(梅)

 今は昔。

 これは、枕詞として言っているわけでも、大袈裟に言っているわけでもない。

 本当に昔のことだ。

 一六一七年。

 今から約四百年前に――私は生まれた。

 この辺りにあった農村の、ごくありふれた農民の家だ。

 そこでの暮らしは決して裕福とは言えなかった。それなりに貧しい生活ではあったし、苦しい思いもしたような気がする。だが、辛くはなかった。

 同じ村に暮らす、ひとりの少女。

 彼女のおかげで、私は幸せだった。

 私の三つ年上である彼女は、私と同じように平凡な農民の家に生まれた娘で、いわゆる幼馴染の関係だった。

 私は彼女が大好きで、幼い頃はいつも彼女の後を付いて回っていた。私は彼女のことを姉のように慕っていたし、彼女はそんな私のことを妹のように可愛がってくれた。

 楽しい日々だった。

 そうして時は流れ、いつしか――私たちは愛し合っていた。

 男と女が愛し合うように。父と母が互いを愛するように。

 私は彼女を愛し、彼女は私を愛してくれた。

 深く、愛していた。

 だが、どれだけ愛し合おうと、女同士で結ばれることは決して許されない。それは、今も昔も同じだ。

 それでも、きっと母なら理解してくれると思って――ある日、意を決して打ち明けたんだ。そしたら、こう言われたよ。

『女が女を愛するなんて、気持ち悪い』とな。

 今思えば、あれは失敗だった。

 その告白がきっかけで、私は彼女に会うことを禁じられた。そして以来、母は狂ったように縁談を持ちかけるようになった。

 それが十二歳のときだった。

 まあ、当時の十二歳の女子おなごといえば、そろそろ結婚を考え始める時期だ。母の行動自体はおかしなことではない。むしろおかしいのは私で、母はそんな娘が不安だったのだろう。自分の子供には普通の幸せを掴んで欲しい、と。そう願うのが、親というものだ。

 だが、そんな母の気持ちを理解しながらも、私は彼女に会うことを止めなかった。月の明るい夜、両親の目を盗んで家を抜け出しては、この神社で彼女と逢っていたんだ。『十五夜のこくにこの場所で』と、約束を交わして。

 とはいえ、そんな娘の非行に気付けないほど、私の両親も鈍感ではない。きっと、気付いていたはずだろう。それでも、そのことに対してお咎めがないということは、彼女に逢うことを黙認してくれているのだと、このときの私はそう解していた。

 全くもって、おめでたい奴だよ。

 そうして、彼女との逢瀬を繰り返すうちに、私の中にある思いが芽生えた。

 それぞれ他の男と結ばれたとしても、こうして彼女に逢えるのであれば――こんな形でも彼女の傍にいれるのであれば、それでいい、と。

 それで満足しよう、と。

 そう、思うようになった。

 そう、思えるようになった。

 要らぬ世話だったとはいえ、両親の言いつけも私を慮ってのことだ。

 ひと月に一度だけ、誰の目にもつかない夜半に彼女と逢う。

 それが、そんな両親との適当な折合いの付け方だと納得した。

 それに――もしかしたら、その方が彼女のためなんじゃないかと、そうも思ったんだ。

 普通に男と結婚して、普通に子供を産んで、普通に家庭をもって、普通に暮らしていく。

 それが、彼女にとっての幸せかもしれない、と。

 そう、想ったんだ。

 そう、想ってしまったんだ。

 そして、私が十三歳になった年のある日の満月。

 夜、いつものように彼女に逢いに行った私は、そこでこんなことを言われた。

『とある男性を好きになった。だから、もう逢えない。もう逢いたくない。私のことは忘れて欲しい』と。

 本当に突然だった。

 当然、私はその言葉の意味を何ひとつ理解できなかった。だから、私は訊いた。『何を言っているんだ』と。だが、彼女は何も答えなかった。時折、苦しそうに咳をするだけで、最初の言葉以外はひと言も喋らなかった。いつもはうるさいぐらいによく喋る彼女が、冗談みたいに黙り込んでいた。

 そんな不可解な状況に、私はどうしようもなく取り乱した。

 信じられるはずがなくて、悪い冗談であって欲しくて――私は必死に彼女を問い質した。それでも、彼女は今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、ただ、静かに俯くだけだった。

