第四章【渇感】

八月四日

(松)

 目の前で女の子が泣いている。

 ひとりでに泣き出したのか、私が原因なのかはいまいちわからない。だが、兎に角、私の視界いっぱいに、ぽろぽろと涙を溢す少女が映っている。

 嫌な光景だ。

 理由はどうあれ、そんな悲しい顔をしないで欲しい。

 だから私は言う。

 お願い。そんな顔しないで。

 と。

 しかし、私のそれは声になっていなかったのか、それとも単に聞こえなかったのか、少女はお構いなしに涙を落とし続ける。

 私を見つめながら。ぽとりぽとりと。

 ああ。

 これは何かの罰なのだろうか。

 だとしたら、最高に趣味の悪い拷問だ。

 例えるなら、電車の中でひたすら他人の赤子の泣き声を聴かされているような、そんな不快感である。

 自分の守るべき――守りたいと思う存在が、助けてほしいと言わんばかりにシグナルを発しているというのに、それを受信した私はどうすることもできない。どうすることもできず、ただただ己の無力感に、愚かさに耐えなければならない。遂には、その近くにいたおじさんが怒鳴り始め、火に油を注ぐような事態になったとしても、何もできない私は黙って耐えなければならない。

 そんな不快感。

 そんな地獄。

 まあ、しかつめらしく別の話に例える必要もないか。

 目の前に泣きじゃくる女の子がいたら誰だって嫌だろう。そうであって欲しい。というか、そうあって然るべきだと思う。

 もし、嫌じゃないと言うやつがいたら――あまつさえ、自ら女の子を泣かせるようなやつがいるのだとしたら、私が何もよりも先に制裁を加えてやりたい。

 泣き喚く赤子に怒鳴り散らすおじさんを、その近くにいた若者が諭すように。

 所詮、根本の問題を解決することはできない脇役のように。

 そう。どんなに格好つけたところで、目の前で泣く少女に対して、私はどうしてあげることもできない。

 結局、私は何もできない。

 唯一できることがあるとすれば、それは祈ることだけ。

 一心に祈ることだけ。

 それは、こんな風に――

「お願いだから、もう泣かないで」




 八月四日

「…………ん、……よ…」

 微弱な音が聞こえる。

 輪郭のぼやけた、曖昧な音。

「……、寝ちゃってるの?」

 その音が意味を持つ音になる。

 ああ、私は眠っていたのか。

 私は微睡む意識のまま、枕にしていた自分の腕から顔を上げる。

「気がついた? あなた、丸三日も眠っていたのよ?」

「…………」

 なにやら、寝起きの頭には重すぎるボケが聞こえてきた。

 というか、どうかボケであって欲しいのだが、本当にそんな展開だったとしても、目を覚ましたばかりの人間に告げる内容としては、やはり重すぎるだろう。切迫した状況なのかもしれないが、丸三日も目を覚まさなかった奴が寝起きの頭で適切な情報処理をできるとは到底思えない。いや、逆に頭の回り切っていない寝起きだからこそ、素直に受け取れることもあるのだろうか。

 まあ、どうでもいいのだけれど。

 とりあえず、先刻の、人を試すようなおふざけをかましてくる人物は、私の知り合いには一人しかいない。

 今更ながら突っ込みを入れるかどうかを悩みながら、突っ伏していた机から視線を上げて、声のした方へと向けると――案の定、そこには亜麻髪の少女が立っていた。

 いや、それは少し違った。

 正確には「元亜麻髪の少女」だろうか。

 何故なら、私の霞んだ視界に映ったのは――ゆるりと曲線を描きながら肩上まで伸びる灰がかった橄欖色の髪を、ふわりと柔らかく揺らす少女だったからだ。

 今風に言えば、オリーブアッシュ。

 オリーブ……。

 え。

「んえぇええええええええーっ!?」

 芹澤愛莉。まさかのイメチェンだった。

「大丈夫、落ち着いて。その間、私たちを取り巻く状況に変化はないわ。まあ、危機的な状況にあるというのは相変わらず、ということになるのだけど……」

「いや、現在進行形であんたのアイデンティティに危機が迫ってるんだよ!」

 そう。語り部として、ここまで『亜麻髪の少女』という別称で彼女を表していただけに、その変化は私に大きな衝撃を与えた。というか、彼女のキャラクター性がピンチだった。

 これはまずい。

 初期設定を大事にするという初期設定が大事にされていない。

 とりあえず、さしあたっての問題は、新しい彼女の別称はどうするか、である。

 今までの表記に則って『灰橄欖髪の少女』か……?

