八月二十八日
(椋)
八月二十八日
現在の時刻は十五時四十七分。
朝の爽やかな天気からは一転。昼過ぎから降り出した雨が、ベランダで騒々しく音を立てている。
いやに暗い空。
部屋に立ち込める、何とも言えない閉塞感に嫌気が差し、嘆息を漏らしたそんなときだった。
スマホに一件の通知。
見ると、コミュニケーションアプリ
送り主は、愛莉。
その内容は――『助けて』の一言だった。
私はすぐさま『今、どこ』と返信を送る。すると、間もなく位置情報が送られてきた。
立ち上がり、急いで身支度を整えながら、私は言う。
「華憐ちゃん、私ちょっと出かけてくる」
「雨が降っているが、どこに行くんだ?」
「ちょっとした友達付き合い」
そう言うと、彼女は少し考えるような間を開けて、しかし、さほど興味もなさそうに言う。
「そうか。遅くなるなよ」
「うん」
短く返事をして、私は玄関を飛び出した。
位置情報を頼りに辿り着いたのは、とあるホテル。位置情報と一緒に送られてきた部屋番号をフロントのパネルで確認し、急いで部屋へと向かう。
エレベーターでいくつかフロアを上がり、部屋の前に着いた私は、考えもなしにドアハンドルを回す。すると、鍵はかかっておらず、そのままドアが開いた。
そうして、目の前に広がる、煌びやかな装飾の施された高級感のある内装に若干気圧されながらも奥へと進んでいくと、ベッドにひとり腰掛ける愛莉がいた。
「愛莉…………」
声をかけると彼女は顔をゆっくりと上げて、ふっと笑う。
「振られちゃった」
「振られたって……またどうして」
そう問いかけると、彼女は視線を落として、伏し目がちに言う。
「彼に上に乗られたとき、すごく怖くなっちゃって。涙が止まらなかったの」
見ると、彼女の瞳はほんのりと赤みを帯び、目元のメイクは少し滲んでいた。どうやら、彼女の言う通り、本当に酷く泣いたようだった。
「雨の音も怖くて、怖くて……それでずっと泣いてたら、彼が怒っちゃって」
笑えるよね。
と、彼女はまた笑う。
私は、笑えなかった。
本当に笑えなかった。
今にも崩れてしまいそうな彼女の笑顔を見て、笑うことなんてできるはずがなかった。
だから、私は素直に言った。
「笑えないよ…………」
すると彼女は、それでも笑みを絶やすことなく、自嘲するように笑う。
「でも、笑うしかないよ。付き合って一週間ぐらいで振られちゃったんだから。まあ、まともに相手もできなかったら、それも当たり前だよね。いけないのは、私だよね?」
「…………」
「未だにあの日のことを引きずって、雨が怖いだなんて、男の人が怖いだなんて、そんなの可笑しいよね? だって、もう三年も経つんだよ? いつまで引きずってんだって、そうは思わない?」
「…………」
彼女の問いかけに対して、私は何も答えることができずに黙ってしまう。
愛莉はいけなくないし可笑しくもない、と。
そう答える強さは私にはなかった。
彼女の言葉を否定してまで彼女を肯定する強さは、私にはなかったのだ。
結局、私は、彼女に対して何もしてあげられないのだろうか。
あの日と変わらず、ただ優しい振りするだけの人間なのだろうか――。
「ねえ、サラちゃん。慰めて?」
彼女は再び私に問いかける。
私は考える。
私に何ができるのか。
助けを求める彼女に対して、何ができるのか。何が最善なのか。
考えて、考えて、考えて。
私は答えた。
「…………わかった」
私は持っていた手荷物を広いベッドの中央に放り、彼女の隣に腰をかける。
「自分で脱いだ方がいい?」
そう問いかけてきた彼女に対して、私は毅然とした態度で答える。
「いや、脱がないでいい」
「そっか。じゃあ、はい」
そう言って、愛莉は両手を上げる。
