(蘭)

 結果から言えば――私は、死ねなかった。

 そう。

 死ねなかったんだ。

 ふと、気が付くと、私は薄暗い部屋の中に寝かされていて、見知らぬ天井を見上げていた。

 目が覚めてすぐに、恐る恐る、腹に指を這わせてみたが――そこにあるはずの傷は、どこにもなかった。

 だが、腹に刀を突き刺した時の灼けるような痛みも、流れ出る血の温もりも、むせかえるような生々しい匂いも――鮮明に、鮮明すぎるほどに覚えている。だから、あの夜は夢だった、なんて。そんな落ちではないことは明らかだった。

 まあ、そんなのは、目覚めたのが知らない部屋の中だった時点でわかりきっていたことだ。考えるだけ無駄で、しょうがないことだが、兎に角、普通ではないことが起きていることだけは確かだった。

 当然、そこが死後の世界というわけでもなかったよ。

 私の隣には、彼女の姿があったんだ。

 白装束を着て、人形みたいに白い顔をした彼女が。夏椿のように白い彼女が。腹を抱くように手を組んで、お行儀良く、そこに置かれていた。

 もしかしたら、彼女の傷も消えているんじゃないか。

 私は、そんな風に思って。

 そんな風に期待して。

 彼女の手を解いて、着物を脱がした。けれど、そんな都合のいいことはなかった。あるはずがなかった。

 私が破いた彼女の腹は相変わらず口を開けたままで――そこには、元気に動き回る蝿の子がいた。

 それは――

 本当に、芸術的な皮肉だった。

 思わず笑ってしまったほどにな。

 正しく、現実。

 正しく、私が呪った現実だった。

 本当に。

 そして、そんな私の様子を、ひとりの男が驚愕に染まった顔で見ていた。

 装束に身を包んだ白髪の男。

 そんな男が、左手に数珠、右手には撞木を持って、正座をしたまま固まっていたんだ。

 その男は、この神社の宮司だった。あの夜の明け方、私たちの死体を発見した彼は、見るからに悲惨な死を遂げたであろうふたりを憂いて、それから夜通し念仏を唱えて供養してくれていたらしい。

 そう。私が目を覚ましたそこは、この部屋だったんだ。

 ふたつの死体を、文字通り白日の下に晒してはおけないと、彼が運んでくれたそうだ。

 まあしかし、神職が念仏なんて神仏習合も甚だしいが、そのおかげなのかどうなのか――死体だった私は、息を吹き返した。

 いや、息を吹き返した、なんて。そんな可愛げのある事象ではないか。

 止まった心臓が再び動き出すことは、もしかしたらあり得ることなのかもしれない。だが、あるはずの傷が突然消えるなんて、どう考えても――いくらなんでもあり得ないだろう。

 もう、そんなのは奇跡でもなんでもない。

 でたらめだ。

 酷くでたらめで、私にとってそれは――絶望だった。

 彼女と共に死ぬことがせめてもの償いだった。せめてもの救いだったんだ。

 なのに、それすらも許されなかった。

 それすらも、叶わなかった。

 まったく、神の仕業なのか、仏の仕業なのかわかったもんじゃないが、性格が悪いにも程があるだろう。私が感じたのは、彼がぽつりと零した「大いなる慈悲」なんてものじゃなかった。

 底知れぬ「悪意」だ。

 本当に。

 本当に。

 気が付けば、私は彼に全てを話していた。私と彼女との過去を。そして、あの夜のことを。

 ふたりの顛末を。

 まるで、懺悔でもするかのように。今しがた出会ったばかりの見も知らぬ男に、滔々と語っていた。

 いや、案外、本当に懺悔だったのかもしれない。

 自分のことなのに、しれない――なんて、そんなのおかしな話だけれど。

 けれど。

 私は許して欲しかったんだ。

 きっと。

 そう。きっと。

 それに、言葉にして、口にすれば、自分の身に何が起きたのかが少しは理解できるだろうとも考えたんだ。話しながら少しは整理がつくだろう、と。

 だが、話せば話すほど、形にすればするほど、私の怪異性が――尋常ではない私が露になるだけだった。

 自分でも何を言っているんだと思ったよ。なんて馬鹿げた話なんだと。なんて悪趣味な話なんだと。私自身も理解できていない話を、信じることができない話を、誰が理解してくれると言うのか。誰が信じてくれると言うのか。

 けれど、そんな話を、出来の悪い嘘のような話を、怪しくて妖しい私を――彼は受け入れてくれた。

 まあ、その奇跡を目の前で体験した彼からしてみれば、そんな人間の理解が及ばないような事象に対しては信じるも信じないもなく、そのまま受け入れるしかなかったのだろう。そして、その事象の発端でもある、哀れで惨めな恋物語も。

 だが、私にとっては、それだけが、救いだった。

 私は彼に、彼女の死を家族に伝えるように頼んだ。家族の元で、普通に供養して貰えるように。普通の別れを迎えられるように。これ以上、彼女が惨めな思いをしないように。

 せめて、な。

 彼は、快く引き受けてくれた。

 私はと言えば、もう家族の元には戻らなかったよ。両親に合わせる顔がなかったからな。いや、そんなものは建前で、本当はもう会いたくなかった。それに、どうせすぐに居なくなるつもりだった。そのつもりだった。だから、帰る場所もないし、必要もなかった。だが、彼はそんな私に『居場所がないなら、ここに居てもいい』と言ってくれたんだ。きっと、私が何を考えているのか、彼はわかっていたのだと思う。

