(下)

 二十三時二十四分。

 本日二回目の神社訪問をするべく家を出る。約束の午前零時前には十分間に合うだろう。

 日中の熱気を露で閉じ込めたような、ぬるく湿っぽい空気を肌で感じながら、近所迷惑にならないよう、いつもより慎重にドアを閉めて鍵をかけた。こんな時間から外出するなんて、未だかつて経験がない。新鮮と言えば新鮮。怖いと言えば怖い。街灯のおかげで真っ暗ではないとは言え、それはそれ。昼間に比べたら、怪しい人間の割合が絶対的に多くなるのが夜更けという時間帯である。彼女は、どうしてわざわざこんな時間を指定したのだろうか。何かしら理由はあるのだろうけれど、全く想像もつかない。

 夜中に会いに行く。

 そこに、なんとなく『逢引』のような甘美な響きを感じてしまうのは、私の思考回路に問題があるからなのだろうか。

 しかし、そうであったとしても大目に見て欲しい。今回は、私が勝手に会いに行くのではない。彼女から会いに来るように言われたのだ。初めてのお誘いである。浮かれてしまったとしても仕方のないことだろう。しかも、あんなことを告白した後だ。甘い展開を期待していないと言えば嘘になってしまう。

 全くもって、おめでたい思考だとは思うけれど、この状況になんとも表現し難い興奮を覚えているのは確かで、そのおかげで暗闇の恐怖感を誤魔化せているのも、また確かだ。

 どきどきである。

 しかし、冷静に考えてみれば、甘えたな態度を取る華憐ちゃんなんてまったく想像できない。今までのやり取りの中で、デレの片鱗すらも窺えなかった彼女だ。

 うーん。

 なんというか、彼女の場合『逢引』というよりかは『合挽』だよなあ。うん。

 何と一緒にされるんだろう。

 でも、あれだけ綺麗な人に殺されるのならそれもありかもしれない。むしろ誉だろう。まあ、殺すように頼まれたのは私なんだけれども。

「…………」

 結局、あの言葉の真意もわかっていない。

『私を殺してくれないか』

 やっぱり、異常だ。

 常軌を逸している。

 少なくとも初対面の人物にかける言葉ではない。まあ、結果として初対面だっただけで、彼女は知り合った人物と間違えてあんな言葉を紡いだというわけなのだけど。いや、初対面じゃなかったとしても、やはり出会い頭にかける言葉ではないと思うけれど……。

『本当に私のことがわからないのか?』

 シャラさん。

 私なんかと間違われた可哀想な人。

 華憐ちゃんの待ち人。

 彼女にあんな言葉を言わせる人物とは一体どういう人なのか。

 二人は一体どういう関係なのか。

 そんなことを知りたいと思ってしまうのは、やっぱり、私の思考回路に問題があるからなのだろうか。

――さて。

 益体のない思考を巡らせているうちに、はけの手前まで来た。

 この先は街灯がほとんどない。

 そう、ここからが本当の恐怖である。

 なんて考えていたが、月が出ているおかげで想像よりも遥かに明るかった。懐中電灯がなくても問題なく歩ける明るさだ。

 上を見上げると、南の空で煌々と輝く、丸々とした月が視界に映る。目には見えないが、どうやら薄雲がかかっているようで、その輪郭は曖昧にぼやけていた。

 今晩は満月。

 こんばんわ、ブルームーンである。

 暦の上では、およそ二年九か月ぶりの現象だと、お天気のお姉さんが朝のテレビで言っていた。

 一般的な定義では、ひと月の間に現れる二度目の満月のことを『ブルームーン』と呼ぶらしく、別に月が青く光るわけではないらしい。まったく、詐称もいいところである。しかし、それでも、ブルームーンと言われると、なんとなく青白く見えるようなそんな気がしてくる。まあ、薄雲がかかっているせいかもしれないし、そう見えて欲しいだけかもしれないけれど。

「…………」

 観る側の問題、か。

 参道は流石に薄気味悪かった。満天の月夜とは言え、雑木林に囲まれた階段は薄闇が立ち込めている。

 それに、異様な静けさがその気味悪さに拍車をかけていた。

 耳を澄ましてみても、物音ひとつしない。夏らしい虫の音すらも聞こえない。そこにあるのは、さらさらと、月光の降る音さえ聞こえてきそうな深い静寂。休憩の為に立ち止まれば、たちまち、呼吸とふたりぼっち。

 まるで、夢の中のような現実味のない夜半だった。

 慣れもあるかもしれない。私はいつもより早く階段を登り切った。

 境内に辿り着いた私は、例の如く、情けなく乱れた息を整えながら時間を確認する。現在の時刻は二十三時五十三分。華憐ちゃんはまだいなかった。いや、正確には本殿の外にはいなかった。

