第三章【体温】

八月一日

(竹)

「夢じゃ……ないよね……」

 思わず、そう独りごちた。

 そう呟いてはみたものの、ここが自分の部屋ではない時点で、夢ではないことは確実だった。

 けれど。

 そう言わずにはいられなかった。

 私の意識はどうしようもなくはっきりとしていて、巡る思考は残酷な程に鮮明で――疑う余地なんてもうどこにも残されてはいなかったけれど。頬を抓るという、物語においてテンプレート的な実証方法さえも必要なかったけれど。

 けれど――

 信じられなかった。

 信じたくなかった。

「…………」

 まあでも、一応やってみるか。

 むぎゅ。

 痛い。

「夢じゃなかった……」

 うむ。言ってみたかっただけである。

 人生においてこの台詞を正しく使える場面なんてそうそうないからな。

 しかし、これではっきりした。

 はっきりしてしまった。

 あの惨たらしい夜から見知らぬ部屋の中で目を覚ました現在までを含めて、とてつもなくハイクオリティな夢をみていた――なんて、そんな落ちの可能性は消えてなくなった。

 もうひとつの可能性――お泊まり会で華憐ちゃん宅に来たけど、いつもと違う枕、いつもと違う布団、自分を包む華憐ちゃんの匂いに熟睡できず、とんでもない夢を見てしまった――なんていう落ちの可能性は、少年名探偵が旅先の旅館で殺人事件に巻き込まれなかったというエピソードぐらい有り得ないものなので、この際は無視するべきだろう。

 夢ならばどれほどよかったでしょう。「ドッキリ大成功〜!」なんて、派手なプラカードを持った誰かにそう言ってもらえたら、歌いながらバックダンサーと共に両手を上げて喜んでしまうかもしれない。

「うえっ」

 昨晩の光景が鮮明にフラッシュバックし、思わず嘔吐いてしまう。決して、歌中に差し込まれている謎の声ではないと、はっきり記しておこう。

 脳裏に浮かぶ、見るに堪えない凄惨な光景。

 あれが私の見たかった景色なのだろうか。

 御扉の向こう側。

 深い洞のように真っ暗な世界。

 そもそも、わざわざ夜中に呼び出して、私に自傷行為を見せつけることに何の意味があったのだろうか。

 私を傷つけるわけでもなく、彼女の左腕を――

「…………」

 とりあえず、現在自分が置かれている状況を整理しよう。

 スマホの画面には『八月一日(日)午前六時三十八分』の表示。周囲を見た限り、見知らぬ部屋の中にいることは間違いないが、どうやら全く見知らぬ場所というわけではなさそうだ。

 部屋の隅の方で無造作に脱ぎ捨てられている衣類の山。その中に、妙に見覚えのある苺パンツを見つけたのだ。忘れるはずもない思い出の一品。

 つまり、ここは御扉の向こう側――華憐ちゃんの住まいと見ていいだろう。

 しかし、確証が苺パンツになるとは……。

 他人のパンツもたまには覚えておくものだな……。

 溜息にもなれない微妙な感情が私の胸に渦巻いた。

「まあ、それにしても……」

 部屋が汚い。

 足の置き場がない、とまではいかないにしても、それに準ずる程度には床に物が散乱している。

 言うなれば、目の置き場がない。

 前章までのシリアスな雰囲気も、ティッシュに包んで、その辺に捨てられている気がしてくる。

 そんな感じの様相。

 生活感で薄汚れた神域。

 紛れもなく、ここは俗世だった。

 いつか掃除してあげよう、なんて。そんな呑気な思考は、御扉の傍に――それこそ丸めたティッシュの如く捨てられているそれによって呆気なく霧散した。

 嫌に見覚えのある刃物。

 剥き身のまま放られている――柄に朱い染みが付着した無骨な鉈。

 私は、それを目にして。

 そうして、やっと。

 今更ながら、自分の愚かさに、そして――何よりも重要なことにようやく気が付いた。

 そうだ。

 彼女は今、どうしている――?

 あの傷。あの出血量。誰がどう見たって致命傷だ。私が意識を失った後に倒れていてもおかしくない。

 いや、待って。

 だとしたら――私をここに運んだのは誰なんだ?

 てっきり、華憐ちゃんが私をここに運んでくれたのだと思い込んでいたが、よく考えればあの状態で私を運ぶなんてできるはずがない。

 いったい、何が起きて――

 いや、それを考えるのは後だ。

 今は兎に角、華憐ちゃんの容態を確認するのが先だろう。もしかしたら、まだ外で倒れたままかもしれない。

 そうして、布団から起き上がろうとした――そのときだった。

 脚を動かそうとして初めて、私は自分の下半身にのしかかっている何かを認識した。まるで私の動きを邪魔するかのような、布団からは出させないというような柔らかな重み。

 周囲の様子ばかり注視していて気付かなかったが、よく見てみれば、膝の辺りで掛け布団が小さく盛り上がっていた。

 これは……まさか――

「あ、朝チュン……!?」

 まさかの展開。有り得ないと思っていた可能性が息を吹き返した瞬間だった。

 えっ、噓!?