 何も言わなかった。

 そうして、それを目にして――私はこう思った。

 どうしてお前がそんな顔をしているんだ、と。

 どうしてお前にそんな悲しい顔ができるんだ、と。

 泣きたいのは――私だ。

 彼女が無口に重ねた意味も理解できず、ただ、そう思った。

 所詮、一時の気の迷い。

 やっぱり、女の私なんて、彼女の幸せには必要無かった。邪魔だった。

 まったく、私はどうしようもなく道化だ。

 自分が情けなくて仕方なかったよ。

 愛する者に拒絶された悲しみも、裏切られた苦しみも、見捨てられた絶望も、すぐに彼女への憎しみに変わった。

 そして――私は彼女の頬に平手を放っていた。

 鼻から血を出しながら頬を押さえる彼女を見て――それでも尚、私は容赦なく謗言を浴びせかけた。

 醜く膿んでしまった感情を無理やり言葉にして、彼女を激しく非難した。堪らなく罵った。

 そうすることしか、私にはできなかった。

 そうしないと、私が壊れてしまいそうだったんだ。

 結局、彼女は涙を流していた。ぽろぽろと涙を零しながら――それでも何も言わずに、ただ、彼女はそこにいた。

 ただ黙って、私の言葉を聴いていた――。

 気が付くと、私は本殿の前でひとり泣いていた。

 どうにも記憶が曖昧で、私が彼女にどんな言葉をかけたのかも、彼女がいつ帰ったのかも覚えていない。ただ、最後に『死んでしまえ』と言い切ったときに、ふと彼女が浮かべた、安心したような表情。それだけは、ぼんやりと記憶している。

 それから、しばらく経って、彼女は結婚した。

 正確には、結婚したらしい。

 隣の村の男性と見合い結婚をして、相手の家に嫁入りした、と。どこで仕入れてきたのか、母がそんな話を聞かせてくれた。あの夜から、家に閉じ籠るようになった私の顔を恐る恐る伺うようにしながら、そう聞かせてくれた。

