(桜)
「お疲れ様」
実験を終えて、使った器具の洗浄をしていると、背後からそんな声がかけられた。私が振り返ってその姿を確認するよりも先に、声の主は自ら私の隣へとやって来る。どうやら、洗浄を手伝ってくれるようだった。
そんな彼に対して、私も儀礼的に言葉を返しておく。
「お疲れ様」
「うん。少し遅くなっちゃったけど、藤咲さんのおかげで無事に終えられたよ。ありがとう」
と、穏やかな口調で喋りかける彼――
彼は学籍番号が私のひとつ後ろで、今日みたいな実験実習のときには、いつも私とペアを組まされる大変可哀想な人だ。
そんな彼の特徴をひとことで言い表すとすれば、それは『可愛い男の子』だ。
一般に、男子大学生のことを『男の子』と言い表すことが果たして正しいことなのかどうかは判然としないが、彼に関しては『男の子』という表現がこれ以上なく似合う男子大学生なのだ。
ちっこくて可愛い。
なんというか、リトルツインシスターズの妹の方に似てる。そんな可愛さだ。いや、まあ、あれは女の子だけれども。
「いやいや、全然全然。むしろ、足を引っ張っちゃってごめんね。春陽くんがいなかったら終わらなかったよ」
これまた儀礼的な返事――というわけではなく、これは本当のことだった。彼は優しいため、ああも言ってくれたが、実際のところは、私の不器用さが原因で遅くなってしまったのだった。
しかも、それは今日だけの話じゃあない。ペアで行う実習がある度に迷惑をおかけしているわけなのだが、それにも関わらず、彼はいつも私の無能さを甘んじて受け入れてくれる。
お互い様だよ、と。
そう言って。
本当に優しい人だ。
それはもう心配になってしまうほどに。
けれど、そんなことを言って、結局――
「あはは。じゃあ、お互い様だね」
と。私の不手際を明るく笑い飛ばしてくれる彼の優しさに、今回も甘えてしまう私なのであった。
優しい人というのは損な生き物だ。
自分という加害者のことはすっかり棚に上げて、そんなことを思う私だった。
しかし、なんというか――
「最近、明るくなった?」
それが、最近の彼に対する率直な感想だった。
もっと根暗な感じだった、とか。決してそういうわけではなく、元々明るい性格ではあったのだが、以前には時々垣間見えていた何処とない仄暗さがさっぱり感じられなくなったのだ。
「えっ、本当に?」
と、春陽くんは虚を突かれたような表情を浮かべる。
「うん。なんとなくだけどね。何かいいことでもあったの?」
私がそう問いかけると、春陽くんは「あはは」といかにも面映いといったような反応を見せてから小さな声で言葉を紡ぐ。
「多分だけど、恋しちゃったんだよね」
「ふぁ」
予想外の言葉に素っ頓狂な声を出す私だった。
「あはは。しかも笑っちゃうことにさ、もし恋だったらこれが初恋ってことになるんだよね。この歳になって初恋っておかしいよね」
「え、いいじゃん! 大人になってから初恋を経験した方がお得だと思わない? ほら、大事にしたいじゃん。初恋」
おお、たしかに。
と、納得してくれた様子の彼。
「ちなみにさ。相手が誰なのかは聞いてもいいの?」
その問いかけに対して、彼は困ったような表情でしばらく逡巡し、それから「内緒にして欲しいんだけど」と、さらに潜めた声で前置きしてからその口を開いた。
「色々あって、今、心療内科の病院に通っててさ。なんというか、そこの先生のことを考えると温かいような痒いような、よくわからない気持ちになるんだよね。それに通院の日が楽しみで仕方なくてさ」
照れ臭そうにはにかみながら、春陽くんは言う。
「恥ずかしいことに、今まで『恋』というのをしたことがないから、正直、これがなんなのかよくわかんなくてさ……。ああ、ごめんごめん。変な話しちゃって。というかやばいよね。そんな、そこそこ年も離れた先生相手に――しかも同性の人に恋したなんて」
「いや、春陽くん。それはやばいね。まじやばいわ」
「ああ。やっぱりそうだよね……。変だよね。」
「うん、やばすぎる。『精神科医×中性的男子大学生』とかなに? なんですか、そのシチュ。最高かよ」
「あっ、肯定されてたんだ」
「任せて。私、BLも守備範囲だから」
そう言って、私はクールに微笑んでサムズアップをしてみせる。対して、春陽くんは引き攣った笑顔を浮かべている。
「さっき『初恋なんて笑っちゃうよね』みたいなこと言ってたけど、私は絶対笑わないよ。まあ、というのも――実はさ、私も最近になってようやく初恋を経験したんだよね。しかも、相手は女の子だよ」
私たち少し似てるかもね、と。私は言う。
対して、へえ、と。驚きの表情を浮かべる春陽くん。
「そのお相手って、もしかして芹澤さん?」
