(桐)

 不意に聞こえてきた私を呼ぶ蒼い声に、思わず胸が跳ねる。

 その声に、こうもはっきりと自分の名前を呼ばれるのは果たして何回目のことだろう。もしかしたらこれが初めてのことなのではないだろうか。

 そんなことを考えながら、兎に角、その声のした方へと振り返ると、そこにはいつかと同じ格好をした――タイトなデニムパンツにTシャツというシンプルな服装の――彼女の姿があった。

「華憐ちゃん!」

 私は彼女の元へと駆け寄り、事情を説明する。

「言ってなかったっけ? 私、すぐそこの大学に通っているんだよ」

「ああ、そうだったのか」

「華憐ちゃんは? お買い物?」

「まあ、少し違うが、そんなところだ」

「なるほどね。いやぁ、まさか、こうして外で会えるなんて、軽率に運命感じちゃうね!」

「いや、別に」

「もう、つれないな〜」

 言いながら、指先で彼女の頭を突こうとするが、ふいと素っ気なく躱される。

 本当につれない。

 まあ、そんなところも可愛いんだけどさ。

「しかしまあ、丁度いいところに会えたというのは本当だ。サラ、この後は暇か?」

「あー、ううん。これからランチに行こうとしてたところ。どうしたの?」

「いや、少し手伝って欲しいことがあったんだが……まあ、元々私ひとりでしようとしていたことだ。問題はない」

「そっかあ。ごめんね~……」

「気にするな」

 折角の好きな人からの申し出だ。断るのは大変心苦しいが、こればっかりはしょうがなかった。先にお誘いを頂いた愛莉も、私の大切な友人だ。選べないからこその早いもの勝ち、というか順番が大事なのである。

「ちなみにだが――」

 と、華憐ちゃんは私に問う。

「そのランチというのは、そこのそれと行くのか?」

 爽やかなまでに無表情で。何の感情も感じさせない平坦な口調で繰り出された疑問符。

 そこのそれ、と。

 そう言いながら、彼女の右手の人差し指は、私の後方を示していた。

「あ、まだ紹介してなかったね。こちらは――」

 そう言って、彼女の指し示す方角にいるであろう自慢の友人の方へと振り返ると、そこには、見たことのない形相で睨みを効かせている元亜麻髪の少女がいた。

「おい、誰だお前」

 地を這うような低く冷たい声に、私は思わずぎょっとする。

 いや、この際「誰だお前」は私の台詞だったし、言ってやりたいところだったが、兎も角、愛莉は、まるで犬が威嚇するように低い唸り声を漏らしながら、華憐ちゃんのことを憤怒の形相で睨んでいた。

 対する華憐ちゃんは、それを受けて――「はっ。」と凄惨に笑い飛ばし、相対する彼女ではなく私に対して言う。

「おい、サラ。まったく、お前ときたら。ついこの間私に愛を誓っておきながら、もうこんな犬に現を抜かしているとはな。ふふ、やれやれだ」

 薄ら笑いを浮かべながらのその言葉に、場の雰囲気が凍り付いた。

 いや――空気が、死んだ――。

「え、あ、えっと……い、犬って……やだな、あはは……」

 そんな息も苦しいような空気感の中、愛莉は甘ったるい声で言う。

「あ~あ。困っちゃうなあ」

 そして、華憐ちゃんから私の方へ、ゆっくりと視線を移す。

「ねえ、サラちゃん、どういうこと? この人は何を言っているの?」

 私にもわかるように教えてくれないかな。

 そう言って愛莉は、先程とは一転、その愛らしい顔を柔和に歪ませて、私を見つめる。

「…………!」

 何も悪いことはしていないのに、していないはずなのに――その、私を舐めるような彼女の視線に、蛇に睨まれた蛙の如く、身が竦んでしまう。毎度お馴染みの『困ったのは私だよ』という返しすらできないほどに。

