(下)

 私はすぐさま華憐ちゃんの身体を抱き抱え、胸に開いた穴を手で押えながら必死に呼びかける。

「華憐ちゃんっ! 死んじゃあ嫌だよ! 華憐ちゃんっ!」

 だが、彼女は呼びかけに微弱な反応を示すだけで、虚ろな眼も、浅い浅い呼吸もまさに風前の灯火の状態だった。

 それでも、彼女は切れかけの意識の中、微かに口を動かし、掠れた吐息を吐いて、何か伝えようとする。

 だが――

「華憐ちゃん、何言ってるのかわかんないよ……! わかんないよ……っ!」

 対する私は、悲しみなんだか怒りなんだか判然としない感情を言葉に乗せて彼女にぶつけることしかできなかった。

「いなくならないって、華憐ちゃん言ったじゃんか! やだよ……! 華憐ちゃん!」

 そうして、華憐ちゃんはふっと、消え入りそうなほど微かに、幽かに微笑むと、ゆっくりと目を閉じ、呼吸を止めた。

「いやだっ! 華憐ちゃん! お願い! 目を開けて! 華憐ちゃんっ!」

 反応は、ない。

「いやぁあああああああああああああああああああああーっ!」

 私は彼女の身体を揺さぶる。意味は無いと頭ではわかっているが、どうしてもそれを認められない自分がいて、認めたくない自分がいて、どうしようもなく足掻く。

 そのとき――揺さぶった拍子に、ズボンのポケットからスマホが足元に落ちた。

 そうだ――

 スマホを確認すると、現在の時刻は二十三時五十七分。

 零時になれば、華憐ちゃんの身体は元に戻り、目を覚ますはずだ。

 私のつけた傷は戻らないという話は悪い冗談に決まっている。

 そうだ。

 そう信じた。

 信じて、心から信じて、私は零時を待った。

 その数分は、永遠にも感じられるほど長く、気が狂ってしまいそうなほどに長く、苦しい時間だった。

 そうして、時刻は零時を回った。

 だが――

 だが、彼女は目を覚まさなかった。

 胸に開いた穴は依然として、ぽっかりとその口を開けたまま。

 身体が、元に戻らない。

「あ、ああ……ああああああ――」

 絶望だった。

 もう、どうすることもできない。

 事切れた彼女を胸に抱いて、途方に暮れる。

「うっ……うぅうう……うぁあ――」

 あまりに唐突な終わりだった。

 急激に、急劇に訪れた最悪の結末。

 そう、おしまい。

 これで、おしまいだった。

「うわ、わぁああ――うっ、うわぁあああああ――」

 どうしてこうなってしまったのか。

 何かを間違えたのだろうか。

 どこで、何を。

 私は。

 私は、いったい。

「うっ、うぅううう……どうして……、どうしてなの華憐ちゃん……」

 もう反応を返すことのない彼女に問いかけた、そのとき――


 ぽとり、と。

 白く透き通るような可憐な花が一輪、静かに落ちた。


「えっ――?」

 見ると、それは夏椿の花だった。

 季節外れの夏椿の花。

「夏椿……なんで…………?」

 上を見上げると、四方に伸びた枝の先々で、夏椿の花が薄白い光を放ちながら次々と開き、ぽとりぽとりと、次々に落ちてくる。そして、地面に落ちた花は、その淡い光を一瞬強めると、空気に溶けていくようにして、霞んでいくようにして、消えていく。

「な、なに……何が起きているの……?」

 夏椿の花が、何度も咲いて、何度も散る。

 何度も、何度も。

 そうしているうちに、散った花のひとつが華憐ちゃんの腹の上に落ちてきた。すると、その花は一際強い光を放ちながら、彼女の中に溶けていくように消えていった。そして、次の瞬間、彼女の身体はたちまち薄白い光に包まれる。

「か、華憐ちゃん……っ!」

 その淡い光は、次第に輝きを増し、やがて、華憐ちゃんの身体は眩い程に光り輝く。

 まるで、目の前に満月が落ちてきたような、白く美しい輝きだった。

 そうして、彼女の身体を包む光は更に輝きを増し、一瞬、直視できない程の強い光を放つ。

 その輝きに目が眩んだ私は、目を瞑った。

 そして、そのときだった。


「サラ…………」


 聞こえてきた微弱な声に、はっとして目を開くと、華憐ちゃんがうっすらと目を開け、こちらを見ていた。

「華憐ちゃんっ!」

 見ると、彼女の胸に開いていたはずの穴が塞がっていた。

「サラ……私は、どうして…………」

「わかんないっ! わかんないけど、よかった……っ!」

 気が付けば、私は泣き喚いていた。

 喜怒哀楽、様々な情緒が混在した複雑な感情が一気に押し寄せ、目から、口から、勢いよく気持ちが溢れ出す。

 ただ、私は怒っていた。

 はっきりと、怒っていた。

「うっ、うぅうう――華憐ちゃんの馬鹿……っ! ひっ、ひっ……もう馬鹿っ! うわぁああああああああああんっ!」

 人目も憚ることなく、というか、華憐ちゃんの目も憚らず。

 塞がったばかりの彼女の胸を叩きながら。

 まるで、駄々をこねる子供のように。

 大声で泣いていた。

「うわぁあああん、ひっ……うぅううう、ぐすっ……うわぁああああ、わぁああああああああああああああんっ!」

 そんな私の頭を、華憐ちゃんはゆっくりと撫でる。

「サラ、泣かないでくれ……」

「うぅううう、ぐすっ、華憐、ちゃんが、いけないんでしょう……っ!」

「ああ。私が悪かった……。だから、お願いだ。泣かないでくれ…………」

「ひっ、う、うう…………ずびっ、う、うう………」

 言われて、私は涙を止めるように努めてみるが、一向に収まらない。

 すると、華憐ちゃんは、溢れ続ける私の涙を拭いながら言う。

「すまなかった、許してくれ」

「嫌だ、絶対に許さない……」

「じゃあ、最期と思って、今朝、勝手に冷蔵庫のプリンを食べたことは許してくれるか?」

「許さないよ!」

 逆に何故このタイミングで許してもらえると思ったのか。

「じゃあ、どうすれば、私は許してもらえるんだ」

 と、華憐ちゃんは私に問いかける。

 交換条件か。

 私は、突っ込みで冷静になった頭で考える。

「じゃあ、約束して」

「何をだ」

「朝になったら、ベランダで一緒に月を見るって約束して」

「……わかった。約束しよう」

「それから――」

「それから?」

「もう二度とこんなことはしないと誓って」

「…………わかった」

 もう二度とこんなことはしない。

 と、華憐ちゃんは素直に反復する。

「最後に――」

「待て、条件が多くないか?」

「なに? 文句あるの?」

「いえ、ありません……」

「よろしい」

 そうして、華憐ちゃんを黙らせてから、私は言う。

「今から、華憐ちゃんにキスをします」

「…………はい」

「その味をいつまでも覚えていてください」

「ああ、約束するよ」

 言って、彼女は目を瞑る。

 私は、涙で濡れた唇を彼女の唇に重ねた。

 ふたりの間で混ざり合う、体温と涙の味。

 それはしょっぱくて、お世辞にも美味しいとは思えない味だった。

 甘酸っぱいなんて理想のキスからは程遠い、酷く切ないキス。

 けれど。

 けれど、私はこの味をいつまでも覚えていて欲しくて。

 美味しくはなくても、私の抱く彼女への想いを知っていて欲しくて。

 だから。

 彼女が忘れることのないように、何度も何度も、確かめるように唇を交わした。

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