第五章【夢現】

八月二十一日

(上)

 まただ。

 また、同じ夢。

 私の目の前には、涙を流す少女。顔はぼやけていて、輪郭さえもはっきりとしないが、兎に角、悲しい表情を浮かべて、大粒の涙を落としていることだけは確かにわかる。

 ぽつり。またぽつりと。まるで点滴のように落ちる彼女の涙を頬で受けながら、私はいつも考える。

 何がそんなに悲しいのだろう。

 何がそんなに彼女を悲しませているのだろう。

 わからない。

 だけど、理由はわからずとも、私はその涙を止めたい。止めたくて、止めたくて。私は彼女の頬に手を伸ばす。

「お願い。そんな顔しないで」

 頬を伝う涙を拭いながら、私は言う。

「私、貴女にこうされたいって願ったの」

 そう、私が願ったんだ。

 私が願って、貴女が叶えてくれたんだ。

 だから。

「お願いだから、もう泣かないで」

 と、私は必死に訴えかける。

 だが、それでも彼女は泣き止まない。両の瞳から滔々と涙を流し続けながら、顔をしわくちゃに歪めて泣き叫んでいる。

 ああ、今回も駄目だった。

 今回も、少女は最後まで泣いていた。

 そうして、意識は白み、夢とも現実ともつかない微睡みの中、私は、ふと思う。

 私は、いったい何を願ったのだろう。

 私は何を願って、彼女は何を叶えてくれたのだろう。

 わからない。

 わからない、けれど。

 それは大切な何かで。

 忘れてはいけない何かで。

 私は、その何かを、忘れてしまっている。




 八月二十一日

「ん、んん……」

 目を覚ますと、私は自分の部屋にいた。

 いや、それ自体は当然のことだ。昨日の夜、自分の部屋のベッドで眠りについたのだから、朝起きたらベッドの上にいたというのは、当然というか、必然というか、自然だ。

 わざわざ書くまでもない出来事――いや、出来事ですらないのかもしれない。

 だが、私は確かに自分の部屋にいるという、その当然で自然なことをどうしても確認したかったのだ。なぜならば、いつものように身体を伸ばしながら上体を起こした私の視界に、明らかに自然ではないものが映ったからだった。

「…………え?」

 そこには、華憐ちゃんがいた。

「いけない。寝惚けているのかな」

 言って、私は、瞼を擦る。

 そして、もう一度、ベッドの向かいに置いてあるソファに視線を向ける。が、やはりそこには、華憐ちゃんがいた。華憐ちゃんがまるで自分の所有物かのようにゆったりとソファに腰を掛けている。

 幻を見ているのだろうか。

 そう思いながら、その幻をぼんやりと眺めていると「ようやく起きたか」と、幻が話しかけてくる。

「待って……幻聴まで聞こえる……」

「うん? 大丈夫か?」

「いや、大丈夫じゃないかも。だって、華憐ちゃんが私の部屋にいるはずがないもん」

「何を言っているんだお前は。私はここにいるぞ」

「え? どうして私の部屋に華憐ちゃんがいるの?」

「まったく、寝惚けているのかお前は」

 はあと、嘆息を漏らして、華憐ちゃんは言う。

「お前が同棲を勧めてくれたんだろ」

「あえ?」

 言われて私は、記憶を遡る。

「ああ、そうだ。そうだった」

「まったく……」

 華憐ちゃんは再び嘆息を漏らす。

 どうやら、私は本当に寝惚けていたようだった。

 寝起きに映った夢のような光景に、つい現実を疑ってしまった。

 まったく、やれやれな脳細胞である。

 そう、私、藤咲沙羅は、つい昨日から、私の部屋で華憐ちゃんと同棲することになったのだった。

 きっかけは、昨日、華憐ちゃんに会うために神社を訪れた際のことだ。

 いつものように息を切らしながら階段を登り切り、境内に辿り着くと、そこで私を迎えてくれたのは、見慣れたいつもの本殿ではなく、跡形もなく解体された本殿――というか、元本殿だった。