 仄暗い参道とは打って変わって、境内はかなり明るかった。樹々に邪魔されることなく、欲しいままに射し込まれる月の光。それを白い玉砂利が乱反射し、間接照明のように周囲と夏椿を青白く照らしていた。

 自然、私の視線は、境内の中央にぼんやりと浮かび上がる夏椿に向いていた。

 そして、それは、なんとも異様な光景だった。

 その独特な樹皮模様が生み出す肌のような血色感が、月夜を纏うことでホラーに仕上がっているからなのか。はたまた、夜にも関わらず、はっきりと地面に影を落としているからなのかはわからない。

 けれど、兎に角――異様で、異質で、異状で、異貌で。

 気持ちが悪かった。

 そんな夏椿から視線を外すように、ふと、スマホで時間を確認すると、現在の時刻は二十三時五十五分。

 零時前って言ってたと思うけど、私の聞き間違いだったかな。

 そんな不安が頭をよぎった――そのとき。

 ぎぎぎぎぎ、と。蝶番の苦しそうな呻き声を響かせながら、本殿の御扉が開かれた。

 久しく開けられるところを見なかった重々しい扉。

 よかった。

 やっぱり、聞き間違いではなかった。

 そしてなにより、もう、奇っ怪な雰囲気の中にひとりぼっちではないという事実に、私はほっと胸を撫で下ろした。

 蝶番の音が鳴り止み、ぽっかりと口を開けた扉の先は、重く影が射し込んでいて、深い洞のように見通すことのできない真っ暗な空間が広がっていた。

 ややあって、そこから、ぬらりと姿を現したのは―― 一糸纏わぬ生まれたままの姿をした華憐ちゃんだった。

 有り体に言えば、すっぽんぽんだった。

 白く透き通るような肌を惜しげも無くさらけ出し、柔らかい月明かりに照らされながら、彼女は悠然と玉砂利の上に降り立つ。

 それを見た私の口から「すっぽんぽんだ!」なんて、愉快で腕白なコメントが飛び出すことはなかった。それどころか、私は言葉を失った。

 それは、彼女がこの世に降り立った天使のような、或いは月から舞い降りたかぐや姫のような、正しく絶世の美しさに言葉も忘れてしまうほど見蕩れてしまった――というわけではなく、もっと単純に、久しぶりに彼女の姿を目にすることができて思わず感極まってしまった――というわけでもなかった。

 彼女の右手。

 その手の先に伸びる鈍い光沢。

 私は戦慄した。

 そう。彼女の小さくて可愛らしい手には――何とも不釣り合いで、アンバランスで、ちぐはぐな――鉈が握られていたのだ。

 重厚で無骨な鉈。

 短くて、幅のある厚い刃物に柄をつけた、まき割り、樹木の枝下ろしなどに用いるもの。

 そんなものを手にした彼女がゆっくりと素足を踏み出し、静かな境内に玉砂利の清らかな音を響かせる。

 そうして、少女はこちらにゆっくりと歩み寄りながら、ゆらりと左腕を上げた。それから、その小さな掌を私に向けて、静かに言う。

「そこから動くな」

「…………っ!」

 私は反射的にこくこくと頷いた。

 異論はなかった。というか、右手に物騒な得物を所持している少女に対して異議を申し立てる勇気など、私は持ち合わせていなかった。従う以外の選択肢は用意されていなかった。

 彼女は私から三メートルほどの距離まで歩み寄ると、依然、左の掌を私に向けたまま立ち止まる。踏み込めば、一瞬で詰めることのできる距離だ。

 私はもう逃げられないだろう。

 もっとも、身体は完全に硬直してしまっているため、もはや距離の問題ではなかったが。

 理解が及ばない異常な状況に、私は戦くことしかできなかった。

 一方、そんな私を見つめる彼女の瞳は酷く虚ろで、その表情は洞のように暗くて、そこからは何の感情も読み取ることができなかった。

 ちぐはぐに、不釣り合いに絡み合う互いの視線。そのまま、状態は膠着し、ふたりの周囲は張り詰めた空気に包まれる。

 相変わらず、周囲からは物音ひとつしない。

 際限なく高まる緊張感に、私の心臓は慌ただしく疾り、全身の毛穴から嫌な汗が滲み出る。

 一瞬たりとも気の抜けない、長い長いひとときだった。

 そうして、永遠にも思える時を経て、不意に彼女は、ふうと、浅く息を吐き出した。

 刹那。

 鈍い煌めきが一閃、瞬いた。

 だん。

 そして、彼女はハンドラーよろしく私に突き出していた左の掌を下ろした。

 いや――落とした。

 これは、比喩表現ではない。

 ぎらりとした閃光を捉えた次の瞬間、私の視界に映ったのは、掌を上にして地面に落ちている彼女の小さな左手だった。

 可愛らしい女の子の手。

 そして、掌の代わりに私に向けられた、左腕の細い断面。

 あれ、鉈ってあんなに綺麗に切れるものだっけ?