 いや、語感がいまいちだし、字面が強すぎる。それだったら、別称はいらない気がしてきてしまう。

 うーん。

 その点『亜麻髪の少女』は語感もよくてキャッチ―だった。それに、どことなく犬っぽい彼女の雰囲気が『亜麻髪』から『甘噛み』を連想させるため、掛詞のようで密かに気に入っていたのだが……。

 むむむ。

 というか、亜麻色の髪が犬っぽい見た目を演出していたこともあって、オリーブアッシュに変えた今ではあまり犬っぽさも感じられない。

 まあ、似合ってるし、可愛いんだけどさ。

 いや、すげえ可愛いな。

 なんだこいつ。

「えっ、てか、今までずっと変えてなかったのに。え、なに? どういう心境の変化?」

「ああ、えーっとね。インターンに行こうと思ってね」

 ん? インターン?

「一年生の今からインターンに行くなんて偉いね。すごい。でも、インターンに行くのだとしたら普通は黒染めしない?」

 その辺りの規則が緩い会社なのだろうか?

 愛莉は特に答えるわけでなく「えへへ」と、照れ臭そうに頬を緩める。多分、前半の褒め言葉しか聞いていない。都合のいい聴覚である。

「ちなみに、どこの会社のインターンに行くの?」

 私がそう問いかけると、元亜麻髪の少女はその可愛らしい顔に、きっ、と険しさを浮かべて口を開く。

「おい地獄さぐんだで!」

「なるほど。確かにそこなら髪色は関係ないね……って、蟹工船!?」

 なるほどじゃなかった。

「しかも、インターンって! 闇が深すぎるだろ!」

 糞壺と表現されるまさに地獄のような職場に就業体験って。就活に命懸けすぎる。

「絶対行っちゃだめだよそんなところ! 私が許さない!」

 そう、危険なのは決して命だけではないのだ。

 こんなに可愛い女の子が絶海の孤島と化した船内に閉じ込められたら、他の労働者たちに何をされるかわかったもんじゃあない。

「で、でも……。高収入って書いてあったから……」

 私は、もごもごと反論する彼女の肩をがしりと掴んで訴えかける。

「過酷な労働だけじゃあない。あんなことや、こんなことを強いられるかもしれないんだよ!?」

「あ、あんなことや、こんなこと……」

 ごくり、と。

 固唾を飲む愛莉。

「そう――愛莉の等身大フィギュアが全身隅なくぺろぺろされるところを目の前で見せられたりするかもしれないんだよ!」

「変態だ! 芸術的なまでに変態だ!」

 少女は戦慄する。

 よかった。

 どうやら、極限状態に追い詰められた男の危険性を理解して貰えたようである。一件落着。これで彼女の貞操は無事に守られて、めでたしめでたしだ。

 だが――。

 だが、何故だろう。

 愛莉が私の左肩に、ぽこぽこと拳をぶつけてくるのは何故なのだろうか。

 今日は母の日ではないし、そもそも私は愛莉の母ではないのだが。

 そうして、痛いとも気持ちいいとも言えないなんとも歯がゆい肩たたきを堪能していると、スピーカーから授業の開始時刻を告げる鐘が鳴り響いた。それまで気が付かなかったが、教壇の方に目を向けると、授業を担当する教授は既に準備を終えてそこに立っていた。普段はあまり見ることのない白衣姿だ。

 説明が遅れたが、現在、私と愛莉がいるのは大学構内にある、大きな実験室の中だ。小中高の学校にもあるような、授業を行うための実験室。ガス栓や電源の付いた六人掛けテーブルが複数配置されており、西側には教卓と黒板が設置されているオーソドックスなタイプだ。

 この実験室は通常の講義が行われる教室とは違う棟にあるため、普段であれば立ち寄ることもないような場所なのだが、本日の授業が実験実習であることを理由に、学科の同期全員が一限目の早い時間からこの部屋に集められているというわけである。まあ、つまり、授業開始時刻よりも早めに実験室に着いた私は、班員のプリントを用意した後、机に突っ伏して寝てしまっていたのだが、愛莉のセンセーショナルな目覚ましのおかげで、寝惚けた状態で実習に臨まずに済んだ――と。そんな具合だ。

「ほら、席戻らないと」

「うん。じゃあ、また後でね」

 そう言い残して、ぱたぱたと自席へと駆けていく愛莉。その揺れる灰橄欖色の髪に多くの学生が目を引かれていた。良くも悪くも目立つ色合いだ。

 彼女が席についたところで教授はマイクを手に取った。空席がいくつか散見されるが、構わず始めるようだ。そうして、厳かな雰囲気の中「実験室内は走らないように」という注意事項を口火に、本日の授業が開始されたのだった。

 いや、私を睨むなって……。

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