八月十三日

(上)

「わあ………………綺麗…………」

 寝転んで空を見上げた私の口から、自然とそんな言葉が溢れ出た。

 視界一杯に広がる、満点の星空。大小様々な星々が、零れ落ちそうな程に夜空を満たしていた。

「そうだな。綺麗だ」

 隣で同じように夜空を見上げる華憐ちゃんが、反復するようにそう言った。

 綺麗。

 その二文字は、今、私の胸を占めているこの感動を表すには、あまりに頼りなくて、間違った意味で役不足な言葉で、自分の語彙の無さを悔やむばかりだったが、四百年という人間には想像し得ない程に長い人生を歩んでいる彼女でさえ、その二文字にしかできないのだから、もしかしたら、私の語彙力よりも日本人の言語活動の方に問題があるのかもしれない。

 というか、正直、言語化とかどうでも良くなってしまうほど、圧倒的な光景だった。言葉にするにはあまりに綺麗で、あまりに美しい。

 それでも、何か言葉はなかったかと脳内に検索をかけていると、一際明るい光が一筋、視界の端を駆けた。

「あっ! 流れた!」

「む、どこだ」

「あら残念。あっちの方だったよ」

 そう言って、流れ星が見えた方角を大雑把に指さしたときだった。ちょうど、ふたりの視線がそちらに向いた瞬間、再び、一筋の光が東の空へと駆けていった。

「あ」

「あ」

 声が重なる。

「今度は見えた?」

「ああ」

「そっか、よかった」

 ライトも使わない雑な視線誘導だったが、それが逆に功を奏した。

「華憐ちゃん、何かお願い事はした?」

「ああ。『殺してくれ』とな」

「そっか……。あはは……」

 私は苦笑いを零すことしかできなかった。

 さて、今日は待ちに待った例の一大イベント当日。私達は、とあるキャンプ場に来ていた。

 春陽くんの協力のおかげで、無事に課題レポートを終えた状態で今日を迎えることができた。まさか、本当に一日で終えられるとは思っていなかったけれど、彼の助言に従いながら進めていたら、いつの間にか出来上がっていたのである。自分でも不思議でしょうがないが、兎に角、彼には感謝してもしきれない。今度、改めて御礼をするとしよう。

 ここまででも既に自明かもしれないが、今回のデートのメインイベントは天体観測である。しかし、ただの天体観測ではない。そう。本日、八月十三日はペルセウス座流星群の極大夜。つまり、ふたりで夜空を仰ぎ見ながら、流星群を観察しようというわけである。我ながら大変ロマンチックで素敵なデートプランだった。

 そんなわけで、昨日の夜から電車を乗り継ぎ、二時間程かけてこの地の駅に辿り着き、さらにそこから少し歩いて、このキャンプ場へと来たのだった。

 終電に乗るというのも、これが初めての経験だった。

 ここは、河原全体がフリーサイトとなっているキャンプ場で、視界が開けていることに加え、周囲に光源も少ないため、天体観測の穴場スポットとしても知られる場所だ。私達以外にも、同じく天体観測を目的にしていると思われるグループが多数見られる。また、キャンプ用品をレンタルすることも可能であることから、初心者でも手軽にキャンプを楽しめると人気のキャンプ場で、天体観測ではなく純粋にキャンプを楽しむ行楽客達でも賑わっていた。

 そして、私達は、そんな賑わいから離れるように、キャンプサイトの外れの辺りにレンタルしたエアーマットを敷いて、その上にふたり並んで寝転び、夜空を眺めていた。

 現在の時刻は午前一時十四分。

 見頃である三時過ぎまでは、まだまだ時間はあった。

「はあ。しかし、本当に綺麗だね。思わず溜息が出ちゃう」

「ああ、まったくだな。こんなに綺麗な夜空は久しぶりに見た」

「昔はさ、もっと綺麗に見えたの?」

「そんな変わらないよ。今日みたいな月のない夜はこんな感じだった」

「へえ。何となく、昔の方が綺麗なのかと思ってた」

「まあ、今より夜が暗かったのは確かだ」

「そっか。それは大変だね」

 街灯が普及している現代でも、夜はやっぱり暗くて、怖いものだ。それが今よりも暗くて、照明もあってないような時代なんて、現代を生きる私には正直、想像できない。

「とは言え、引きこもりだった私には関係のない話だけどな」

「そんな、自慢げに言われても……」

 というか、引きこもりだったんだ……。

 賢しい詮索をするなら、少なくとも近代的な照明が一般に普及する十九世紀頃まで、つまり三百年程は引きこもっていたことになるのだろうか。だとしたら、かなりの重症だ。

 いや、それも仕方ないか。

 愛する人とこの上なく悲惨な別れを経験し、その上、自分は決して死ぬことのできない呪いを授かったのだ。そんな壮絶な運命を定められてしまったら、誰だって塞ぎ込むだろう。

