八月二十三日
(上)
八月二十三日
期末試験の期間も過ぎ、大学は今週から夏休み期間に入った。
私のような、部活にもサークルにもその他活動団体にも所属していない、如何にも冴えない学生生活を送っている人間は、本来であれば大学に登校することは無用になる期間なのだが、今日だけは特別だった。
まあ、特別な日と言うには大袈裟な、けれどもやはり、それなりに大事な日だ。
何かと言うと、今日はとある授業の試験の代わりに課されていた、課題レポートの提出締切日なのである。
つまり、計画性のない私は、試験期間が終わった土日にやっと当課題に着手し、週明けの今日、締切日ぎりぎりになって提出をしに大学へと出向いている、というわけである。
そんなとある月曜日。天気は今にも崩れそうな曇天だ。
大学に着いた私は、課題の提出以外には用事がないため、真っ直ぐと提出場所へと向かう。そして、指定されていた教室の前に着くと、そこにはひとりの女子学生がいた。
ふわりと揺れる特徴的な髪色。
愛莉だった。
見ると、どうやら提出用の箱への入れ方がわからずに戸惑っているようだった。
今日は誰とも言葉を交わす予定はなかったため、メイクはしていないし、帽子を目深に被ったスタイルで来たのだが、こうなれば予定変更だ。
以前、同じ提出方法でレポートを出したことがあった私は、彼女に近づき、入れ方を教える。
「こうやって、後ろから入れるんだよ」
「え、あ、サラちゃん?」
「これ、わかりづらいよね」
「うん……全然わからなかった……」
ありがとう、と。
彼女は小さく、小さく呟いた。
「どういたしまして……」
「…………」
そうして、
いけない――
この雰囲気はいけない――
と、直観的にそう感じた私は、咄嗟に次の話題を放り込む。
「今日はこれの提出のために来たの?」
「そう……これのためにわざわざ……来た……」
「そっか。お互い、お疲れ様だね」
「うん……」
「…………」
再び、ふたりは無言になり、沈黙が訪れる。
重い重い沈黙。
駄目だ。
どうにも重苦しい会話にしかならない。
それは私の話術の問題ではなく、この場を包む雰囲気の問題だった。
気まずい。
兎に角、気まずかった。
そして、その気まずさから会話が短く途切れてしまい、途切れた後の無言が、さらに雰囲気を気まずくさせているという、まさに泥沼の状態に陥っていた。
もう回復することはない、少なくともいつもの楽しい会話はもうできないであろう空気感がそこにはあった。
どろどろとした、重く沈むような空気感。
正直、もう帰りたかった。
すると、そんな空気感を察してか、愛莉は「じゃあ」と言って、この場を去ろうとする。だが、私は、咄嗟に彼女を呼び止める。
「この後、一緒に帰らない?」
まあ、駅まで送るだけだけど……。
と、ごにょごにょとした口調で私が言うと、彼女は逡巡するような間を開けてから、その口を開いた。
「彼氏ができたの」
「えっ……?」
突飛な返答に思わず聞き返すと、彼女は小さな声で繰り返す。
「彼氏ができたの」
「か、彼氏……?」
愛莉に彼氏――?
今まで頑なに彼氏を作らなかった愛莉が、何故――
「そう、だから――今日はその人と待ち合わせしてるから、一緒に帰れない」
「そ、そっか」
「うん……」
そう言って、彼女は俯く。
突然の告白だった。
そして、その告白に、私は混乱した。
酷く混乱した。
が、兎に角、口を動かす。
「へ、へえ。か、彼氏か……。ええっと……その彼氏ってどんな人?」
「……優しい人」
「そ、そっか。いい人そうだね……」
「…………」
彼女は黙る。
その仕草に、これ以上は喋りたくないという意思を感じたが、私はどうにも沈黙に堪えられず、言葉を紡ぐ。
「でも、彼氏とはびっくりしたな。ほら、愛莉、どんなに告白されても断ってたから、てっきり男の人が苦手なのかと思ってたんだけど……」
「サラちゃんには、関係ない」
「そ、そっか。私には関係ないか。そ、そうだよね。あはは……」
顔が引き攣る。
だが、それでも口が走る。
「待ち合わせってことは、今日はデート?」
「…………」
彼女はまた黙る。
それでも、私は喋る。
「今日はこれから雨降るみたいだけど大丈夫なの?」
「サラちゃんには関係ないでしょう」
「か、関係ないって……さっきからなんでそんなこと言うの。私たち友達でしょう?」
「だから、友達のサラちゃんには関係ないの!」
彼女は叫んだ。
私も叫ぶ。
「関係なくないよ! なんか、わからないけど……わからないけど、無理してるみたいだから、私、心配で――」
「無理なんかしてないっ!」
彼女は繰り返し叫ぶ。
「無理なんか、してない……っ!」
私は、黙った。
まるで、唱えるように、自分に言い聞かせるように放たれた彼女の言葉に、私は黙るしかなかった。
そうして、彼女は言い切るや否や、私の前から走って去っていった。その背中を、追うことも、呼び止めることもできず、私はただ呆然と見送った。
彼女の姿が見えなくなって、ふと、彼女の去った方向から視線を外すと、いつの間にか降りだしていた雨が窓に水滴をつけていた。
「私には関係ない、か……」
去っていく友人も、降りだした雨も止めることのできない私は、せめてこれ以上は酷くならないようにと、そう祈ることしかできなかった。
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