「えっ、なに? なにそれ?」
「えっ、脱がしてくれるんじゃあないの?」
「だから、服は着たままでいいんだよ!」
「なーんだ。着たまましたいなら初めからそう言ってよ」
「違う! そういう事じゃあない!」
「はあ!? じゃあどういうことなのよ!」
「はあ……もう……。こういうこと」
私は愛莉の頭を引き寄せて自分の膝にのせた。
「えっ……?」
きょとんとした表情の彼女をそのままに、私は優しく彼女の頭を撫でる。
優しく、優しく。
撫で続ける。
何も言わず、撫で続けた。
騒々しい雨音はどこか遠くに感じられ、彼女の浅い息遣いだけが聴こえる。
その浅い呼吸音も、次第に聞こえなくなり、部屋は静寂に包まれる。
そうして見てみれば、こわばっていた彼女の表情は綻び、いつもの愛くるしい――いや、意地の悪い笑顔を浮かべていた。
「あ~あ。困っちゃうなあ」
「なにがよ」
「あそこまで言わせて手を出さないなんてさ。サラちゃんのチキン」
「そういう関係じゃあないでしょう」
「決めた。今度からサラちゃんのこと『骨なしチキン』って呼ぶ」
「悪口として使うな!」
「そんなに魅力がないの?」
見ると、彼女は、唇をむうと突き出して、如何にも不貞腐れているというような表情を浮かべていた。
「いや、そんなことはないけどさあ」
「えっ、なのに手を出さないの? なんなの? 『骨なしチキン』じゃなくて『種無しブドウ』だったの?」
「意味のわからない差別用語を創り出すな」
「いや、×××――だ。私に手を出さないなんて、サラちゃんは×××――に決まっている」
「勝手に私の価値を貶めるな。お前はイソップ童話の狐か」
というか女の子が×××――とか言わないの。
「もう決めた。サラちゃんのことは××――××と呼ぶことにする。ねえ、××――××」
「わかったわかった! もう種無しブドウでいいから、これ以上私を酸っぱくしないで!」
とりあえず私が謝って、仕切り直し。
「ねえ、サラちゃん」
「ん?」
愛莉は私の太ももに頬を押し付けたまま言う。
「私、サラちゃんのことが好きなんだ」
「私と付き合って欲しい」
愛莉はそう言った。
確かに、真っ直ぐにそう言った。
だから、私は答える。
「ごめん。私、好きな人がいるんだ」
「うん。知ってるよ」
知ってたよ。
と、彼女は言う。
言って、顔を私の太ももに埋めるように押し当てる。
「う、うう……ううううう…………」
そして、静かに泣き出した彼女の頭を、私はまた優しく撫でる。
何も言わず、いや――何も言えずに、優しく撫で続ける。
「ぐすっ……なんで、なんで私じゃ、だめなの?」
切れ切れの言葉で紡がれた真っ直ぐな問い。
対して私は、やっぱり、真っ直ぐと答える強さは持ち合わせていなかった。
「私、愛莉の為なら死んでもいいって、そう思えるよ」
「サラちゃん……センスないよ。超センスない」
「あはは、容赦ないなあ。でも、そうなの。私、センスないんだ」
そう言って、戯けてみせると、愛莉はあくまで真面目な口調で、はっきりと言う。
「そういうところが好きなの」
「…………そっか」
本当に真っ直ぐだ。
真っ直ぐで、歪みがない。
「ありがとう」
「あと、おっぱいが大きいところ」
「やっぱり歪みまくりだよ、お前」
私は頭を撫でる手を止め、指先を頭にぐりぐりと抉るように押し付ける。
「痛、いたたたたた、痛い」
と、苦鳴を漏らしながらも、どこか嬉しそうな愛莉。
「…………」
いや、価値観は人それぞれだ。胸の大きさを恋人に求める人がいてもおかしくはないし、それを頭ごなしに非難することは良くないことだとも思う。だが、言わせてもらえるのであれば、間違いなく、この場面でいちばん聞きたくない言葉だった。
