。いや、一度だけ高校生のときに、一個上の上級生からの告白を了承し、恋仲になった時期があったが、二週間足らずでその関係が終わった。彼女曰く「なんか違った」とのこと。ちなみに、今回の告白も彼女は丁重にお断りした後、サークルを退会した。そろそろ『先輩スレイヤー』の称号を与えられてもいい頃だろう。
「というか、そのサングラスはどうしたの?」
私は机の端の方に置かれているサングラスを指し示しながら、先程から気になっていた疑問を投げかけた。よく見ると有名なブランドのロゴがテンプルに刻まれている。見るからに高そうだ。
「駅前通りの古本屋で売ってたの」
「古本屋で!?」
「うん。二百九十八円」
「なにそれ、怖っ!」
明らかに曰く付きな売り方だ。
「ねえ、それ、大丈夫なの? 呪われてたりしない?」
「大丈夫なんじゃない? 外せないわけじゃないし」
「でも、やっぱり、もう掛けない方が良いよ、それ。似合ってなかったし」
「ええ~……じゃあ、あげる」
「ええ……」
曰く付きのサングラスを手に入れた!
「ねえ、それよりさ、デートの日を決めようよ~」
「うーん。デートするのは賛成だけど、まだ梅雨だよ?」
「でもでも、この前のデートはドタキャンしちゃったし」
「いや、でも、雨の日の方が多いんだから、また中止になるかもじゃん」
「そうだけど……」
「埋め合わせなら梅雨が明けてからでも大丈夫だよ」
「むぅ……」
うーん?
私は彼女の抱える事情に気を使ったつもりだったのだが、当の本人は唇を突き出して不貞腐れてしまう。
いったいどうしたのだろうか。ドタキャンなんていつものことなんだから、今更、罪悪感なんて感じる必要もないし、埋め合わせを急ぐ必要もないと思うのだけれど……。
「じゃあ、今日! この後デートしようよ!」
「えっ、夕方から雨だって愛莉が自分で言ってたじゃん」
「大丈夫! あと二時間と十三分は大丈夫だから!」
分単位……。
愛莉が言うのだから信憑性の高い情報なのだが……。
「いや……今日はちょっと……」
「ちょっと?」
「ちょっと……用事が……ある……」
野暮用。
そんな風に、私はしどろもどろに誤魔化した。
知り合ったばかりの――しかも、中学生ぐらいの女の子に会いに行こうとしているなんて、正直に言えるはずもなかった。そんなことを軽々に言おうものなら、怒られるだけではなく、確実に軽蔑されるだろう。聞きようによっては犯罪者だからな。
ただ、不審さは隠しきれなかった。いや、むしろ、変にはぐらかしたことで不審さが増した。極まったと言ってもいい。
案の定、亜麻髪の少女は何かを察したらしく、訝し気な表情を浮かべながら、私に詰問してくる。
「……サラちゃん……何か隠してない…?」
「へっ!? な、ななななな何を言ってるのよ。私、モウ十九歳ネ。ソリャア、隠シ事ノヒトツグライアルヨ」
「ふーん」
と、そうひとこと零して、ぎこちない日本語で釈明する私を、半目で睨むようにこちらを見つめる愛莉。そして、やはり納得がいかないようで、すんすんと鼻を鳴らしながら私の首元に顔を近づけてくる。
「いや、だからなんなのそれ!?」
「うるさい。今集中してるの」
「あ、はい……」
ぎろりと、力のある瞳で睥睨され、私は黙らされる。
これは、前回同じようにされたときにわかったことなのだが、自分の匂いを嗅がれるというのは想像以上に精神的苦痛をもたらす。まず、彼女の探知能力は全く当てにならないため、隠し事がばれることはない。その心配はまったくの皆無である。じゃあ、何が苦痛なのかと言うと――トートロジー的な言い方にはなってしまうが――匂いを嗅がれることが苦痛なのだ。もうそれでしかない。
それに、時期が悪い。
今は六月も終わりの頃。
蒸し暑さで汗ばむこともあるし、梅雨のせいで洗濯物はからっと乾かないのだ。
これはもう、新しい拷問として認可されるべきだろう……。
と、性質上自覚しづらくケアの難しい、匂いという身だしなみの良否を案ずる私を余所に、亜麻髪の少女は検疫探知犬よろしく嗅ぎ回る。そして、はっとしたような仕草を見せて、こう言った。
「
「…………っ!」
私は戦慄した。
まさか、見事に図星を突いてくるとは思ってもみなかった。全身から嫌な汗が滲み出る。
何故だ。
まったく当てにならないと、そういう話だったはずなのに……。
というか、まだ会ってないのに何で匂いでわかるんだよ! エスパーかよ!
「め、メスって……。もう、やだなー……あはは……」
「年上の雌性……」
「そこまでわかるの!?」
怖い! この子怖い!
ん?
いや、待てよ。
私がこれから会おうとしているのは歳下のうら若き少女だし、年上の女性どころか今日はまだ愛莉以外の女性とは会話してないはず――って、まさか、生協のレジのマダムのことか!?
「それは誤解だ!」
「え? それ? それってどれのこと? もしかして年下なら当たりってこと?」
「ぐっ……!」
こいつ……鎌を掛けてきやがった……!