 いや、そうじゃない。そうじゃない。

 そうじゃなくて。

 そうじゃなくて。

 えっと――


 は――――?


 一瞬遅れて、その断面から噴水のように鮮血が噴き出す。

 その小さな身体の何処に収められていたのだろう、と。不思議に思う程の量の血が――止め処なく、枯れることなく、まるで湧き水のように――拍動に合わせてリズミカルに強弱を繰り返しながら、とくとくと、流れ出している。

 それは、もう本当にあかくて、あかくて、あかくて――目が眩んでしまうほどに真っ赤で。白い玉砂利を鮮やかに、彩やかに染め上げながら、その隙間を縫うように広がっていく。

 鮮烈で、凄惨な光景だった。

 私は、声すらも出すことができなかった。

 一方の少女は、そんな常軌を逸した光景を、先の失くなった左腕を、眉ひとつ動かすことなく、何の感情も窺わせない美しく澄んだ表情を浮かべて眺めている。

 そして――

 だん。

 彼女は再度、鉈を振るった。

 べちゃ。

 二センチ幅ぐらいで輪切りにされた彼女の腕が落ちる。

 千歳飴の如く、先程見たものとよく似た断面が現れて、勢いよく血が溢れ出す。

 以降、繰り返し。

 だん。

 べちゃ。

 だん。

 べちゃ。

 だん。

 べちゃ。

 だん。

 べちゃ。

 だん。

 べちゃ。

 だん。

 べちゃ。

 どちゃ。

 どちゃ。

 肘の辺りまで進んだところで、上手く力が入らないのか、綺麗に切断できなくなる。

 それでも彼女は、相変わらず無表情で、作業のように鉈を打ちつける。

 何度も。

 何度も何度も何度も何度も。

 どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。どちゃ。

――して。

 からんからん。

 彼女はもう腕に力が入らないようで、重そうな鉈を落とし、右腕をだらんと下げる。

 あの出血量ではそれも当然だ。倒れていてもおかしくない。というか、その方が普通で、倒れずに立っている方がおかしいのである。

 そして、手持無沙汰となった彼女は、相変わらず洞のように何も窺うことのできない表情で私を見つめる。

 対して、私はと言うと、目の前で繰り広げられた惨状に――とっくのとうに私の理解を超えている光景に、もう笑ってしまうしかなくて――でも、笑みなんて浮かぶはずがなくて、かたかたと身体を細かく震わせることしかできなかった。

 でも、その代わりに膝が笑ってくれている。

 もう、大爆笑である。

 彼女の足元には、先程まで左腕だった肉片が幾つも転がっている。その、肉片や彼女の腕から流れだす鮮血は、気付くと私の足元近くまで朱を広げていて、それはそれは立派な血溜まりを作り上げていた。

 そこから、ふわりと香る――生臭い彼女の匂い。

「おぇえええええええええええっ!」

 私は吐いた。

 みっともなく、盛大に。

 その場に膝をついて、人目を憚ることもなく――というか華憐ちゃんの見ている前で、びしゃびしゃと、ありったけの胃液を、出せる分だけ全部、吐き出した。

 晩御飯は何を食べたっけ、なんて。そんな思考を巡らせることもままならず、全部、全部。何もかも吐き出した。

 そうして、すぐに中身が空っぽになって、もう、出せるものはなくなった。けれど、それでも、嘔吐きが止まらず、何かを出そうと胃が収縮するのを感じる。

 吸う息も吐き出す息も漏れなく酸っぱい。

 咽喉は焼けるように痛いし、顎の関節も痛い。

 涙で滲んでしまった視界で華憐ちゃんを見上げると、飛び散った自分の血を浴びて、妖艶な雰囲気を身に纏う彼女と目が合った。

「か、れんちゃん……」

 ああ、どおりで見たことあると思った。

 そっか、あの痣は――


 そこで私の意識は途絶えた。




 目を覚ますと、いつもとは違う感触が私の身体を包んでいた。次第に意識が覚醒していき、視界が鮮明になっていく。

 目を擦りながら上体を起こし、周囲を見渡すと――私は見知らぬ天井、見知らぬ壁に囲まれていた。

 節のない木目の整った板張り。鼻腔をくすぐる微かな檜の香り。

 ああ、やっぱり――この物語はミステリだったのかもしれない。

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