8-1 不幸宣言

 思い出したとは言ったけれど、正直なところあまり鮮明に思い出せていない。

 だいたい半分くらいだと言っておこう。


 思い出したのは、その気持ちに起因するものだけなのだ。


 たとえば覚えていたつもりのことが、いざ言ってみようとするとどうしてかまるっきり忘れてしまうように、茉莉もまた、こうして記憶を思い返してみた時、それにおける決定的なところを思い出せていないことに気づいた。


 瑞穂に対する恋心で、茉莉の記憶は蘇った。

 けれどそれは完全ではない。


 曖昧なかつての恋の記憶だ。


 茉莉は彼の容姿や性格、自分たちがどのようにして出会ったか、二人でどんなことをしたか、何を企んでいたか、あるいはどこでキスを交わしたか、そしてどんな風に分かれたかをまるで昨日のことのように思い出せる。


 けれど肝心な名前を思い出せないままだった。多分、これ以上を思い出すのは無理な気がする。

 そう自分の脳が語っている。


 だからもう思い出すのは諦めて、過去の自分がどんな人間だったかを詳しく知ろうと思う。


 まず、名前の思い出せない彼のことを「M」と呼ぶことにする。

 なんとなく、そのイニシャルが似合っている気がしたからだ。





 岩船ではないどこか遠い土地から茉莉は来た。

 というよりはたまたまそこを訪れていただけだった。


 死ねない茉莉は自分のことを、一般社会に溶け込むことは不可能だと思っているために、ただあてもなく国中を放浪していた。


 食べ物や飲み物は摂取する必要が無かったから、旅は茉莉にとってとても都合が良かった。


 それは別に楽しいわけでもないし、かといって寂しいわけでもない。特に何もない。

 そもそも、楽しいだとか寂しいだとかを、茉莉はあまりよく知らない。


 富山県から新潟県に入り、そこから北上するようにして歩き、最終的に県北である岩船の町に辿り着いた。


 まず初めに驚いたのは、そこだけがまるで時代が一つ前のように思えたことだ。


 新潟県は米がよく採れるということで、土地を余すことなく田んぼに費やしている。

 だから新潟県の中では、歩いていて視界に田んぼが入らないということはあまりない。


 しかしこの町は、まるで江戸時代の村であるかのように小規模で、また田んぼに隔たれ、山と海に遮られ、まさに「陸の孤島」という言葉が相応しいように思えた。


 この町の人間は普通の暮らしをできているのだろうか。そんな疑問を抱き、この町に興味を持った。

 そして少しの間、滞在することにした。


 それが始まり。

 そんな取るに足らないような興味が、不幸の始まりだった。


 やがて茉莉はこの町に訪れたことを後悔し、それ以前に変えようのない自分の性質を恨むことになり、最後に自らの記憶を消してくれと切に願うようになる。





 田舎の中でも格段に田舎の町である岩船は、誇張表現なんかではなく、本当の意味で閉鎖された社会だった。

 自然による物理的な閉鎖によって、その社会は独特なものが形成されていた。


 その頃は今のようにトンネルなんて開通されていなかったから、隣町の村上までは令和の時代では三十分でも、この時代では二時間以上の時間を要す。


 それも相まって、茉莉はこの町をなかなか出ようという気にはなれなかったのだろう。

 岩船の町から出ることは、ここに住んでいる人からすれば上京することとほとんど変わらないのだ。


 それだけの労力がかかるのだから、茉莉はそう簡単に岩船の町を出ようとは思えなかった。


 町は異常なほどに穏やかで、それでいて人々はみな明るく見えた。


 桃色の桜から新緑の木々に移り変わって、きらきらと煌めく太陽とそれを反射させる青い海が、やがてくる夏を思わせた。

 初夏の季節だ。


 田植えの季節になって、田んぼには水が張られていた。

 この時代にはまだ当然トラクターなんて普及していなかったから、人々はみな手で田植えをしている。

 水面を揺らして、稲を一つ一つねじ込むように植えていた。


 今日は休日のようで、その中にはちらほら小学生の姿も見えた。

 おばあちゃんらしき人物に叱られながら田植えをしている子供の様子を見て、なんだか微笑ましいな、と茉莉は思う。


 お世辞にも町自体には活気には見られるとは言えないけれど、人間活動に焦点を当ててみれば、都市部の方の栄えているところよりも一人一人が関わりあっていて、活気があるように思える。


