八月十一日
(欅)
八月十一日
長時間に及んだ実験実習がようやく終わり、ほっと緩んだ空気が実験室内に流れていた。そんな柔らかな空気の中、私は、翌日に迫る一大イベントのために、浮かれた気分で淡い妄想を繰り広げていた。
一大イベント。
もしかしたら一生記憶に残るかもしれない大事な日。
そう。私こと藤咲沙羅は、意中の女性である華憐ちゃんとデートをする約束を取り付けたのだった。
本当にようやくのことだ。恋に落ちて早二か月弱。ようやく漕ぎ着けた彼女との初デート。事の発端は、先日、彼女が言ったこんな一言だった。
『粗相をした償いをさせて欲しい』
それは、華憐ちゃんと裂石神社にて神事を執り行った日の翌日、つまり八月五日のことだった。
日を跨ぐと身体が元の状態に戻ると言っていたけれど、それはつまり、どれだけ酒を飲んだとしても二日酔いにはならないということだろうか。と、そんな純粋かつ素朴な疑問の下、念の為に二日酔いに効きそうな品々をお供え物――もとい手土産に神社を訪れた私に対して、彼女が開口一番に言い放った言葉だ。
初めは何を言っているのかがさっぱりだったが、彼女の話を聞くうちに、その粗相とは、前の晩、泥酔した挙句、私に手を出しかけたことを指しているのだとわかった。
粗相。
彼女らしい表現だと、そう思った。
手を出しかけた――それはつまり未遂だったということであり、結果的には私の胸で号泣しただけだった。粗相と言うにはあまりに可愛い失敗のようにも思えるし、そもそも失敗でもないような気もするが、兎に角、彼女は酒によって垣間見えた己の弱さを『粗相』と表現し、その償いをさせろと言ってきたのだった。
当然、最初は断った。というか遠慮した。と言うのも、私は粗相をされたなんて少しも思っていなかったし、むしろ、拗らせオタクであるところの私は、貴重な体験ができたと思っているくらいで、なんであれば彼女に対して感謝の言葉を述べたいとまで思っていたからだ。
だが、彼女は納得しなかった。
頑なに、というか半ば向きになって『ひとつだけ何でもしてやる』と、そう言って聞かなかったのだった。
さて、そんなわけで、華憐ちゃんをなんでも望み通りにする権利を得た私だったが、それはそれは本当に困った。と言うのも、私は『推し至上主義』を掲げるオタクなのだ。つまり、推しが存在している、そのことが既に尊いことであり、推しが好きなように生きていることが、私にとっての最大の供給なのである。それ故に、推しに対しては基本的に無欲であり、こちらから何か要求するなど、烏滸がましいとさえ考えている。
だから、本当に困った。
行き過ぎた供給は逆にオタクを苦しめるのだ。
そして、悩みに悩んだ結果、デートの申し出をした。と、そういうわけである。
まさかデートよりも先に、彼女の全裸を見たり、気を失ってそのまま彼女の家で一晩過ごすことになるとは思ってもみなかったが、何はともあれ初デートだ。浮かれた気分になるのも仕方のないことだろう。
次々と頭に浮かぶ、彼女とのあれやこれや。人目がある状況にもかかわらず、勝手に頬が緩んでしまう。
そうして、だらしなく崩れる顔を隠すように、机に突っ伏した、そんなときだった。
ひいと、悲鳴のような声が実験室内に木霊した。
いや、悲鳴だったかもしれない。
そして、何処からともなく上がる何かに対する抗議の声。はて何事かと顔を上げると、いつの間にか教壇に教授が立っていて、その背後の黒板には大きな字で何かが書かれていた。よくよく目を凝らして黒板の字を読み取ると、そこには、今回の実験レポートの課題要件が書き出されていた。具体的には、提出期限と頁数だった。
「来週までに十頁以上……っ!?」
あまりに無茶な要求だった。
百歩譲って十頁はいいとしても、それをたった一週間で仕上げるなんて無理難題もいいところだ。このままではデートどころではなくなってしまう。
そこで私も、周囲に賛同する形で、抗議の声を小さく上げてみる。が、教授はそんな学生たちの声もどこ吹く風で、淡々と詳細の説明を始める。どうやら、酌量の余地はないようである。そうして、諸々の説明を終えて、最後に提出方法を提示すると、教授は「提出期限は守るように」とだけ言い残して教室を去っていってしまった。学生たちからの好感度をかなぐり捨てるような厳格な態度に呆気を取られつつ、恨めしい眼で教授の去っていった方を見つめていると、正面の席にいた藤滝春陽くんが声をかけてくれる。
「お疲れ様。大変なことになったね」
「お疲れ様。本当にね……」
先週に引き続いての内容だった今日の実験実習。当然、ペアの組み合わせも引き続き彼だった。
「うう……明日は大事な用事があったのに、それどころじゃなくなっちゃったよ……」
「あらら。可哀想に」
「まぢ恨み辛み……」
「若者言葉と見せかけた激重ワードじゃん」
積もり積もってんなあ。