 そうして気が付けば、私は今、薄ら笑いを浮かべた少女と、柔和な笑みを浮かべた少女に双方から見つめられるという状況に陥っていた。

 そう。つまり、幸せな場面だ。

 笑顔をたたえる可愛い女の子ふたりに見つめられるなんて、幸せ以外の何物でもないだろう。

 そのはずだ。

 そのはずなのだが――まったくどうしてか、全身から嫌な汗が止まらない。

 これは、そう。あれだ。

 愛莉の芸風で説明すると――「知ってるぜ。日本じゃこういうのを『修羅場』って言うんだろう?」と、コミカルに肩を竦める場面だった。

 というか、できることならそんな風に、コミカルかつ爽やかに、そして無責任に場面転換をしてしまいたいほど、険悪なムードに包まれていた。

 いや、私に何の責任があるのか知らないけれど。

 何もわからないけれど。

 兎に角、逃げたい気分だった。

 本当に何故だ。

 何故こんなことになってしまったんだ。

「ああ、なるほど」

 華憐ちゃんは、相変わらず、薄氷のように綺麗な笑みを張り付けたままに呟く。

「サラ。お前は、なかなかどうして隅に置けない奴だな」

 そして――

「まあ、悪い気分ではない」

 と。

 そう言って、その不敵な視線を愛莉に送る。

 すると、愛莉は――

「さっきからにやにやしやがりまして、何を仰っているのか全くわからないのですが、とりあえず、名乗りやがってくださいませんか、お前」

 と、刺々しさを言葉に織り交ぜつつ敵意を剥き出しにするが、それに対しても華憐ちゃんは動ずることなく綽々と応じる。

「名乗る義理はない。が、そうだな。サラの伴侶とだけ言っておこうか」

 その言葉に、怪訝な反応を示す愛莉。

「伴侶……?」

「ああ」

 こいつから一生を共にして欲しいと言われてな。

 と、余裕な態度で淡々と語る華憐ちゃん。

 対して、愛莉は「へえ……」と呟き、穏やかに微笑む。

「それは偶然ですね。実は、私もサラちゃんから『一生を懸けて幸せにする』って言われてるんです」

「はあ……?」

 華憐ちゃんは眉根を寄せて私を一瞥する。

「…………っ!」

 その鋭い視線を受けて、私は、額に浮かぶ汗を拭いつつ記憶を遡ってみるが、心当たりがありすぎて逆に見つからない。

 いつだ。いつの話なんだ。

 いや、違う。

 この際、それがいつだったかなんて、そんなことは問題ではないのだ。

 考えるべくは、愛莉が何故、冗談であるとお互いが認識しているはずの言葉を引き合いに出してまで初対面の華憐ちゃんと張り合っているのかだ。いくら人見知りとは言え、これはもう人見知りの範疇を超えているし、私に対する嫌がらせだとしてもやりすぎだ。

 わからない。

 愛莉の意図がわからない――。

 そうして、私が思索に耽っている間にも、愛莉は、挑発するような語調で華憐ちゃんに吹っ掛ける。

「というか、伴侶とか言っちゃうくせに、サラちゃんの通っている大学も知らないんだ。もしかして、サラちゃんのこと全然知らないんじゃないですか~?」

「ふっ。確かにそうだな。私はサラのことを殆ど知らない。だが、これから知っていけばいいだけのことだ」

 私には全てを知るだけの時間がある、と。

 華憐ちゃんは言う。

「して。そういうお前は、どれほどサラのことを知っていると言うんだ。随分な物知り顔をしてくれるが」

「少なくとも貴女よりは知ってる。よく知ってる。サラちゃん自身も知らないことだって私は知ってるもん」

「私も知らないこと?」

 思いがけない言葉に、私はつい口を挟んでしまう。

「というと……?」

 その、私の純粋な問いかけに対して愛莉は、逡巡するような間を開けてから、どこか気恥ずかしそうにもじもじと言葉を紡いだ。

「ぜ、全身の、ほくろの位置とか……」

「――――――」

 私は絶句した。

「おい、サラ。携帯電話を寄越せ。私にはストーカーを警察に通報する義務がある」

「いや、でも、安心して! ほくろのひとつひとつに星の名前を付けて、星座を結んでみたりしてるだけだから!」

「安心できねえよ! よりストーカーの感が増したよ!」

 身の毛もよだつ思いとは正にこのことだった。真夏の真昼間だと言うのに寒気が止まらない。

 そうして、私の背筋を襲うなんとも表現し難い嫌悪感に震えていると、呆れた風の華憐ちゃんは、盛大に溜息を吐いて、彼女に言う。

「まったく、悲しい奴だな。そうやってお前が陰湿な遊びに興じている間に、私はこいつと一晩を共にさせてもらったぞ。私の布団でふたり仲良くな」

 いや、それ、私が気を失ってるときの話だよな……。

 ふたり仲良くって……。

 ん……?

 ふたり仲良く……?

