(完) 待ち人、永遠に来たらず
ほとんど記憶を持ち合わせておらず、帰る場所のないこの青年に、老婆は手を差し伸べてくれた。
何らかの事情があることを察して、警察には何も言わずにただ黙って居場所を与えてくれた。
部屋を貸してやるから、好きな時までいていいよ、と彼女は言った。
青年が知っていることといえば、この町は岩船と呼ぶこと、どんな手を使っても死ねないということ、そして自分の名前は瑞穂だということ。
それくらいだ。
そんな不審者としか言いようのない瑞穂のことを、老婆は迷うことなく助けてくれた。
感謝してもしきれない。
彼女が言うには、一人は寂しかったから丁度よかったのだそう。
彼女は軽度の認知症を持っているようで、食事の時は一つ、決まって同じ話をする。
「おめぇはさ、浜に打ちあがってたんだ。そこに倒れてだけかもしれねぇけど。ぼろぼろの服で鞄一つ抱いて倒れてるのを見つけた時は、遂に死体みつけちまったと思ったね。でも生きてた。触ってみたら魚みてぇにぴくって動いたんだ。あんな寒い中でも生きてた。あれはおらが見たたった一つの奇跡だ」
まるで昨日の出来事のように、ありありと話す。
そんなように何度も同じ話をするから、聞かなくても話の概要や声の抑揚、身振り手振りまでも暗記してしまった。
でもそれもいつか忘れてしまうのかもしれない。多分そうだろう。瑞穂はそんな風に思う。
それに彼女は認知症を持ち合わせているから、その話に信憑性があるかと言われればどうか分からない。
もしかすると彼女の好きな、夕方に再放送をしている海外ドラマの一部を、現実と混同してしまったのかもしれないし、もしくはまったくの作り話なのかもしれない。あるいはそれこそが本当の話なのかもしれない。
けれど瑞穂には何が真実なのかは分かるはずもない。だって瑞穂には記憶がないのだから。
でも、そんな風に何度も何度も同じ話を聞いていれば、嘘だって真実のように思えてくるものだ。
初めは年寄りの戯言のように思っていたのだけれど、今はなんとなく、瑞穂は海で、もしくは砂浜で倒れていたのだと思っている。
岩船ではないどこかの町で育って、何かの拍子で海に流されて、今に至る。そう考えれば辻褄は合うからだ。
過去のことは全く覚えていないけれど、何かがあったのは分かる。
そうでなくては、今のような生活はしてない。
どこか違う街で、のんびりと暮らしていただろう。きっと。
昔の自分を思い出そうとは思わない。けれどそれよりも、何か思い出さなければならないようなことがあったような気がして――しかしそれを思い出す術を持ち合わせていなく、結局のところ、そうして思い出さなければいけないことがあったことすらも忘れていく。
そうなる前に少しでも手掛かりを掴まなければならない。瑞穂はそんな風に思う。
けれどそんな手掛かりはどこにもあるはずがない。
存在しているとしたら、瑞穂の頭の中にしかないのだ。だから諦めるしかない。
それこそが正解のような気もする。
そんな風にしてまた日は過ぎていく。
そうしたある日、瑞穂は部屋を掃除していると、押し入れの奥から黒くてぼろぼろになった鞄を見つけた。
瑞穂はそれに見覚えがあった。
恐らくこの家に来る前から使っていた鞄だろう。
自分の物である証拠を探してみたけれど、何も見つからない。
半ば放り出したような気分で鞄に手を入れてみる。
大きなものは見つからなかったけれど、一つ、小さなものが見つかった。
紙切れだった。それも、雨風にさらされて、文字の消えかかっているもの。
「なんだこれ」
ところどころ文字が掠れていて読むことができないけれど、それがおみくじであることは分かった。
しかしどこの物であるかは分からない。瑞穂は老婆の元へと向かった。彼女は博識なのだ。
「少しこれを見てくれないか?」
和室でテレビを見ている老婆に言った。
