(下)
十五時二十六分
概ね、愛莉の言った通りの時間から静かに降り出した雨の中、私は例の神社へと繋がる石階段を登っていた。片手には例のモンブランが入った白い箱。お供え物である。
何やら大学と神社の描写を行ったり来たり繰り返している私だが、どうか大目に見て頂けると幸いだ。大学生である以上、平日のほとんどの時間を講義に取られてしまうことに加え、そこまで外出を好む性格ではないため、物語進行の舞台は、大学、もしくはこの神社、のどちらかになってしまいがちなのだ。
そう――誇らしくもないし、決してひけらかすようなことではないが――私は基本的に引きこもりなのである。だから、つい最近まで、自宅周辺の地理を知らなかったし、この神社の存在も当然知らなかった、というわけなのだが、そんな私が、ここまで積極的に外出するようになったとは、自分でも驚きである。推しの存在は偉大だ。
まあ、つまり、サークルに所属しているわけでもアルバイトをしているわけでもなく、休日に誰かと遊びに行くことも少ないという、充実しているとはとても言い難い学生生活の中では、話に挙げるような場面は大学で愛莉と駄弁っているときか、この神社に参拝しに来たときぐらいということであり、そして、その冴えない学生生活を送る私は、本日も例に漏れることなく、大学から帰宅した後、この神社にお参りしにきた、と。そういう話だ。
悲しくなんかはない。
決して、悲しくなんか……。
「はあ……」
階段を登り切ったところで小休憩。目元に滲む汗を手で拭いながら、みっともなく上がった息を落ち着かせる。
そうして、辺りを見渡すと――そこには、相変わらず寂れた雰囲気の境内があった。晴れだろうが、雨だろうが、参拝に訪れる人は私以外ひとりとしていない。唯一の賑やかさだった夏椿の花もすっかり落ちきってしまって、以前にも増して、閑散とした光景が広がっていた。
忘れられた神社。
忘れられた神様。
「…………」
そういえば、ここには何の神様がいたのだろうか。それがわかるような物は何処にもないし、どころか、神社の名を示すものすら見当たらない。
まあ、華憐ちゃんに聞けばわかるか。
さて。今日もいるかな。
持っていた白い箱を賽銭箱の端の方に置き、財布から十円玉を取り出して賽銭箱に落とす。それから、鈴緒を振って、がらがらと本坪鈴を鳴らした。
「ごめんくださーい」
反応はなかった。
留守だろうか。それとも、またもや居留守だろうか。
まあいいや。
とりあえず、拝んでおこう。
えっと、感情を込めて拝むと個性が出る……だっけ?
ぱん。ぱん。
なむなむ……。
こんな感じだろうか。
うーん。
正直、感情を込めろと言われても、いまひとつぴんとこないなあ。
そうして、手応えを感じられないまま閉じていた目を開けて、もう一度礼をする。当然、頭の動きに従って視線が下がり、私の視界に賽銭箱が映った。
そして――私は驚愕した。
何故か。
そこに置いていたはずの白い紙箱が、忽然とその姿を消していたのだ。影も形も、中身のモンブランも残すことなく、きれいさっぱりと。
最期に紙箱を確認したのは、二拍手をした直後。手を合わせて軽く頭を下げた際には、確かにあったはず。
つまり、私が目を瞑り、わからないなりに誠心誠意拝んでいた最中、何者かによって連れ去られたということである。
時間にして、僅か五秒ほどの間に、目の前で目を瞑っているだけの私に気付かれることなく紙箱を持ち去るなんて。そんな芸当が成せる人物など、ひとりしか思い当たらなかった。