「え、待って、あのとき一緒に寝てくれて――」

「はぁあ~? そのくらい私だってありますけど~?」

 愛莉は、華憐ちゃんを睨みながらに言う。

「私だってサラちゃんと一緒の布団で夜を共にしましたけど~? 一晩どころか二晩も共にしましたけど~?」

 これは本当だ。

 まあ、一緒に寝たと言うより、修学旅行で泊まった宿にて、私の布団に彼女が勝手に入ってきたと言う方が正しいけれど。それも、私の記憶が正しければ、彼女の寝相の悪さに起因するぷちハプニングという話だったはずなのだが……。

「それに、添い寝だけじゃないもん。サラちゃんのアプォロチョコを食べさせてもらったことだってあるもんね!」

「いや、言い方……」

 不適切極まりない文章表現だった。

 ただ単に、私がアプォロチョコを食べさせてあげたというそれだけのエピソードなのに、格助詞である「の」のせいで、意味深な表現になっていた。それであらぬ誤解を招いたらどうするつもりなのだろうか。

 そうして、華憐ちゃんの方を見遣ると――案の定、彼女は私に対して酷く怜悧な視線を向けていた。

 なんでだよ。

 なんで怒ってんだよ。

 しかし、それでも、余裕な態度を崩したくないらしい華憐ちゃんは「はっ。」と凄惨に笑い、唇の端を引き攣らせながらも凛然とした口調で返す。

「お前はその程度で満足しているのか? 私はもうアプォロチョコだけじゃなく、栗も食べさせてもらったぞ」

「いや、言い方……」

 最早、卑猥だった。

 というか、モンブランの栗を食べさせてもらっただけなのに、しかも、私のモンブランから勝手に奪い取ったりしてるくせに、どうしてそこまで不遜な態度が取れるのだろうか。

 そうして、愛莉の方を見遣ると――彼女は驚愕に唇を震わせながら私のことを見ていた。

「そ、そんな……」

 なんでだよ。

 なんでダメージを受けてんだよ。

 出会い頭に突然始まり、新手の拷問の如く私の目の前で繰り広げられる、ちんちくりん同士の小競り合い。争っている理由も、そもそも何を争っているのかもわからないが、どうやら、形勢は傾きつつあるようだった。

「おや?」

 華憐ちゃんは、愛莉が肩から提げている鞄を指さして言う。

「そのキーホルダーはもしかして、ビーメロか?」

「そうだけど、なに?」

 と、泣きそうな表情で忌々しそうに応える愛莉。対して、華憐ちゃんは悪鬼の如く唇の端を吊り上げて笑う。

「そうかそうか。ふふふっ」

「な、なにが可笑しいのよ!」

「すまんすまん。この上なくお似合いなもんだから、つい笑ってしまった。許してくれ」

 冷ややかに笑んで、華憐ちゃんは言った。

「なあ、二番目の女」

「ぐぁああっ!」

「え、なに? 今、何が起きたの?」

 唐突に、愛莉が呻き声を発しながら膝を突いたため、思わず華憐ちゃんが言霊使いの能力者なのかと勘違いしかけたが、どうやらそういうわけではないようで、愛莉自ら説明してくれる。

「……ビーメロさんは、ヨンリオのキャラクター総選挙の結果が五年連続二位で、それで公式からも『二番目の女』と呼ばれているの。くっ……!」

「へ、へえ……」

 親であるところ公式からも揶揄されているとは、それはたしかに不憫な扱いを受けているビーメロさんだった。

 つまり、華憐ちゃんは、ビーメロさんを貶す――それも公式公認の悪態をつくことで、ファンである愛莉にまでダメージを与えていたのか。

 うーん。

 なるほど?

「え、じゃあ、あの蛙は何位な――」

「おい、やめろ!」

 頭に擡げた疑問をそのまま言いかけて、華憐ちゃんに遮られた。だが、愛莉は聞き逃さなかったようで、私の発した「蛙」という言葉にすかさず反応する。

「え〜? なになに〜? 蛙?」

 それまで萎々と項垂れていた愛莉が、まるで水を得た魚のように、意地の悪い笑顔を浮かべて華憐ちゃんに迫る。

「ああ、もしかして――って、あれぇ? なんだっけ~? あのグロテスクな蛙の名前。清々しい春に、冬眠明けとは思えないまるで汚物のような見た目で姿を現すあの蛙の名前はなんだっけ~?」