 今思えば、あのとき――母はいったいどんな気持ちだったんだろうな。

 わからない。

 わからない。

 私はと言えば、それはもう茫然自失の日々だった。

 全てを失った気分だった。

 幼いときからずっとそこにいた人に。一生傍にいたい、と。心の底からそう想えた人に捨てられたんだ。

 彼女は私の生きる意味だったんだ。

 彼女への想いは捨てられず――捨てられるわけがなく、心に空いた穴は広がる一方だった。

 だから、私は彼女を嫌いになった。

 嫌いになれるように努めた。

 捨てることができないなら、忘れることができないなら、いっそ嫌いになって、恨んで、憎んで――そんな歪んだ彼女への想いで、空いてしまった心の穴を埋めようとした。

 あの夜に負った傷。その瘡蓋を何度も剥がして。そうやって、何度も何度も思い出して。楽しかった日々も、美しい月も、好きだった彼女も、幾度も幾度も思い出して。

 彼女を、嫌った。

 幸せになった彼女を。

 私をひとりぼっちにした彼女を。

 呪った。

 彼女と結ばれない現実を。

 男に生まれなかった自分を。

 女の私を。

 私は――呪った。


 そうして時は過ぎ、私が十五歳のとき。

 薄情にも、私の想いは風化していた。

 彼女の言葉通り、彼女のことを忘れていた。

 もちろん、完全に忘れてしまったわけではない。誰にでもある辛かった過去の記憶。悲しい思い出。そういう風に片づけて、そんな風に清算して――私は立ち直っていた。

 そんなときだった。

 ある日、私のもとに手紙が届いたんだ。

 彼女からの手紙だった。そして、それを届けてくれたのは――彼女の夫だった。

『最期のお願いだから』

 彼女にそう深く頼まれた、と。彼は言っていた。

 手紙を届けるぐらいでなんて大袈裟な女なんだと、私は呆れたが――しかし、そうではなかった。

 その後、彼が聞かせてくれた話。そこで私は初めて、最近彼女が子を産んだこと。そして、産後、患っていた結核の症状が悪化し、現在は床に臥していることを――知った。

『よければ、彼女と一目会ってやって欲しい』

 彼は最後にそう言い残して帰っていった。

 その言葉は、去っていく力無い背中は、まるで――もう彼女の命は長くない、と。そう言っているようだった。

 私は、彼が帰った後も、その手紙を読むことができなかった。

 怖かったんだ。

 忘れかけていた後悔を。

 色褪せていた想いを。

 嫌いになれなかった彼女を。

 思い出してしまいそうで、怖かったんだ。

 けれど、どうしても手紙のことが頭から離れなくて、眠ることができなかった私は、結局、その手紙を読んだ。考えることを止めない頭を落ち着かせるにはこれしかなかった。

 そして――

 それを読み終えた私は、すぐさま家を飛び出した。

 両親の呼び止める声が聞こえたが、構っていられなかった。

 彼女の手紙には、こう綴られていた。

『あの夜、突然酷いことを言ってしまった私をどうか許してほしい。あの夜の少し前に、貴女の御両親から、華憐の幸せを願うのならもう華憐と会わないでくれと、そう強く頼み込まれた。貴女は、余計なお世話だと、怒るかもしれないけれど、私も御両親と同じように貴女の幸せを願っている。貴女の幸せのためなら、私は何でもしようと思った。だから、あんな振舞いをして貴女を傷つけてしまった。今でも貴女のことを想っている』

 そして最後に、こう書かれていた。

『もう一度、月が観たい』

 と。

 それが何を意味しているかは、明白だった。

 このとき、既に子の刻は過ぎていた。

 もう彼女は帰っているかもしれないし、そもそも私の早とちりかもしれない。けど、それでも、彼女が何をしようとしているのかわかった気がして、何か嫌な予感がして、どうか早とちりであって欲しくて――私は走った。

 結果として、彼女はいた。

 白い花を散らしている夏椿にその身を預けるようにして。

 真っ赤な血を吐き出しながら――彼女はいた。

 急いで駆け寄った私の目に映ったのは、彼女の腹に突き刺さった短刀だった。

 最近まで子がいたであろう場所をめがけて。

 彼女を女たらしめる臓器をめがけて。

 深々と。

 致命的なまでに深く――それは、突き刺さっていた。

 もう、助からない。

 直感的にそう悟った。

 それでも彼女は、私に気が付くと気丈に微笑んだ。そして、消え入りそうな声でこう言った。

『私を殺して欲しい』

 と。

 私は、それを聴いて。

 私は、また――彼女を責めることしかできなかった。

 あの日と同じように。

 何も言ってくれない彼女を。

 喧しいぐらいよく喋るくせに、大事なことはいつも口にしない彼女を。

 そんな私の言葉を、彼女は今にも散ってしまいそうな表情を浮かべて、聴いていた。ゆっくりと小さく頷きながら、ただ、聴いていた。

 そして、彼女は脈絡もなく、こう言った。

『生まれ変わって会いに行くから待ってて。また、女の子だったらごめんね』

 と。

 その言葉が全てだった。

 私たちの、全てだった。

 そうして、私は――

 私は、刀の柄を握って――横一直線に引き抜いた。

 それが、彼女の想いに報い得る、唯一の返事だった。

 彼女は、命が落ちるその直前まで、掠れた息で、霞んだ瞳で――微かに、柔らかい笑みを浮かべながら、私に喋りかけていた。言葉にならないそれは、私には聞き取ることができなかった。だが、最期の最期まで、お喋りな女だった。

 私の手で、私の腕の中で、彼女は死んだ。

 惨めな最期だった。

 そして、私は。

 私は。

 さっきまで彼女に繋がっていた刀を、自分の腹に押し込んだ。

 彼女がしたように、深く深く、突き刺した。

 優しさに気付くことができなかった私は、あろうことか彼女を傷つけ、恨んで、妬んで、呪った。そんな独善的で愚かな私には相応しい最期だと、相応しい罰だと、そう思った。

 そうして、私は死んだ。

 そんな、どうしようもない悲劇。

 笑ってしまうほど、誰も救われることのない悲劇。

 だが、これで終わりではなかった。

 いや――

 悲劇はここからだったんだ。

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