「え、ええっ!? 何でぇえ!?」

 私は思わず駆け寄り、間近で確認するが、当然ながらやはりあったはずの本殿の姿はなく、そこにはパーツごとに小さく解体されて、綺麗に整頓された元本殿の姿しかなかった。

 私は呆然とした。目の前の光景が咄嗟には受け入れ難く、上手く言葉が出てこなかったのだ。

 そうして、ただただ本殿の跡を見つめながら突っ立っていると、不意に私の名前を呼ばれた。

「サラ、どうしたこんな暑い日に」

 声のした方を見遣ると、手水舎の影に胡坐をかいて座る人影。

 いつからいたのか、そこには華憐ちゃんがいた。

「どうしたは私の台詞だよ! これはいったいどういうこと?」

「急に話が決まってな」

 と、華憐ちゃんは手招きしながら言う。

 私は、招かれるままに彼女の隣に腰を下ろす。

「古い建物だったからな、あちこちにぼろが出ていたんだが、この際だから建て直すという話になってな。それが昨日の話だ」

「え、昨日その話が出て、今日にはもうこの状態?」

「思い立ったがなんとかってやつだな。朝早くに業者が来て、午前中には終えていったよ」

「展開が早すぎる……」

 ギャグ漫画もびっくりの急展開だった。

「まあ、次の台風を耐えられるかどうか怪しかったからな。何か起きたら大変だってことで、急いで取り壊したんだよ」

「なるほど」

 たしかに、中に華憐ちゃんがいるときに倒壊でもしたら大変だ。

 でも――。

「建て直すって言っても、そんなすぐにはできないよね。その間、華憐ちゃんはどうするの?」

「ああ、それが問題でな。一応、石動いするぎのやつが空き部屋を――」

 この瞬間、閃いた私は、彼女の言葉を遮って、言う。

「うちに来なよ!」

 両肩を掴み、押し倒さんばかりの勢いで繰り出された提案に、華憐ちゃんは「へっ?」と、素っ頓狂な声を上げる。

「え、いいじゃん! 素敵じゃん! 同棲ってことでしょう!? え、最高!」

「あ、ちょっ、え……」

「もしかして、それの為にここで待っていたの? もうっ、水臭いなあ。早く言ってくれればいいのに!」

「いや、それは、本当にたまたまお前が来て……」

「この前、近くに居させてって言ったけど、まさかこんなにも早く、文字通り近くに居ることになるなんて……うへ、うへへへへへ……」

「えっと、いや、あのな……」

「何か文句……何か質問はある?」 

「ありません……」

 じゃあ、今日からよろしくね。と、私は早々に話をまとめ、その後すぐに、彼女の衣服等、少ない荷物を二回に分けて自宅へと運び、数時間後には同棲生活が開始されたのだった。やや強引だった気もしなくもないし、まさか、初デートから一週間程で同棲を始めることになるとは思いもよらなかったが、ともあれ、棚から牡丹餅的に華憐ちゃんとの距離をより一層縮めることができて、心の中で渾身のガッツポーズを決める私だった。まあ、縮まるのは物理的距離だが、心の距離を近づけるのに、物理的距離を縮めることは有効だろう。

 そうして、真夏の昼間に自宅と神社を二往復もして、それなりに汗をかいた二人だったが、どちらが先に風呂に入るかを争い、結果、ふたり仲良く風呂に入ったために起きたあれやこれやは、世界平和のために伏せておくことにしよう。

――して、現在。

 どうやら、広い湯船が相当お気に召したらしく、朝風呂に入ると言い出した彼女を風呂場へと送り出し、私は朝食の準備へと取り掛かる。とは言え、凝ったものを作る材料も技量もない。作るのは、だし巻き卵を食パンで挟んだ、だし巻き卵サンドなるメニューだ。簡単だが、満足度が高く、私お気に入りのメニューである。

 そうこうしているうちに、彼女が風呂から上がる。

 だぼだぼのシャツにショートパンツを合わせた格好で、髪の毛をタオルで乾かす姿は、眩しさを覚えるほどに瑞々しく、美しい眺めだった。

 その眼福をしばらく堪能した後、私は彼女に問いかける。

「髪、乾かそうか?」

「ああ、頼む」

「ふふ、任せて」

 私はソファに腰かけ、華憐ちゃんをその前に座らせる。そして、彼女の髪を手櫛で梳かしながら、ドライヤーで温風をあてていく。

「こうしているとさ、なんだか姉妹みたいだね」

 私が姉で、華憐ちゃんが妹。

 と、私は言う。

「私、ひとりっ子だから、兄弟って憧れだったんだよね」

「そうなのか。私もひとりっ子だ」

「へえ、そうなんだ。なんか意外」

「ん、そうか?」

「うん。しっかりしてるから、弟か妹がいたんじゃないかって勝手に思ってた」

「なるほどな」

「それに、昔の人って兄弟がいっぱいいるイメージがあるからさ」

「私のときはそうでもないよ。ひとりっ子も珍しくなかった」

「ふうん」

 そうなのか。

 こういう間違ったイメージはどこでつくのだろう。

 たしかに、よくよく考えてみれば、決して裕福ではない時代に多産などできるはずがないよな。

 ううむ。勉強になるなあ。

「じゃあさ、試しに言ってみてよ」

「何をだ」

「私のことを『お姉ちゃん』って」

「断固拒否する」

「何で!? 断固拒否って、そんなに嫌なの!?」

「ああ、四百年生きたプライドが許さない」

「ええ、お願い! 一回だけ。一回だけでいいから。いや、ちょっと、先っぽだけ、先っぽだけでいいからさ~」

「駄目だ」

「ちぇっ。まあいいけどさ」

 チャンスはまだまだあるはずだからな。

「それはそうと、さっき冷蔵庫を開けたらプリンが入っていたが、あのプリンは食べてもいいのか?」

「駄目だよ。あれは私が自分のために買ってきたとっておきのプリンなんだから」

「そうか……」

「うん。今度は華憐ちゃんの分も買ってくるよ」

「なあ、どうしても駄目か……?」

「む、強情だな……」

 すると、華憐ちゃんはくるりとこちらに向き直り、上目がちな視線を私に送りながら言う。

「……お願い、お姉ちゃん」

「安いプライドだなあ!」

 たかだか数百円のプリンのために捨てられる程度なのか、四百年というのは!

 というか、上目遣いは良いとして、何で真顔なんだ。もうちょっと困った顔とかすれば可愛くなるのに、それもう睨んでるよね。女の子のしていい顔じゃあないよ。

「はあ……。わかったよ、食べていいよ」

「本当か?」

「うん」

「よかった。死に別れたあいつらにも良い報告ができそうだ」

「重いよ! プリンが背負える重さじゃあないよ!」

 とか。

 冗談にするには重すぎるネタを放り込んでくるのは、彼女の悪い癖だ。突っ込みを入れるにも気を遣うから、できれば自重して欲しい芸風だった。

 そんなこんなで、華憐ちゃんの髪があらかた乾く。やはり、短くて髪質のいい髪は乾くのが早い。

 サラサラの仕上がりである。

 そうして、ドライヤーを片付け、冷蔵庫からプリンを取り出そうとキッチンに向かったときだった。不意に来訪者を知らせるインターホンのベルが鳴り響く。

 はて、こんな時間に誰だろうと、インターホンに取り付けられているディスプレイを確認する。すると、そこに映っていたのは――。

 私の母だった。

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