 ということは、やっぱりあれは寝苦しい夜に見た悪夢だったのか!?

 でも、寝る前の記憶がないんだけど!

 あるべき、うふふな記憶がどこにもないんだけど!

 どういうこと!?

 いや、待て、落ち着け私。まずは深呼吸だ。

「すぅううー」

 オーケー。クールにいこうぜ、私。

 今更、あれこれ思考を巡らせたってしょうがないだろう。既に法律に触れている可能性だってあるからな。後の祭りである。

 それに、ここで慌てふためくなんて格好悪い。年上のお姉さんとして大人の余裕を魅せる絶好のチャンスだろう。

 イメージするんだ。布団を捲ると、そこには半裸の少女。艶めかしい息を漏らしながら眠気眼を擦る彼女に、私はクールな微笑をたたえて「おはよう」と声をかける。

 完璧だ。

 一連の流れを繰り返し繰り返しイメージして、頭に叩き込む。

 よし。

 高鳴る鼓動を必死に抑えながら、震える手で恐る恐る掛け布団を捲る。するとそこには、半裸の少女――ではなく、顔の半分が溶け落ち、左の眼窩からだらしなく眼球をぶら下げた巨大な蛙のゾンビがいた。

「いやぁあああああああああああああああーっ!」

「なんだ、騒がしいぞ」

 そんな声が聞こえた。何故だか、随分と久しぶりに聞いたような気がする蒼い声。

 声のした方を見遣ると、開いた襖の先に華憐ちゃんがいた。白い大きめのTシャツに紺色のハーフパンツ、と。いかにも部屋着というような格好。水の流れる音から察するに御手洗にいたようだ。

「って……お前、何してんだ……?」

「た、助けてっ……!」

 と、私は逆立ちをした状態でそう叫ぶ。

 何故、私が逆立ちをした状態にあるのか、と。読者諸君は当然の疑問を抱くことだろう。だが、申し訳ない。私にもわからない。何故、生涯文化部の私が、ゾンビ蛙と対面し咄嗟に仰け反った結果、後転倒立という大技を繰り出してしまったのかは、わからない。そして、当然ながら、この後の動きもわからないのだった。

「これ、ど、どどどどうすればいいのっ!? いやぁあ待って! 倒れる倒れるっ! やだ! いやぁああああーっ!」

 みっともなく悲鳴をあげる私。そんな私を、華憐ちゃんは白い眼で見ていた。

 どうにも為す術がなく、私の身体はだんだんと倒れていく。重力に従いゆっくりと。

 もう無理だ。

 お母さん、先に旅立つことをお許しください。

 そうして、ダイナミックでアヴァンギャルドな五体投地を覚悟した、そのとき。

 はあ、と。深い溜息が聞こえ、不意に私の身体はバランスを取り戻した。

 太腿の辺りに感じる、手の触れる感触。

 泣き喚く私を見かねたのか、倒れ行く私の身体を華憐ちゃんが支えてくれたのだ。つまり、私は今、補助倒立の格好をしている。御扉の向こう側。そこでは、べそをかきながら逆立ちをする女子大学生を小さな少女が支えているという不可解な構図が繰り広げられていた。

 華憐ちゃんは私の脚に手を添えたまま数歩前に進み、私の身体を床と垂直の角度まで押し戻す。

 助かった……。

「あ、ありがとう」

 そう言って、私は華憐ちゃんの顔を見上げる。

「あっ」

 見上げた視線の先――そこでは、突き出している彼女の両腕に吊り上げられて、Tシャツの裾口が大きく口を開けていた。

 私の眼前に突如として現れた絶景。

「ここが私の……第二の故郷……」

 突然の僥倖に、思わずそんなことを口走る私。

 そして――

「むぐっ」

 顔を踏まれた。

 素足だった。

 ぐりぐりと、強く押し付けられる彼女の御御足。

 御扉の向こう側。そこには、助けられておきながら恩人のプライベートゾーンを覗き見た挙句、逆立ちをしながら少女に顔面を踏みつけられている女子大学生の姿があった。

 というか、私だった。

「『恩を仇で返す』とはまさにこのことだな」

 彼女はそう吐き捨てると、私の顔を踏んでいる足に力を入れて、太腿から手を離す。弁明の機会が与えられることはなかった。

 そうして、先程とは逆側。私の身体は背中の方へと次第に傾いていく。

「えっ、待って! やだやだやだやだっ! いやぁああああああーっ!」

 だすんっ。

「いったぁあああい!」

 布団がクッションになってくれたが、それでも結構痛かった。いや、本当に痛い。

 なんか、ばきって音が聞こえた気がするもん。

 とはいえ、こうして無事に元の体勢に戻ることができたのは華憐ちゃんのおかげだ。あのまま、腹側に倒れて、布団の敷かれていない床に激突していたらもっと痛かったはずである。ここは礼を言うべきだろう。