「なんだ、今日はひとつしかないのか」
と、御扉の向こうから聞こえた、蒼い声。
彼女だ。
「今日は華憐ちゃんの分だけ。というか、いるなら返事してよ」
そんな、私の真っ当な不平に対して、少女は「そうか」と、微塵も悪びれる様子もなく応える。
「減量でもしてるのか?」
「いや、そんなボクサーみたいな高尚な理由ではなくて、さっき友達とクレープを食べてきちゃったからお腹がいっぱいでさ」
そう、結局あの後、愛莉にしつこく駄々をこねられたので、仕方なく駅前通りのクレープ屋で一緒に買い食いをしたのだ。デートと呼べるのかはわからないけれど、一応それで許してもらえた。
「じゃあ、食べていいということだな?」
「ああ、まあ……あなたにと買ってきた物なので……どうぞ……」
盗み取ったうえで、言質まで取る少女。
余程、気に入ってくれたらしい。
私は、はあと溜息をひとつ落として、扉の前の石段、賽銭箱の隣に腰を下ろす。廂が大きく打ち出してある為、雨には濡れない。
「というか、私が駄目って言ったらどうするつもりだったの?」
「火縄銃で撃っていたな」
「私はごんぎつねかよ」
栗じゃなくてモンブランをお届けするごんぎつねと、気が短すぎる
「そして私は、はたと思い至るんだ。下処理の面倒臭い栗をちまちまと持って来させるより、いっそのこと毛皮にして売ってしまった方が得であると。結果オーライであるとな」
「黒すぎる! そんな殺伐としたもんを小学四年生に読ませられるか!」
「『因果応報』って概念を植え付けるには丁度いいんじゃないか? 日本昔話でもよくある展開だ」
「モラルの前にトラウマが芽生えるわ! もっとポップでマイルドに道徳観を教えてくれ!」
「いやいや、道徳について考えさせられるだけまだいいだろう。原作なんて胸糞エンドの人外BL小説に他ならないからな」
「他なるわ! どんな読み方をしたらそう解釈できるんだよ! 穿ち過ぎだ!」
「は? 私は穿ってなどいない。穿つのは兵十だ」
「やめろ! 変に含みのある言い方はやめろ!」
というか、その固定厨みたいな言い方もどうにかしてほしい。狭すぎる物の見方は争いしか生まないからな。
「まったく、思春期の入り口でアブノーマルな趣味嗜好の種を植え付けるとは、日本の教育機関は何を育てようとしているんだ」
「いや、そんな読み方をする奴とか想定外でしょ……」
「そしてその種は、高校二年の現代文で扱う『山月記』という栄養を得て、見事に腐った大輪を咲かせるというわけだ。まったく、けしからんな」
「そこまで感受性の高い腐女子はいねーよ!」
突っ込まざるを得なかった。
あれは、募りに募った人間らしい苦悩が、人を獣にしてしまったという人間の内に潜む矛盾を描いた作品だ。決して、人間と元人間のロマンスを描いた人外BL小説ではない。
「それに比べて、中学一年の国語で扱う『星の花が降るころに』は最高だな」
「わかるぅー! あれ最高だよね!」
同意せざるを得なかった。
華憐ちゃんは話せばわかる奴かもしれないな。
いやはや、いったい中学一年女子の何人が戸部君にときめいたことか。かくいう私もそのひとりである。
私は戸部君との交流を描く夢小説を書いたことが――あたかもしれない。
銀木犀の香りのように甘い、青春ラブストーリー。
あれ?
もしかして、私の初恋の相手って戸部君だったりするのか?
私の初期設定が早くも危うい感じか?
いや、実在しない人物だからノーカウントか?