「なんだ?」
瑞穂の差しだしたおみくじを受け取る。
「おみくじけ、これ?」
「だと思うんだけど、どこのか分かる? 昔の俺の鞄に入ってたんだけど」
うぅんと唸っておみくじを見つめる。
よく見たいから眼鏡を取ってきてと言われ、瑞穂はそれに従った。
そして持ってきた眼鏡で、目を凝らしておみくじを読む。
「随分と昔のみてぇだな」
「そうだね。文字も掠れてるし」
「でもこれはあれだ。あそこの山の神様の明神様の物だな」
「明神様?」と聞き返す。
「あぁ、明神様。そこの山の神様で、その昔に、岩の船に乗ってこの地に降りてきたって言われてんだ。この地の名前の由来だな」
「へぇ、知らなかった」と瑞穂は感心する。
「まぁ、そんなこと覚えてたって仕方ねぇけどな」と老婆は楽しそうに笑う。
「この町もあと十年もしたら人がいのなってるんでねぇかと思うんだ」
確かに岩船の人口は数えられるほどしかいなくて、町を歩いてみてみても、若者に会う確率はほとんどない。
まるで若者が一人もいないように思える。
それくらいに少子高齢化と過疎化が著しい。
「でも、そんな寂しいこと言わんでよ」
「おらは死なんからな」
ふいの冗談は笑えないものだった。
「そうだといいな」
気が付くと、瑞穂にも老婆の訛り口調が移っていた。それがおかしくて、瑞穂は小さく笑う。
それに気づいて老婆も小さく笑う。
互いにそれを笑いあった。
ここは小説やドラマの中でよく見る家族によく似ている。
心地が良くて、出来る事ならばずっとここに居たい。老婆の暮らすこの家は瑞穂にそう思わせてくれる。
ありがたくて、嬉しくて堪らない。
なんて言ったって、居場所をくれたのは彼女なのだから。どんなに礼を言っても言い尽くせない。
だからせめて、彼女が死ぬまでは一緒に居たいと思っている。
ここは家族のように温かい。
ずっとここに居たいくらいに心地がいい。
でも、心が違うと言っている。
限られた記憶が違うと言っている。
身体に染み付いた何かが違うと言っている。
あなたが傍にいるべきは本当に彼女なのかと言っている。
巣立ちはいつなのかと言っている。
運命の相手は彼女なのか――と言っている。
心地のいい空間。満たされた日常。暖かな生活。幸せな毎日。永遠にこうしていたいと思う。
けれどどこかに違和感を覚える。
絶対に何かが足りない。あと一つ、たった一つ、けれど大きすぎるあと一ピースが足りない。
そうしてそれは瑞穂に問いかける。
このままでいいのか、と。傍に――がいなくていいのか、と。
けれどそんなことを言われたって、よく分からない。瑞穂には記憶がないのだから。
ただ何かが足りないことだけは分かる。
「ありがとうね」
言葉以上の感謝を伝えて、瑞穂は自室へと戻る。老婆は警戒に手を挙げて返事をした。
*
その夜、例のおみくじをもう一度よく見てみることにした。
昼間はその物珍しさに内容まで深く読んではいなかった。
瑞穂は布団に寝転んでおみくじを見る姿勢を整える。
掠れた文字に目を通す。
読みづらいことこの上ない文章を何とか解読しようとする。
けれど潰れて見えなくなってしまっている文字や、瑞穂には読めない文字があり、その文章を完全に理解することはできなかった。
ただ一文、読むことのできるものがあった。
それはまるで魔法がかけられているように汚れや風化から守られていた。
それはこのように書かれていた。
――待ち人、永遠に来たらず。
つまり、瑞穂の待ち人は永遠に来ないのだという。
そんな馬鹿な話あるかと瑞穂は思う。
だってこれはおみくじだ。
百歩譲ってそれが本当だとして、神社が書くにしてはあまりにも直接的に過ぎる。
仮にも商売なのだから、もう少し柔らかな表現を用いてもいい気がする。
きっとこれはおもちゃのようなものだ、そう思った時、それに見覚えがあることを思い出した。