と、春陽くんは言う。
「で、ちなみに、その大事な用事っていうのは……訊いても平気?」
「実は……。この前、私にも好きな人がいるって話をしたでしょう? その人とデートの約束があるんだよ」
「おお!」
「しかもさ、聞いて踊らないで欲しいんだけど」
「驚くことはあっても、踊ることはないと思うけど……どうしたの?」
「一泊二日のお泊りデートなんだよ」
「えっ!? すごいじゃん! すごい進展具合じゃん!」
「でしょう? それなのに、このタイミングであんな重い課題なんて……」
「うーん、それはたしかに辛いね。このままだと、お楽しみ中も課題レポートのことが頭にちらついちゃいそうだし」
「うう……」
それは嫌だな……。
とは言え、デートまでに課題を終わらせるとなると、今日中に書き上げなくてはならないわけだが、そんなことは天地がひっくり返ったとしても無理だ。
「んー。だけどまあ……。あれくらいなら、一日で書き終えられるんじゃないかな」
「へっ!? 本当に言ってる?」
「うん。本当本当」
「いやいや、まさか……」
と、疑う私に、春陽くんは至って真面目な表情で言う。
「今回はちゃんとそれらしい結果も出たし、実験でやったことを順々に書いていけば、あのくらいの頁数になると思うんだよね。実験中に撮った写真を使っていいとも言ってたし。うん、大丈夫だよ」
「んー……」
なるほど。
そう言われると、たしかに書き切れるような気もしてくるが……。
「春陽くんにできても、私には無理だよお~……」
私は、崩れ落ちるように再び机に突っ伏した。
「レポート課題って苦手なんだよ……。だってさあ、結果のわかり切ってる実験をやらされてるだけなのに、実験の目的とか、考察とか、今後の展望とかを書けって言われてもさあ、そんなのわかんないよお~……」
と、私は顔を両腕に埋めながら、ぶつぶつと文句を垂れていく。春陽くんに文句を言ったところでしょうがないことはわかっているし、そんなことをしたって、状況は何ひとつ良くはならないことももちろんわかっている。だが、それでも私は、彼に言葉をぶつけることを止められなかった。私のどうしようもない言葉でも、優しい彼は丁寧に受け止めてくれるとわかっているからだ。
案の定、春陽くんは「あはは。まあたしかにね。気持ちはわかるよ」と、丁寧に受け止めてくれるのだった。
優しい人というのは損な生き物だ。
本当に。
私は、はあと深く溜息を零して、机から顔を上げる。親切な助言に対して文句を垂れてしまったことを詫びようとして、彼の顔を見上げると、彼は帰り支度をする手を止めて、不思議そうな顔をしながら教室後方の扉を見つめていた。そして、不意に質問を投げかけてくる。
「藤咲さん、芹澤さんと何かあったの?」
「えっ!? ど、どうして……?」
「いや……。今、芹澤さんがひとりで帰っていくのが見えたからさ。それに、ここのところ、芹澤さんが藤咲さんにべたべたしてるのを見ないし」
「あはは……。よく見てるね……」
「もしかして、喧嘩?」
「いや、実は……」
そうして私は、先週、愛莉と下校している際中に華憐ちゃんと偶然出会い、唐突にふたりの間で口喧嘩が勃発したこと。そして、その日以来、愛莉が私を避けるようになったことを、彼に伝えた。
「へえ……。それはまた、よくわからない問題だね」
「そうなんだよ……。もともと、愛莉の考えていることはよくわからないんだけど、最近はもっとわからなくてさ」
「ふうん?」
「機嫌が悪いと思ったら、突然ご機嫌になったり……。かと思えば、私に嫌がらせをしてきたりさ」
「嫌がらせ?」
「いやまあ、本当のところはよくわからないんだけど……そのふたりの喧嘩の内容が、まるで私を取り合っているかのような争い方でさ。だから、愛莉が私の恋路を邪魔しているようにしか思えなくて」
私がそう言うと、春陽くんは「うーん」と考え込むような仕草を見せてから、こう言った。
「実際に取り合ってたんじゃあなくて?」
「…………え?」
私は首を傾げて、言う。
「なんで?」
「えっ。な、なんでって……」
私に問い返されたことが余程意外だったのか、春陽くんは面食らったような表情を浮かべる。
「いや、私には、あの愛莉がそんなことをする意味がわからないんだけど」
「うーん。僕には、あの芹澤さんだからこそ、そんな風に思えるんだけど……」
「…………?」
「まあ、とりあえず、芹澤さんは悪意を持って藤咲さんの邪魔をしている、というわけではないんじゃないかな」
「うーん……。私も愛莉のことが嫌いになりたいわけじゃあないけど、でもやっぱり、悪意じゃあないとしたら、何だって言うのかがわからないよ」
それが私の本音だった。
仲の良い愛莉のことだ。私も悪意ではないと思いたいが、しかし、他人の邪魔をするとして、そこに悪意以外の動機なんてあるのだろうか。
悪意の逆で善意?