うーん。わかんない。
ちなみにだが、その作品のモチーフである銀木犀の花言葉は『初恋』だ。
「それで、何の用だ? 何も無いならごんの二の舞だぞ」
随分と血の気の多い兵十である。
「いや、特にこれと言った用はないけど……強いて言うなら――会いたかったから?」
と、言い終わってから、そこそこ恥ずかしい台詞を口走っていたことに気が付く。
たちまち、頬が熱くなっていくのを感じる。
うう……。
こんなことで赤面する大学生とか嫌すぎるな……。
初心というか馬鹿丸出し……。
まあ、でも、会いに来た理由はそんなところである。
会いたかったんです。
ただ、それだけ。
「そうか」
少女は実に素っ気なく、ぽつりと呟いた。
興味もないという風に。
私はへこんだ。
実にへこんだ。
実に実に。
本当に私が馬鹿なだけだった……。
――はあ。
会話が途切れて、静けさが境内に戻ってくる。聞こえてくるのは、霧のように細かい雨滴が落ちる音と、小刻みに響く食器の音だけ。
「美味しい?」
「うん」
「それはよかった」
普段は大人っぽい口調の彼女だが、食べ物の感想だけは妙に素直で、子供らしいというか、見た目相応の響きがあって、なかなか見ることのできない彼女の可愛らしい一面だ。それが見れるだけで、こんなにも幸せな気持ちになってしまうのだから不思議である。孫に手料理やらお菓子やらを振舞いたがるおばあちゃんの気持ちって、きっとこんな感じなのではないだろうか。
まあ、猫かわいがりしてもらうためのあざとい態度なのかもしれないけれど、それはそれで可愛いし、この世界で生きていくためにはそういうスキルも必要だ。
うん。
愛莉が犬だとしたら、華憐ちゃんは猫だな。
そう思う。
あ、そうだ――
「そう言えばさ、ここってなんて言う神社なの?」
と、ようやく訊きたかった質問を投げかけると、少女は、かちゃりと食器を置く音を鳴らしてから、淡々と答える。
「質問に答えてやるのはやぶさかではないが、答えて欲しいのなら、それ相応の態度があるんじゃないか?」
「え?」
その言葉の真意がわからず、首を傾げて困っていると、少女は、はあと、呆れたと言わんばかりに溜息を吐く。
「お前の隣にある賽銭箱はなんのために置いてあると思っているんだ?」
「投げ銭方式なのかよ!」
「ああ『いみじチャット』ってやつだな」
まさかの収益化してた。
チャンネル登録者なんて私ひとりぐらいしかいないだろうに。
というか『うぬチューブ』を知ってるんだ……。
いよいよもって俗だ。
「いやさ……私が言うのもあれだけど、ケーキを食べさせて貰っておいてその態度はどうなんだろうって思うんですけど……」
「うむ、ごちそうさまでした」
ごちそうさまが言える子だった。
素直ないい子。
「はあ……まあ、いいや」
冷静に考えれば、お賽銭用の小銭は取っておくようにしていたから、さしたる問題はなかった。むしろ、重くなった財布を軽くするいい機会だった。
私は財布から十円玉を取り出して、座ったまま横にある賽銭箱に落とした。
ことり。
柔らかく響く、乾いた音。
何とも心地がいい。
「
「ふうん」
ことり。
「じゃあ、この神社には何の神様がいたの?」
「水神。水の神だ。ここには湧水があって、長い間人々に使われていた。水道が一般に普及するまでの話だがな。今も昔も、綺麗な水と言うのはかけがえのないもの。感謝を示すために――枯れないことを願うために神社を建てたというわけだ。まあ、崖線沿いではよくあることだな。あるあるだ。ちなみに、今もそこの手水舎に引いているのはその湧水だ」
「へえー。神社の名称と神様の名前には関連がないんだね」
ということは、祀られた神様に関連した名称を付けなくてはならないというルールはないということか。なるほど。たしかに、そんなルールで名称付けをしていたら、同じ様な経緯で建てられた神社は皆同じ名称になるよな。勉強になる。
ことり。
「階段とか境内の掃除って華憐ちゃんがしてるの?」
「ああ。日課だな」
「ふえー! えらい!」
毎日掃除してたんだ。
どうりでいつ来ても綺麗なわけだ。
ことり。
「じゃあ、華憐ちゃ――」
「待て」
ん?
次の質問をしようとしたところで不意に遮られる。
連続で『いみじチャット』もとい質問をするのはマナー違反だったのだろうか。視聴者が私ひとりしかいない状況で荒らしとか言われたら、もうどうしようもないのだけれど。
「おい、さっきから何故十円玉しか入れないんだ?」
「なんでわかるの!?」
「そのくらい音でわかる」
音で!?
さらっととんでもないこと言ったよ、この人!
