三年前   葵 中学二年生になる直前

 その日、葵は春休みの真っ只中にも関わらず、学校に出てきていた。

 この日に限っての話ではない。美術部の新入生歓迎イベントで披露する超巨大油絵を始業式の日までに完成させるために、葵たちはほぼ毎日登校していた。

 それは毎年の恒例となっているイベントとなっていて、―現に葵は昨年見た作品に感動し、美術部に入ったのだった―それなら三学期の間に描きあげてしまえば良いと思うのだが、大量に使うペインティングオイルのにおいがきつすぎると数年前に苦情が入ったらしい。

 そのため授業が行われている間は描き始めることができず、それまでの間にデザインや役割分担を完璧に決めておいて、春休みに入ってから、一気に描き上げる。

 こんなことをする羽目になるんだったら、美術部になんて入るんじゃなかった…… 次に三年生になる先輩が座る脚立を支えながら、葵はふとそんな思いにかられた。

「ちょっと!」

 先輩が描いている絵を見上げることもなく、ただただ退屈すぎる時間を持て余してぼうっとしていると、頭上からわずかに苛立ちがこもった声がした。

 慌てて顔を上げると、ショッキングピンクの絵の具がべったりついた筆の先が、葵の鼻先に突き付けられていた。何を描いていたんだろう……

「これ、他の色に使うから急いで洗って」

 葵の目の前で筆がふるふる降られる。たんまりと絵の具がついていたので、顔にとんできそうだった。実際、とんできていたかもしれない。

「はい! はい、すみません」

 筆を受け取った葵は足元に置いていたクリーナー液が入っている筆洗器につっこみ、ガシュガシュと丸い穴がいくつも開いている底に押し付ける。

「こら! 絵の具は先に拭き取りなさい。あと筆はもっと丁寧に扱う! 何回言ったら分かるの!」

 馴染みがあるわけがなかった。うちの美術部は厳しく、一年生の間はひたすら木炭でデッサンの練習をさせられていた。活動は毎日あるわりに、画材に触れる機会は限られていたのだ。

「ねえ。お腹減ったから何か買ってきてよ。パンで良いから」

「あ、私もー」

 横に並び立つ脚立の上から、他の先輩たちが身体をこちらに傾けてそう言った。このように人使いが荒いところもきつい。お金こそきちんと払ってくれるが、特に長期休暇で朝から活動しているときはこういうことがよくあった。

「はーい…… 分かりました」


 いつも通り校門を出て、塀づたいに少し歩いたところにあるコンビニへ向かう。その帰りのことだった。学校に戻り、絵を描いている現場である中庭に行くために校舎と校舎の間の、ちょうど渡り廊下が上に通っている通路を歩いているとき、上から何か黒い物体が降ってきた。

「きゃっ!」

 驚いた葵は、持っていた袋を取り落とす。落ちてきたのは人で、軽やかに着地し、そのまま葵が今まで来た道を走り去っていった。

 背中に刺さった棒状のものに手を添え、前傾姿勢で素早く走るそれは、明らかに忍者の姿をしていた。おまけに、一瞬だけ見えたその瞳は、明らかに青色だった。

 だが、葵はそんな異常極まりないものを見ておきながら、そのことを誰にも言わなかった。見たものをそのまま口に出して変人扱いされる人生は、小学生三年生のときに卒業したはずだ。

 小学校そのものを卒業するまでは、その時代の余波でなかなか苦労をしたが、受験して私立の中学校に進学してからは嘘のように平和な学校生活を送れていた。

 同じ轍は二度と踏むものかと、葵は固く自分に言い聞かせていた。


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