 本当に、彼には感謝の念が尽きないよ。

 もし、奇跡を目撃したのが彼ではなかったら、私は一体どうなっていたか、わかったものではない。

 そうして、彼の厚意を受け取って、それから私はどうしたか。

 私は。

 私は、また、自分を殺した。

 彼から受けた恩を仇で返すことに罪悪感も覚えたが、それよりも、彼女に対する罪悪感を抱きながら生きていくことの方が私は辛かった。耐えられなかった。

 逃げたかったんだ。

 だが、結果は同じだった。

 私は、また、死ねなかった。

 また、同じように目を覚ました。

 だから、私はまた、殺した。

 私を。

 何度も何度も。

 繰り返し、殺した。

 幾度となく、死んだ。

 けれど、その度に生き返った。

 無様に生き返った。

 だから、何度も殺した。何度も死んだ。

 何度も何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 繰り返し繰り返し。

 必死になって、死のうとした。

 けれど、駄目だった。

 首を落とそうが、頭を砕こうが、全身を焼こうが、何をしようが、どんな死に方であれ、結果は同じだった。

 悲惨な死の痕跡の上で、目を覚ますだけだった。

 そう。

 私は死ねないんだ。

 いや、正確には――死ぬことはできる。

 だが、気が付くと生き返っている。

 違う。それも正確ではない。

 元に戻ってしまうんだ。

 生き返るのではない。元に戻る。

 何故なのかはわからない。

 本当に何もわからない。

 ただ、ひとつ。

 ひとつだけ、わかっていることは――零時を過ぎた瞬間。その瞬間に、元の姿に戻るということだ。

 どんな傷を負っていようと、例え死んでしまったとしても、日を跨いだ瞬間に、元の状態に戻る。

 あの日――彼女を殺した、あの日の姿に。

 私は――

 あの日から抜け出せないんだ。

 

「――そうして、私は生き続けてきた。いや、生かされ続けてきた。生きる希望を失ったまま、それでも死ぬことを許されず、生かされ続けてきた」

 少女は、ぽつりと、静かに言った。

「私は、呪われている」

 まるで、罪を告白するかのように。

 怒られることを待つ子供のように。

 悲痛に、悲愴に、そう語った。

 そして、そんな彼女に対して、私は。

 私は――

 何も、言えなかった。

 それは、彼女が紡いだあまりに壮絶な物語に言葉を失った――というわけでは決してない。

 何を言うのも、憚られたのだ。

 少女がこれまで見てきた惨憺たる過去。地獄という表現がこれ以上なくお誂え向きな現実。そんな、想像を絶する悲劇を前にしては、どんな言葉も、どんな感情も安っぽく思えた。場違いに思えた。的外れに思えた。

『私は神なんか信じていない』

 いつか、彼女の零した言葉が、シニカルな響きを伴って蘇る。

 結局、彼女の噺に対して述べるべき感想はどこにも見つからず、何も言えぬまま、私は彼女の左手に触れた。透き通るように白い肌に。ひんやりと少し低い体温に触れて――

「……痛くなかったの?」

 そんな言葉を、ようやく私は捻りだした。この場面において、レスポンスとして相応しい言葉なんてものは存在しなかったかもしれないが、そうだとしてもやっぱり、それは相応しくない言葉だったかもしれない。

 そんな、重箱の隅をつつくような、興も醒めてしまいかねないような私の言葉に対して、少女は淡々と答える。

「そんなわけはない。痛覚はある」

「そ、それじゃあ……」

 だが――

 彼女は、そう短く区切って、実に簡潔に言う。

「もう飽きた」

「…………っ!」

 私は、今度こそ言葉を失った。

 彼女の言葉を、たった五文字の言葉を反芻して、何度も嚥下する。だが、それでも、私には彼女が何を言っているのかがわからなかった。

 いや、違う。

 彼女が何を言ったのかはわかっている。わかりきっている。

 彼女は――痛みに飽きた、と。そう言ったのだ。

 痛みに。

 身体の異常を知らせる信号である痛みに。

 生きるために必要不可欠な感覚に。

 何よりも大切な不快感に。

 飽きた、と。

 彼女は言った。

 そう言ったのだ。

 そんな風に彼女の言葉を換言して整理してみても、私のおつむは一向に理解を示さず、得も言われぬ恐怖感を覚えることしかできなった。

 怖い。怖かった。

 実に。

 心の底から怖いと感じた。

 だから、私は思わず彼女の細い腕を抱きしめた。

 触れたら壊れてしまいそうなほど華奢な腕を、堪らず抱きしめた。

 そして――

「どうしてお前が泣いてるんだよ」

「ご、ごめん……っ」

 都合よく、涙を流す私だった。

 華憐ちゃんの傷を癒すわけでも、シャラさんが報われるわけでもない。私がすっきりするだけの、誰も救われない涙だった。

 だと言うのに。

 それでも。

 どうしても。

 涙が止まらなかった。

「変な奴だな」

 少女は、ぽつりと鳴いた。

「泣きたいのは、私だよ」

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