私の突っ込み力を試していると見せかけた巧妙な罠。なんて恐ろしい女なんだ。
愕然として声も出せないでいる私を、亜麻髪の少女は怜悧な視線でねめつけている。
何故こんなことに……。
よく考えれば、愛莉がここまで怒る意味もいまいちわからない。私は別にデートをしたくないと言っているわけではない。梅雨明けまで待ったらどうだと提案しているだけだ。
どうせ彼女のことである。ただ単に私を困らせて楽しんでいるという線も十分に考えられる。が、とりあえず、今の私にできることはただひとつ。
勢いで誤魔化そう――
「おいでー! よおし、よしよしよしよしよしよし。愛莉ちゃんは可愛いでちゅねー。いい子でちゅねー。よしよし、いい子いい子」
私はがばっと小柄な少女を抱き寄せ、亜麻色の髪をわしゃわしゃと撫で回す。
「ひゃ! ねえ、ちょっ! 私は今怒ってるにぇへへへへへへへへ。もうっ! 誤魔化そうたって無駄なんだからにぇひぇひぇひぇひぇひぇひぇ」
うわあ……。
ふたつの感情が彼女の中で激しく対立している……。
私の腕の中で、怒ったり喜んだりと多忙極まりない彼女を前に、私は得も言われぬ罪悪感に苛まれるのだった。
許せ、友よ……。
そうして、彼女の頭をひとしきり撫で回して満足した私は、盛大に乱してしまった彼女の髪を手櫛で整える。
柔らかくて、指通りのよい綺麗な髪。
結局、最後まで私にされるがままだった少女の表情は、台風が過ぎ去った後の青空のように清々しく晴れ渡っていた。
ちょろい。ちょろ可愛い。
「うーん。やっぱり、愛莉は猫というよりかは犬っぽいよね」
と。つい、同意を求めるような言い方になってしまったが、この場において私以外に賛否を唱えられる者はいなかった。
そのはずだった。
「そう? 結構言い得てると思ったんだけどな~」
「え?」
「え?」
なんか反論っぽいのが返ってきた。
「あの噂、愛莉も知ってたの?」
彼女は水溶性、猫の生まれ変わり、たんぽぽの妖精――と、愛莉の極度の雨嫌いに起因するあの噂。ともすると、本人の耳まで届いていたのか。確かに有名な噂と言えばそうだった。
と、そんな風に理解した私だったが、彼女から返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「うん。だって、あれを考えたの私だもん」
「…………」
私は絶句した。
「三日三晩かけて考えたんだよ?」
しかも力作だった。
「そ、そうだったんだ……」
なんだろう、私の胸を支配するこの感情は。
ショックというわけではない。断じてショックではないのだが――なんというか、切ないな……。
できることなら知りたくなかった。それだけははっきりとわかる。
「他にもいくつか流したんだけど、定着したのは三つだったね」
「へえ……。また、何でそんな噂を流したの?」
と、私は当然と言えば当然の疑問を投げかける。すると、愛莉はなんて事のないようにあっさりと答えた。
「そういうイメージを植え付けておけば、私が休んでも『まあ、あいつならしょうがないか』ってなるでしょ? ほら、私、よく休んじゃうからさ」
「ああ、なるほど」
実際にそんなやりとりをしているクラスメイトを見たことがある。何とも表現しがたい微妙な気持ちにさせられる裏話だったが、その裏工作は案外てきめんに効果を発揮しているようだった。
しかしまあ、如才ない彼女だった。
キャラ設定のためなら少しの努力も惜しまないその姿勢。
素敵だ。
「でも、ちょっとショックだなー。似てるから定着したのかと思ってたのに」
「うーん。多分、似てる似てないというよりかは語感が良かったからなんじゃないかな。覚えやすいし」
「そっかあ……」
ぴえん丸、座礁、沈没。
と、流行りそうもない独特なフレーズを呟いて、大袈裟に落ち込む亜麻髪の少女。
ポップに大事件だ。
「逆に聞くけどさ、愛莉は自分のどこが猫と似てると思ったの?」
「可愛いところだけど?」
即答だった。
しかも、言外に『何をそんな当然のことを聞いているの? そんなこともわからないの?』という純粋な疑問が含まれていた。
いや、まあ、確かにそうだけどさ……。
「それなら猫じゃなくてもいいじゃん……」
犬も可愛いよ。
愛莉は猫派の人間だったのかな。
「というか、自分で可愛いとか言っちゃうのね。いやまあ、可愛いけどさ」
「えへへ。それほどでもないよ」
「こいつ、後半の言葉しか聞いてねえな」
とはいえ、自覚しているのはいいことだ。自分の可愛さを自覚していないのは罪だからな。
「まあ、中には猫に似てるって思う人もいるんじゃない?」
「でも、サラちゃんは似てるとは思わないんでしょ?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、サラちゃんなら私のことなんて言うの?」
「む」
そう来たか。
うーん。そうだなあ。
キャッチ―なのがいいけど、あんまり変なこと言うと怒るよなあ。
と、彼女のお眼鏡にかなう二つ名を必死に考えていると、目の前の少女は、早く聞きたいと言わんばかりに目をきらきらと輝かせて、私の回答を待っている。
期待に緩んだ頬がなんとも愛らしい。
ああ。これは、なんというか――
「『犬のお巡りさん』……かなあ」
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