「えっ? いや、違う違う。愛莉とは仲が良いだけだよ。高校からの友達。どうしてそう思ったの?」
「いや、仲良くしてるのをよく見かけるからさ」
「ああ、なるほどね。まあ、愛莉とは仲が良いと言うか、懐かれていると言った方が正しいかもだけどね」
「あはは。たしかに、仲良くしてるというよりかは、芹澤さんが藤咲さんに戯れ付いている感じはあるね」
そう言って、彼は、くすくすと小さく笑う。
冗談で言ったつもりだったのだが、殊の外、的を得た表現だったようだ。やっぱり、誰から見ても犬っぽい彼女なのかもしれない。
そうして、しばらく笑っていた彼だったが、不意に「そういえば」と、再び声を潜めて言う。
「僕、芹澤さんに嫌われてるかもしれないんだけど……何か聞いてる?」
「えっ、愛莉が? そんな話は聞いたことないけど……なんで?」
「うーん、気のせいかもしれないんだけど……。実習のとき、よく睨まれるからさ」
「睨まれる?」
思わず聞き返した私に対して、うん、と。小さく頷く春陽くん。
「何か嫌われるようなことでもしたの?」
「いや、何も。というか、話しかけたことすらないよ」
「そっか。まあ、春陽くんが他人に意地悪するとは思えないけれど。でも……愛莉だって理由もなく睨むとは思えないんだよね……」
「そうだよね……」
「何か思い当たることはない?」
「あー。まあ……ないと言えばないのだけど。うーん……。全くないわけでもない……かも?」
どうにも判然としない回答だった。
まあ、それもそうか。こういうのは結局、された側がどう受けとったのかが問題で、良かれと思って取った行動が実は原因だった、なんてことも往々にしてあるのが現実だ。だから、春陽くんの視点からだけでは、はっきりとした判断ができないのは当然だった。
だが、彼が言うには、そもそも話しかけたことすらもないような間柄であるらしい。そんな関係性で、どうしたらすれ違いが起きると言うのだろうか。彼女も、案外、人見知りなところがあるとは言え、ほとんど関わりもない人を、わざわざ離れた席から睨むほど人間を嫌ってはいないだろう。
「…………」
私は首だけ肩越しに振り返り、自席で暇そうに欠伸を零す愛莉を見遣る。すると、私の視線に気付いたらしい彼女は、その愛らしい顔に満面の笑みをたたえて、ぶんぶんと手を振ってくれる。
あざとい。あざと可愛い。
「うん。やっぱり、気のせいなんじゃない? だって、ほら、見てよ。愛莉、めっちゃ笑顔だよ」
「うわっ、本当だ」
「うわっ、て……」
「うーん。そっかあ……。やっぱり、気のせいなのかなあ……」
「じゃあさ、今日の帰りにでもそれとなく訊いてみるよ。春陽くんのことどう思ってるのか」
「うん。よろしく頼もうかな。あ、でも、悪い結果だったら教えないで……」
「あはは、大丈夫だって。心配しすぎ」
そうかなあ、と。
春陽くんが呟いた、そのときだった。
「サラちゃん、まだー?」
痺れを切らしたのか、いつの間にやら、すぐそこまで近づいていた愛莉が声をかけてきた。
「ふぇあっ!?」
びっくりした私は、思わず変な声を上げてしまう。
その様子に愛莉は「ふぇあ?」と、首を傾げる。
「あ、ご、ごめんね。もう終わったよ」
いつからいたのだろうか。
背を向けていたとはいえ、彼女の接近に全く気が付かなかった。
もしかして、今の話を聞かれていただろうか?
隣に視線を向けると、春陽くんが最後の洗い物であるビーカーを手からシンクに落としていた。どうやら、彼も彼女の接近に気づけていなかったようだった。
「だ、大丈夫?」
「な、ななななな何が? ぼっ、ぼぼ、僕は全然大丈夫なんだな」
「いや、あの、ビーカーの話……」
「え、あ、あー。うん……。大丈夫。割れてない……」
動揺を隠すのが下手くそな彼だった。
愛莉はそんな彼のぎこちない言動をくつくつと笑ってから、猫撫で声で私に絡んでくる。
「ねえ、終わったならもう帰ろうよー」
「わかったわかった。これ戻してくるから少しだけ待ってて」
「はあ、しょうがないな~」
そうして、愛莉に催促されるがまま洗った器具を指定の場所に戻し、机の上に広がっている荷物をまとめてトートバッグに詰める。机の向かいでは、春陽くんが同じように帰りの支度をしている。
「じゃあ、春陽くん、今日はありがとうね。お疲れ様」
「うん、お疲れ様」
そして最後に、彼にだけ聴こえるように小さな声で私は言った。
「お互い頑張ろうね」
彼は小さく頷く。
そして、そんなふたりの様子を、愛莉は首を傾げて見ていた。
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