 それが普通だ。

「まあ、それでも、月のない夜は怖いというか寂しいというか、そんな風に感じるよ」

「ふうん。華憐ちゃんも寂しいとか思うんだね」

「…………ああ、そうだな」

 痛みに飽きたと言っていた彼女だ。

 寂しさのような心の痛みにも鈍くなっているかと言えば、そうではないようだった。

「これからは、私がいるからね」

「……ふん。生意気だ」

「あはは」

 気難しい彼女である。

「でも、よかったね、華憐ちゃん」

「ん、何がだ?」

「もし、この状況で月が出ていたら、確実に『月が綺麗ですね』って、私から告白されてたよ」

「それはうんざりするな」

「ふふ、でしょう?」

「ああ。お前をひとり残して帰っていただろうな」

「そんなに!?」

 まさかそこまで嫌だったとは。

 月が出ていないことに心から感謝した私だった。

「でも、このロマンチックな雰囲気に身を任せて『月が綺麗ですね』って、雅な告白もしてみたかったな」

「はあ? あれのどこが雅なんだ。回りくどいにも程があるだろう」

「ええ~。それがいいんじゃん。『死んでもいいわ』っていう返事と合わせてとってもロマンチックだと思うんだけどなあ」

 そう言うと、華憐ちゃんは、はあと溜息を吐いて言う。

「いいか。そもそもその返事は、死ねない私が当て付けに考えた一句だぞ」

「え、そうなの!?」

「ああ。面白半分で噂に流してみたら、予想以上にウケてしまったんだ」

「い、いやいや……。ま、まさかね……」

 冗談でしょう?

 と、口に出しかけて、私は気が付く。

 いや、華憐ちゃんならあり得るのか……!

 そうだ、この少女は、夏目漱石が生きて活躍した時代にも生きていたのだ。今と同じ姿のまま。死を望みながらも死ぬことはできずに、望まぬままに生かされ続けていた。

 そうか、そういうことか。

 つまり、死に強く憧れた少女が、愛の詩を受け取ったその時を人生の最上として死と同等の価値を見出している。

 なんということだ。

 誰もが知っている名歌に、知られざる切実な想いが込められていたとは……。

 これこそが、ロマンチックだった。

 そうか、そうだったのか!

「華憐ちゃん、貴女、天才だよ……。私、華憐ちゃんの為なら死んでもいいわ……!」

「まあ、嘘だけどな」

「心から感動してしまった私に謝れ!」

 くそう。

 出まかせの言葉をつい深読みしてしまった。

 悔しすぎる……。

「まったく。私がそんなセンスの悪い返答を考えるわけがないだろう」

「いや、私にはそんなにセンスの悪い文句には思えないんだけど……」

 愛莉もそうだったが、私の周囲ではどうしてこうも人気がないのだろうか。

 日本人らしくて素敵な一句だと思うのだが……。

「はっ。お前が日本人の何を知っているというんだ」

 む。

「じゃあ、そこまで言うならさ、華憐ちゃんならなんて返事するのさ」

「わかった。じゃあ、お前が漱石の役をやれ。私が漱石を籠絡し、この国を傾けてやろう」

「いや、いつから夏目漱石は征夷大将軍になったんだよ……」

 まあ、いいか。

「じゃあ、いくよ――」

 私は夜空に想像の月を浮かべて、ぽつりと口を衝く。

「月が綺麗ですね」

 それを聞いて、華憐ちゃんは夜空を見上げる。ふたりの見ている方向が全く違うのはこの際無視することとする。

 そして、少女は、ふっと小さく息を漏らし、不遜にこう言った。

「死んでくれてもいいんだぞ」

「なんで私が死ぬのよ! そこは華憐ちゃんが死んでよ!」

「だから、死ねないんだって」

「あ、ごめん……」

「…………」

 ああ、これは失言だった。

 先程、華憐ちゃんが星に願うほど死を望んでいるということを再認識したばかりだというのに、それはあまりに酷い言い草だった。

 ともかく、私の発言のせいで無口になってしまった少女に対して、私がすることはひとつしかなかった。

「ごめん。無神経なこと言っちゃった。反省してる」

「知ってるか? 私は黙ってればモテるんだぞ」

「減らず口だなあ!」

 というか自覚があったんだ……。

 いやまあ、無いよりはいいけれど。

「モテる女の『はひふへほ』」

「もう突然すぎて意味わかんないけど……まあいいか。じゃあ、『は』」

「はえ~。すご~い」

「『ひ』」

「ひょえ~。すご~い」

「『ふ』」

「ふえ~。すご~い」

「モテる女の『す』じゃねえか! バリエーションが皆無だよ!」

 というか、モテる女要素も皆無だった。

「なんだ、まだ途中だぞ」

「いいよ、もう大体わかったよ! どうせ『へえ~』と「ほえ~」だろ!」

「やるじゃないか。ふたつとも正解だ」

「褒められても全く嬉しくねえ!」

「母がよく言っていた。このテクニックで父を落としたとな」

「お義父さん、しっかりして!」

「何がお義父さんだ。私はまだお前のことを――」

 そのときだった。

 がさり。

 がさがさ、がさ。

 と、すぐ近くの茂みから、立て続けにそう聞こえた。

「サラ、灯りをつけろ」

「わ、わかった」

 そうして、レンタルしていた懐中電灯を手に持ち、音のした方を照らすと――そこには小さな黒い毛むくじゃらがいた。

「くぅん」

 それは、小さな子熊だった。

「わあ、可愛い~!」

「サラ、下がれ。来るぞ」

「え、あんなに小さい子熊が?」

「違う。子熊がいたら、その傍には必ず――」

 華憐ちゃんの言葉を遮るように、それは、大きな音を立てながら現れた。

 がさ、がさがさがさがさがさ――。

「ぐわぅっ! ぐわぁああううっ!」

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