 それが微笑ましくて、少し変わっているようにも思えた。けれどこれこそが、岩船の町なのだろうと納得する。


 そうして茉莉は歩き始める。


 岩船の町は小さくて、土地勘のない茉莉でも一周を一時間ほどで終えてしまえた。

 その外周の景色のほとんどが、田んぼか海か森かのどれかだった。


 一周を終えて、一時間前と同じ場所に戻ってくる。そこから茉莉は、町の中の方へと入っていく。


 車一台の横幅くらいの道が続いている。住宅は外から見えるよりも多く建っていた。

 そのほとんどが木々に隠れていたか、あるいは高低差のある土地で見えなかったかだろう。


 屋根を越すほどの大きな松が見えて、その方へ向かう。

 すると海が見えて、同時に港も視界に入る。


 漁船が沖から帰ってきているところだった。目の前にある海のすぐ右には山があるのだから、本当に自然豊かな町だなと思う。


 住宅のある所を抜けると公園が見えた。

 滑り台とブランコとシーソーがある。公園らしい公園だった。どことない懐かしさを覚えながら、茉莉はその公園に入っていく。


 しかしすぐに茉莉は引き返そうとした。

 あるいは見て見ぬふりをして通り過ぎようと思った。


 面倒だと思ったのだ。人がそんな姿になっているのを見たくない訳ではない。

 それも人間らしいといえば人間らしい行為だ。ただ分からないのだ。

 彼らがどうして人をいじめるかを。


 その答えはどれだけ考えても分からない自信がある。相容れないからだ。茉莉は目を伏せて、そのまま公園の前を通り過ぎようとする。


 茉莉が俯いて歩いている横では、暴力行為が行われていた。


 身長や体格、声の調子などから中学生のように見える。声変わりしたての、まだ幼さを含んだ男性の声も聞こえるので、中学一年生だろうか。


 殴って蹴って、それで倒れた被害者の彼は立つ。そうしてまた殴って蹴られる。

 それの繰り返し。


 そのいじめが上手なところは、被害者の彼が傷ついて動けなくならない程度には弱く、しかし痛がる程度には強い衝撃を与えているところだった。


 そのようにして程よく加減された傷は、痣になりにくく、また跡にもならない。

 茉莉は自分の身体で何度も試したから、よく分かっている。


 そのいじめの本質にあるのはきっと、田舎特有の、というよりはこの町特有の、住人同士が結ぶ硬い繋がりによるものだろうと、茉莉はすぐに見抜く。


 だから今三人の男女にいじめられている彼は、きっとその社会に適応できなかったのだろう。馴染めなかったのだろう。


 茉莉にはよく分かった。分かりすぎるほどに分かってしまった。


 そのためだろう。一度は見ないふりをしていた茉莉の頭は彼らの方に向き、その足もそっちを向いていた。そして茉莉は公園に入っていく。


 「あの……」と、茉莉は言う。

 「あ?」

 少年が茉莉の方を見て言った。

 「誰だ、あんた?」


 声こそは声変わり中の男性のものだったが、態度はまるで何もせずに威張る課長のようだった。

 恐らく彼が三人の中でもリーダーのような人物だろう。そんな様子がありありと伺えた。


 「わたしは彼の友達です」


 茉莉はそう言った。

 けれどそれに続ける言葉に悩んでしまう。


 何も決めずに見切り発車をしてしまった。理論的ではないけれど、感情が先に動いてしまったのだから仕方がない。


 少し考えて茉莉は「だから、やめてください」と言った。

 親からしつけられていたかのように、彼らはあっさりとその手を止めた。


 こんな表現をするのもどうかとは思うけれど、彼らにも拒否権はあるのだから、いじめをやめる必要はなかった。

 茉莉もそんな言葉では止まるとは思っていなかった。


 しかし彼らはその手を止めた。

 沈黙が降りる。


 初夏の熱がやけに暑く感じた。吹いた風が心地いい。茉莉は一つ、瞬きをした。


 少しして彼らのリーダーらしき少年が「行こうぜ」と言う。他の二人は「あぁ」と返し、そのまま三人は公園を出ていった。


 きっとそれは茉莉を恐れて、あるいは通報されるのを恐れての事ではないだろう。ただ茉莉の介入に、空気がしらけてしまったからに違いない。


 第一、この時代にいじめを通報したところで、「そんなことは個人の問題です」とあしらわれるのが関の山だ。

 この時代、いじめは問題ですらないのだ。


 彼らに暴力で勝てるほど茉莉は強くない。助けを求める先も無い。

 正直なところ、彼らが去って助かった、と思う。


 茉莉は唖然としている被害者の少年の元へと向かった。


「やまとたちは、どうしていなくなったの?」


 少年は不思議そうに言った。

 やまととはあの三人のうちの一人のことだろう。


 少年は本当に不思議そうな顔をしていたから、それ以外に形容の仕様がなかった。

 彼にとって不思議なことが起きたのだ。


 「わたしがあなたを助けたんです」

 「そっか、ありがとう」


 少年はそうは言ったものの、その言葉には感謝の気持ちが含まれていないようだった。

 茉莉は彼の身体に優しく触れ、「痛いところはないですか?」と訊く。


 「太ももとあばらと、それから頬が痛いかな」


 少年はそれぞれその個所を触りながら言った。その痛みや傷が茉莉だったら場合、すぐに治るのに、痛がる彼と代わってあげたいと思った。


 茉莉は彼の服やズボンをめくって、傷らしい傷がないことを確認する。ほとんどが気づかないところにできた痣や内出血ばかりだった。


 傷があった場合、絆創膏でも買ってこようと思っていたのだが、それはできそうにない。


 その間も、少年は黙っていた。

 彼らがいなくなったことを不思議に思っているようだった。彼にとって、いじめは当たり前のことだったのかもしれない。


 「ねぇ。名前はなんて言うんですか?」

 「僕は―――って言うんだ」


 突如、記憶にノイズが走る。

 けれど茉莉は、その名前が「M」で始まることだけは覚えている。以後、彼のことをMと呼ぶ。


 「あなたは?」

 Mは訊いた。

 「わたしは茉莉。そのまままりって呼んでください」

 「うん」

 そう言うと、Mは茉莉から離れた。そして公園の外に出ていこうとする。

 「帰るんですか?」

 「うん、やることないから」

 「そうですか。じゃあ、さようなら」

 茉莉は微笑んで、小さく手を振った。

 「じゃあね。さっきはありがとう」

 「はい、さようなら」


 そうしてこの日はMと分かれた。

 もう二度と会うことはない、そんな風に思っていたけれど次の日、茉莉はMとまた会うことになる。

 

 それは決して運命の話なんかではなくて、あまりにも夢のない話ではあるけれど、ここが田舎で、狭すぎる岩船の町だからだ。


 これがもう少し栄えていた土地だったら、どうなっていたか分からない。


 そんな様に不思議で、淡白なやりとりからの出会いで、しかしどうあれ、これが始まりだ。

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