「華憐ちゃん、ごちそうさま」

「はあ?」

「あっ、間違えた。ありがとう」

 彼女は、路傍に棄てられたごみを見るような目で私を見据えていたが、溜息をひとつ零して、それから当然の疑問を投げかけてきた。

「どうしたらあんな状態になるんだ?」

「いや、私もわからないんだけど……蛙にびっくりしちゃって、気付いたら逆立ちしてた」

 私はそう答えながら、飛ばしてしまったゾンビ蛙のぬいぐるみを指で指し示す。

「ああ『ぐろぐろぐろっぴ』か」

「名は体を表しすぎだ!」

 想像以上に酷い名前だった。可愛げの欠片もない。

「まったく、大事に扱えよな。あの等身大サイズのぐろぐろぐろっぴは数量限定の貴重品なんだぞ?」

「ご、ごめんなさい……」

「こいつは、長年貯めたお賽銭をはたいて買った――私の宝物だ」

 そう言って、彼女はその大きなぬいぐるみを拾い上げ、愛おしそうに優しく抱きしめる。ぬいぐるみから垂れ下がる眼球と長い舌が小さく揺れる。

 ああ、なんて可愛らしいエピソードなのだろう。これには、お賽銭を収めた人も思わず笑顔になってしまうに違いない。

 が、しかし。

 が、しかしだ。

 それにしても、絵面が酷かった。

 ほっこりするにはあまりに猟奇的な光景だった。

 こういうとき、どんな顔をすればいいのだろう。

 笑えばいいのだろうか。

「でも、どうしてその宝物が私と一緒に寝てたの?」

「ああ、なにやら、随分と魘されていたからな。仕方なく、そいつと一緒に寝る権利を譲ってやったんだ。感謝しろ」

 どう考えても魘されたのは華憐ちゃんのせいだよ!

 と、愉快な突っ込みを入れようとして、触れるべきことに――見逃してはいけないことに気が付いた。いや、思い出したというべきだろうか。

「華憐ちゃん……その腕……」

 私はぬいぐるみを抱えている彼女の左腕を見る。ほっそりとした白い腕が――切り刻まれたはずの腕が、確かにそこにあった。

 ああ、と。

 彼女は不意に表情を曇らせる。

「怖がらせて済まなかった」

「えっ、ええ?」

 全く意味が分からなかった。これはきっと、寝起きだからというわけではないだろう。

「信じられるか?」

 混乱する私に、彼女はそう問いかけた。

 そして、私の答えを待つことなく、伏し目がちに口を開く。

「これでもまだ、私のことが好きだと言えるか?」

 少女は、蛙のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。「ぐえっ」と苦しそうな鳴き声が漏れた。どうやら押すと声が出る仕様のぬいぐるみだったらしい。

 そして、私はようやく理解した。

 つまり、彼女はこう言っている――『引き返すなら今だ』と。

 思えば、彼女は私に対して再三再四警告していた。『二度と来るな』と。『忘れろ』と。そして、今回のこれが最期の警告なのだろう。

 やっぱり、とてもじゃないが信じられるような出来事ではない。それに、信じたくないというのが正直な気持ちだった。できることなら忘れたい。そう思ってしまうほどに惨烈で、苦しい光景だった。

 怖かった。

 そう、今なら見なかったことにできる。やっぱり、あれは寝苦しい夜にみてしまった悪夢だったのだと。少女との出会いも、恋への強い憧れがみせた幻だったのだと。次第に薄れて、家を出る頃には思い出せなくなる夢のように、忘れてしまえる。

 この物語はここで終わりにできる。

 彼女は、そう言っていた。

 物語を続けるか終わらせるか、という彼女から与えられた選択肢。

 私の答えは決まっていた。

「そっか。よかった」

 やっぱり――嫌われてしまったわけではなかったんだ。

 それならば、悩む必要はないだろう。目の前で泣き出しそうな顔をしている女の子を放っておくことなんて、私にはできない。

 いや、それは綺麗事か。

 そんな立派な理由ではないだろう。

 他の誰の為でもない、罰当たりな願い。

 私は――私の初恋の物語を、こんな結末で終わらせたくなかった。

 この物語は悲劇よりも喜劇であってほしい。

 そんな、わがままな理由である。

 私はどうしようもなくずるくて、自分勝手なのだ。

 だから私は――まだ、この物語を終わらせない。

「私の気持ちは変わらないよ」

 俯いたままの彼女に、私はできる限り穏やかな口調で告げる。

「華憐ちゃんへの想いは今でも変わらない」

 だから――

「華憐ちゃん、教えて」

 彼女を真っ直ぐと見据えて、私は言う。

「あなたは、いったい何者なの?」

 数瞬の沈黙。

 しんと静まり返った空気の中、彼女の形のいい唇から、ぽつりと言葉が零れる。

「言っただろう」

 彼女は静かに、痛々しく言葉を紡いだ。


「私は、ただの人間だ」


 少女の腕の中で、蛙が小さく鳴いた。


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