本当に。
私は、はあと溜息を漏らし、手の動きを止める。
「実は、私さ、あの日のこと後悔してるんだ」
「あの日?」
「初めて愛莉と喋った、あの日」
ふたりの関係が始まるきっかけとなった、あの日。
「ほら、泣いている愛莉に私が声をかけたでしょう? 渡り廊下の端っこでさ」
「ああ…………」
「あのとき、どうしても放っておけなくてさ、思わず声をかけちゃったんだけど……でも、あのときに声をかけるのは私じゃなくて他の人が良かったんじゃないかって、思うんだ。そうすれば、もっと愛莉は救われたかもしれないし、私なんかじゃなくて、もっといい人と仲良くなって、そして、その人を好きになって……。その方が良かったんじゃないかって、思うんだよ」
私は、視線を上げて、彼女の顔は見ずに言う。
「誰でも良かったはずなんだ。そう、誰でも良かった。たまたま私が最初に声をかけただけでさ、本当にたまたま私は良い人になっただけなんだよ」
「…………」
「愛莉と仲良くなれたのは本当に良かったよ。今もそう思う。私は、愛莉と仲良くなれて幸せだよ。でも、愛莉はもっと幸せになれたんじゃないかって、そう思うんだ」
これが私の後悔。
彼女に感じていた負い目だ。
言い切ってから、つくづく自分はずるい人間だと思い知る。
言ったってしょうがない結果論の話。それを勝手に吐き出して、勝手に気持ちよくなっているだけだった。
本当に嫌気が差すなあ。
すると、彼女は「あ~あ。困っちゃうなあ」と、いつもの明るい口調で言う。
「本当に、サラちゃんは卑屈で困っちゃうなあ」
「あはは……ごめん……」
「でも、そんなところも好きだよ」
「そんなサラちゃんのことが、私は好き」
愛莉は言う。
「確かに、誰でも良かったのかもしれない。誰でも良くて、他の誰だったとしても私は救われて、その人と仲良くなったかもしれない。でも、それでも、それがサラちゃんで良かったって……他の誰でもなくサラちゃんで良かったって、私は心の底から思うよ」
「そっか…………」
「うん。それに、そのおかげで、こうして合法的にサラちゃんの太ももに顔をこすりつけられているわけだし」
と、愛莉は笑う。
明るく、笑う。
「本当に、上げて下げるのが上手だね、愛莉は……」
そう言って、私も笑う。
助けて欲しいと言われて来たのに、結局、彼女に助けられている私だった。
やっぱり、今回も、救われているのは私なのかもしれない。
だが、それでいいのだろう。それが、私と愛莉の関係なのだろう。
たまたま興味のある分野が同じで、たまたま同じぐらいの学力で、たまたま同じ大学を志望した――愛してやまない、私の大切な友人。
お互い、その存在に救い救われて、たまに「困っちゃうなあ」と、文句を言い合う関係。
それで、いいのだろう。
私は顔を上げて、正面を見る。
窓から見える景色は、雨上がりの澄んだ夕空。
「帰ろうか」
愛莉は起き上がりながら「うん」と小さく返事をする。
「あ、でも、ちょっと待って」
「うん?」
「サラちゃん、少しの間、目瞑ってて」
「え、なんで?」
「いいから、早く」
有無を言わせない強い口調で、そう言われて、私は不承不承「わかったよ」と返事をし、素直に目を瞑る。
数瞬の間。
そして、私の唇に、何か柔らかいものが触れた。
ちゅっ。
「え…………?」
「えへへ……。ほら、サラちゃん帰るよ! 準備して!」
そう言って、彼女は手早く荷物をまとめて、玄関へと向かう。
そうして、ベッドにひとり残された私は、呆けた顔で小さく呟くのだった。
「困ったのは私だよ……」
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