記憶のない昔に、瑞穂はそれを手にしていた――つまりそのおみくじは岩船の神社のものだから、必然的に瑞穂は岩船に来ていたことになる。
そしてふと、その時の光景が鮮明に蘇る。
だれかが傍にいたような気がする。
大切な人――だったような気がする。
でも思い出せない。
きっとこれはこじつけに過ぎない。記憶をどうしても思い出したい瑞穂が、何かと何かを繋げるために生み出した捏造の記憶に過ぎない。
そう思うことにした。
でも。もしも、仮に、それが嘘ではないとしたら。
そう思わずにも居られなかった。
*
その夜、瑞穂は夢を見た。
まるで遠くの記憶のような、しかし物語のように輝く現実に近いものでもあった。
夢なのか記憶なのか、瑞穂には分からない。
けれどそれは夢ではなく、大切な記憶のような気がした。根拠はない。
瑞穂はそんな憶測的なもので、その夢を記憶の再生と決めつける。
本当のことを言えば、細かいことは覚えていない。記憶だから脚色も入っているだろうし、ひょっとすると記憶違いもあるかもしれない。
けれど間違いなく言えるのは、彼女が瑞穂にとって大切だったということ。
家族より、友達より、幼馴染のような友達より、それらを全て投げうってでも幸せにしたいと思うくらい、大切だったということ。
それが初めての恋だったのだから、仕方がないとは思う。
記憶の中の彼女はこんな風に言う。
『知ってますか? おみくじって、正直者の人にしか、効果を発揮しないって』
記憶の中の瑞穂が答える。
『へぇそうなのか。でも俺は正直者だぞ?』
『それは……困りましたね』と、彼女は笑う。 『でもまぁ、所詮おみくじですし、どうにかなるでしょう』
そう言う彼女の言葉は、随分と歯切れが悪く聞こえた。
もし彼女の言う通りなら、そのおみくじは今でも効果が続いているのかもしれない。
だって記憶の自分が言うには、どうやら瑞穂という人間は正直者らしいから。
待ち人は誰か分からない。
けれど会わなくてはいけない気がした。
そんな気がする前から、脳が全てを忘れていても、身体が覚えていた。
そして次の日から、瑞穂はとある場所に通うことになる。
自殺の名所――と呼ばれている公園だった。
*
夢と現実を混同したことを考えるようになってから、早くも二か月が過ぎた。
毎日公園に通っているのに、何も起きない。
晴れの日も、雨の日も、屋根のあるベンチに座って本を読んで、自然に身を委ねるだけ。
それ以外にすることがない。
でもそこにいることには飽きがこない。不思議だ。
季節は回る。
セミが声を揃えて鳴くようになり、うだるような暑さが水分を奪っていく。
あまりの暑さに金属は熱を持つ。高所にある公園から見える海は太陽を反射して、夏を象徴しているように見えた。
今日も変わらない。
ただ、あぁ夏になったな、と思うだけ。
いつも通り。
本の文字に目を落とそうかと思ったその瞬間、突き抜けるような風が吹いて、瑞穂の髪を揺らす。
風が海を運び、思い出の香りを鼻孔の奥まで運ぶ。
懐かしいような、悲しいような。
それでいて、温かい。温かくて、懐かしい。
ただの風に、もっとそれ以上の何かが含まれている気さえする。
そうしなければいけない気がした。
ずっと何かが足りないような気がしていた。
あとほんの少し、欠けているような気がしていた。
今振り替えらなければ、ずっと遠くまでいってしまう気がした。
瑞穂は、その風を追うように振り返る。
潮の香りがした。
その立ち姿、その瞳、少し高い鼻に、艶のある唇、風になびく髪。
彼女は振り返る。
そこには、少女がいた。
彼女のことをずっとずっと前から、知っていたような気がした。
待ち人、永遠に来たらず 目爛コリー @saikinene
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