善意で人の恋路を邪魔するというのもよくわからないが、例えば、私を取り合うような振舞いをすることで恋のライバル役として華憐ちゃんを煽り、結果として、私の恋愛を応援してくれていた……とか?
いや。
やっぱり、彼女がそんな殊勝な行いをするとは思えないな……。
『あの芹澤さんだからこそ、そんな風に思える』
春陽くんはそう言ったが、一体、彼には愛莉のことがどう見えているのだろうか。
私から見た愛莉は――時として鬱陶しさを覚える程に、べたべたと戯れ付いてくる、まるで犬のような女の子で。そうかと思えば、まるでどこかの文豪のような、情緒あふれる一文を突然紡ぎ出してしまうような、文学的センスを持った人で。いつだって年上の異性からのアプローチが絶えないのに、恋人も作らずにこんな私とつるんでばかりいる――愛してやまない、私の大切な友人だ。
大切な、友人。
じゃあ――愛莉から見た私は、どうなのだろう。
彼女から見た、私は――。
「兎に角」
春陽くんは、きっぱりとした口調でそう言って、私のごちゃごちゃとした思案を一蹴する。
「その辺は本人に聞くのが一番なんじゃあないかな」
「それはそうだけど……」
それができたら、今こうして苦労することはないのではないだろうか。
案外、厳しいことを言う春陽くんだ。
はあ。
私は、今日何度目かわからない溜息を零して、滞っていた帰り支度を進める。すると、春陽くんは「そういえば」と言って、おもむろに話題を変えてくる。
「先週、芹澤さんに聞いてくれるって言ってたあれはどうだった?」
「ああ。春陽くんが嫌われているかどうかってやつ?」
そう問い返すと、彼は、こくりと不安げに頷いた。
人に嫌われるような要素はどこにも見当たらない彼だ。一体何が、彼をここまで心配にさせているのかわからないが、とりあえず、不安は解消させてあげるべきだろう。
「別に嫌われているという感じではなかったよ」
「あ、本当? よかった~……」
そう言って、彼はほっと表情を緩める。
「うん。なんなら可愛いって言ってたよ」
「あはは。なにそれ」
「えっとね、リトルツインシスターズのルルに似てて可愛いってさ」
「待って。本当になにそれ。僕、褒められてる?」
と、にわかに表情を曇らせる春陽くん。
「え? 褒められてるんじゃないの?」
対して私は、彼の思いがけない反応に困惑しつつ、問いに問いを重ねる。
「だって、リトルツインシスターズのルルと言えば、あの、変態的な趣味を持った兄に無理やり女装させられている、可哀想な幸薄キャラクターだよね」
「それ、春陽くんも知ってたんだ……って、あれ? 兄?」
愛莉が言うには、義理の姉であるナナに振り回されているという話だったような……。
「あれ、知らなかったの? ナナは女装癖を持った男の子だよ」
「ブラザーズじゃん!」
シスターズとは一体何だったのか。思いっきりタイトル詐欺じゃあないか。
気を衒い過ぎているというか、気が狂い過ぎている……。
そしてなにより、その狂った世界観を知らずに、可愛いものとして認識していた自分が恥ずかしい……。
知らない方が幸せなこともある。まさにその言葉通りであった。
そうして、何とも言えない虚しさに苛まれていると、帰り支度を終えた春陽くんに声をかけられる。
「とりあえず、行こっか」
「え、どこに?」
「あれ、行かないの? 図書館」
図書館?
そんな約束はしていないはずだが……。
「何をしに行くの?」
私がそう問い返すと、彼は首を傾げて、言った。
「今日、終わらせるんでしょう? 課題レポート」
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