ということは、今まで入れた小銭は全部十円玉だということがばれていたのか。
でも、質問するたびに大きい小銭を入れてたら、かなり痛い出費になるよな……。
推しのためとは言え、自分の生活もあるから……。
と、今後のことも考えて、自分のお財布事情を憂いていると、扉の向こうの少女はいかにもいじけているというような口調で、こう言った。
「賽銭はそのまま私のお小遣いなんだよ……もう少し入れてくれてもいいじゃん……」
「かっ……!」
可愛いぃいいいいいいいーっ!
ことり。
迷いなく五百円玉を入れた。
しかも二枚。
だから、正確には――ことり。ことり。
これにはおばあちゃんもたじたじだよ!
「なんだ、持ってるじゃないか」
「台詞がカツアゲしてる人だ!」
やっぱり、甘やかしてもらうための猫かぶりだったのか!
許し難いな!
「で、なんだ?」
え、ああ。
「えっと、華憐ちゃんは何でここに住んでるの?」
にわかに反応が途絶える。
私の素朴な疑問に対し、扉の向こうの少女は、逡巡するように間を空けて、静かに言った。
「それには答えられない」
「えっ、ちゃんと賽銭したのに?」
「ああ、すまない」
「そ、そっか……」
素直に悲しかった。
千円も払ったのに質問に答えてもらえなかったから、というのもないわけではないけれど――いや、それもそこそこあるけれど――それよりも、彼女と私との間にはっきりと引かれた境界線に気づいてしまったことが。
この先には来させまいと――御扉のように、この先は人が立ち入る場所ではないことを明確に示す壁があることに気付いてしまったことが。
悲しかった。
これが私と彼女との距離感。
関係性。
間柄。
私は、もう少しだけ先の景色を見たいだけなんだけどな。
「…………」
再び会話が途切れて、静寂が訪れる。
先程より少し強くなった雨音が重く沈んでいく雰囲気を演出してくれる。
まるで、さっきまでの楽しい会話は嘘だったと言わんばかりの空気感。
そんな中、彼女は不意に呟く。
「少し喋り過ぎたな」
はて?
それは、いったい、どういう――
「雨が強くなる前に帰れ」
きっぱりとした、有無も言わさないような語気。
そして、と。
扉の向こうの少女は、感情の起伏を感じさせない口調で言う。
「もう二度とここには来るな」
え?
「な、なんで?」
「それには答えられない」
は――?
突然すぎる展開に私の思考は完全に置いて行かれる。
「えっ、ど、どういうこと? さっきまで普通にお話してくれてたじゃん」
返事はない。
「もう来るなって……どうして…?」
「それには答えられない」
そう、少女は機械的に繰り返す。
「答えられないって……そ、それはあんまりだよ! 折角……折角、仲良くなれたのに!」
そう思っていたのは、私だけだったの――?
「私のこと嫌いってこと?」
返事はない。
「私、何か変なこと言っちゃった?」
返事はない。
「いっぱい質問しちゃったから?」
返事はない。
「答えてよ……」
「答えたくない」
「どうして……?」
「それも答えたくない」
「――――っ!」
じゃらじゃらじゃらじゃらじゃら。
私は、賽銭箱の上で、財布をひっくり返した。
「どうして? どうして会いに来ちゃいけないの……?」
目の前の、重々しい御扉に向かって、私は問う。
「もう嫌なんだ……」
酷く弱々しい声で、彼女はそう言った。
抑え込んでいた感情が漏れ出たような――そんな、悲しい響きだった。
「そっか…………」
私は納得せざるを得なかった。
いや、諦めざるを得なかった。
これ以上は踏み込めない。
決して踏み込ませてくれない。
そう悟った。
「わかった……」
私は、傘を差して、足早に境内を去った。
それから、私は何処をどう歩いたのだろう。自宅と神社との間に立ち寄るような場所もなければ、アレンジを効かすような回り道があるわけではないため、真っ直ぐ帰ったのだと思うが、どうも記憶が曖昧で――気が付いたときには、自宅の玄関に傘を差したまま立っていた。
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