「ぐっ……!」

「えっとぉ。『げろげろげろっぴ』じゃなくて~。『げりげりげりっぴ』じゃなくて~」

「私の推しをまるで吐しゃ物かのように言うな! 『ぐろぐろぐろっぴ』だ!」

 と、華憐ちゃんは声を荒げる。

 それは意外な反応だった。

 今まで感情の変化をあまり表に出してこなかった彼女が、まさか推しのためにここまで感情的になるとは。

 対して、愛莉は――

「ああ、そうだそうだ。『ぐろぐろぐろっぴ』か〜! ごめんごめん。うっかりど忘れしちゃった」

 鼻先で笑いを零して、言った。

「ランク外のキャラクターは覚えられなくてさ」

「うわぁああっ!」

 愛莉の言葉に、華憐ちゃんは、悲痛な叫びを上げながら、膝から崩れ落ち、耳を塞ぐ。

「…………」

 流石にキャラが変わりすぎていた。

「初期の頃からいるヨンリオの古参キャラクターなのに、なんでこんなにも人気がないんだ……! あんなに、あんなに可愛いのに……っ!」

「あ、ごっめ〜ん。つい、ストレートに言っちゃった〜」

 ほら。私ってば、さばさばしてるからさ。

 と、愛莉は反省の色など何処にも伺わせない、感情を逆撫でするような甘い声でそう言い放つのだった。

 私から見た限り、彼女はさばさば系女子から最も遠い存在であるような気もするが、ともあれ、私の目の前には――にんまりと勝ち誇った顔をするちんちくりんと、悔しそうに唇を噛むちんちくりん。

 どうやら、勝負はついたらしい。

「ほら、元気だして? たしかに人気はないかもしれないけど『ぐろぐろぐろっぴ』私は好きだよ?」

 私は、力なくがっくりと肩を落としている華憐ちゃんに声をかける。顔を覗き込むと、どうやら、愛莉に推しキャラを貶されたことが相当効いたようで、むうと唇を突き出しながら、必死に涙を堪えていた。

「ぐすっ……」

 まさか、友人を紹介することがこんな結果を招くとは夢にも思わなかった。いや、誰がこの結果を予想できただろうか。

 本当に。

 正直なところ、ふたりの間でいったい何が行われていたのか未だによくわかっていない。が、今まで私には見せてくれなかった、意外にも表情豊かな華憐ちゃんをこの目に収めることができたのは、なんとも嬉しい誤算だった。

 十五歳の少女らしい、瑞々しい表情だ。

 そうして、淡く涙目の少女を慰めつつ、立たせてあげていると、それを見ていた愛莉が不意に呟く。

「……私、帰る」

「え、ご飯行くんじゃないの?」

「あー、うん……。ごめん。用事思い出した」

「用事?」

 私が聞き返すと、彼女は平坦な口調で「そう、用事」と繰り返す。

「録画したビーメロさんのアニメが溜まってるから、それを観なきゃいけないんだった」

「そ、そっか……」

 それは、ランチを食べてからではいけないのだろうか。それほどに、時間が惜しいのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎったが――「ごめん」と、嫌に恐縮した態度の彼女を前に、それを口にすることはなんとなく躊躇われた。

「というか、ビーメロさんのアニメがあったんだね。知らなかった。日曜の朝とかに放送してるの?」

「いや、平日の深夜」

「深夜!?」

 まさかの深夜アニメ!?

 ビーメロさん。いったいどんなアニメなんだ……。

 より一層、ヨンリオの世界観がわからなくなったぞ。

「兎に角、早く帰って観ないとだから。じゃあ、また明日、学校でね」

 そう言って、愛莉は、そそくさと駅の方へと歩き出してしまう。

「え、あ……じゃ、じゃあね」

 あまりの唐突さに戸惑ってしまった私は、ぎこちなく挨拶を返す。

 すると、少し行ったところで彼女はこちらへ振り返り、こう叫んだ。

「このロリコン野郎っ!」

「――――――っ!?」

 そうして、言い切るや否や脱兎の如く走り去っていく愛莉。

 唖然としてしまった私は、声を出すこともできず、駆けていく彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 彼女が残していったとんでもない言葉がどういう意味なのか、そもそも私に向けられたものなのかわからず、救いを求めて華憐ちゃんの顔を見てみるが、少女は「ふんっ」と私の視線を切り、駅とは反対の方角へ歩き始めてしまうのだった。

 どうしてこんなことに……。

 ひとり取り残された私は、ぽつりと呟いた。

「困ったのは私だよ……」

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