9-2 永遠でありますように
セミの鳴き声は林の中で反響して良く聞こえる。
その道は木陰だったから、走ってサウナのように火照る身体を急速に冷やしてくれる。
慣れた感触、慣れた景色。
違うのは、これから瑞穂は挑戦をするということ。
今まで何かに挑戦したことなんてなかった。
いつだって少し遠くから傍観しているだけだった。
おおよそ茉莉がいつものようにそこにいるとは知っていても、たった数パーセント、もしかしたらいないのではないかと考えると、急速に足取りが重たくなる。
そんなことは考えないようにする。
きっと、いいや確かに茉莉はそこにいる。
その頃には気分の高揚は落ち着き、瑞穂は冷静になっていた。
緊張はするけれど、大丈夫。
根拠こそないものの、自分にそう言い聞かせる。
そうでもしなければ、昔のように、今までの人生のように、自分に向き合わないままに逃げ出してしまいそうで。
そんなことを考えているうちに、木陰を抜け、公園に辿り着く。
そこに――茉莉がいた。
いつものように、あのベンチで本を読みながら、自然に身を委ねているようだった。
気づいていない様子の茉莉に、瑞穂は近づいていく。
なんて話そう。
何を言おう。
会って何をしたいのだろう。
そもそも何を伝えたいのだろう。
そんなようなことを考えるけれど、答えは出ないまま、茉莉の元へ辿り着く。
ふと、風が過ぎ去り、潮の香りを運んだ。
「どうして来ちゃったんですか?」
唐突に言う。茉莉は視線を本に落としたままだ。そして数秒後、文章のきりのよさそうなところまで読んで、茉莉は本を閉じた。
「どうしてもなにも、茉莉がいなくなったから。だからここに来たんだ」
そう言って瑞穂は、茉莉の隣に座る。
それから茉莉は考えるように向こうの空を見上げた。
夏らしいどこまでも青い空。鳥の群れが鳴き声を上げて、空を駆け抜けていった。
しかしどことなく夏の終わりを感じさせる空は、確かな寂しさを含んでいた。
「どうしてここが分かったんですか?」
「それは茉莉だから」
瑞穂は迷いなくそう言う。
「なんですかそれ」
そう言って茉莉は視線を瑞穂の方へと向ける。
「でもまぁ、瑞穂さんらしい答えですね」
茉莉は小さく笑った。それを見た瑞穂は、嫌われていなかったのだと、心を撫でおろした。
それからたった十数秒の、しかしまるで一時間のようにも思える間があった。
そして茉莉は決意をしたように、瑞穂に問いかける。
「どうしてですか?」
瑞穂の答えを訊く前に詳細を付け足す。
「どうしてわたしを追いかけてきたんですか? せっかく離れたのに。頼んでもいないのに」
表情は見えない。けれど声色は、それが心の底からの問いであることを示しているように、冷ややかに、そして無表情のようにも思える。
どうして茉莉はそんな風に、一人で行動をしたのだろう。
そこには絶対に何か理由があるのだ。
瑞穂は冷静になって考える。
求められているのは理屈めいた、それらしい理由ではなくて、たとえ理屈が通らなくても、正しい動機なのだ。
茉莉が知りたいのは本当の事なのだ。
嘘で取り繕った体裁ではない。
「そもそも、どうして俺から逃げるようなことをしたんだ?」
「それはわたしの質問に答えたら教えてあげます――だから教えてください。どうしてわたしのことを追いかけてきたんですか? 何も言わないで離れるだけの理由があるとは思わなかったんですか? 瑞穂さんは賢いんですから、きっとそれくらい理解してますよね?」
そんな風に問う。
沈黙が降りた。
茉莉の「どうして?」を、瑞穂なりに咀嚼する。
茉莉は何を知りたいのだろう。動機だ。
自分はどうして茉莉を追いかけたのだろう。そこが瑞穂にも分からない。
どうして? それが自分に返ってくる。
しかしよく考えてみれば、動機なんて簡単なものだ。
そして、あぁそうかと納得する。
それらしい理由はいらない。理屈めいた、それらしい理屈もいらない。
求められているのは茉莉に伝わるちゃんとした理由で、その答えはたった四文字で伝えられるもので。
そこに余計な要素を付け加える必要なんかないのだ。
「わたしはちゃんと考えてこうしたんです。このままじゃダメだと思ったから、こうしたんです。これが唯一の正解じゃないことくらい、こんなわたしにも分かります。でも、他に答えなんか知らない。どうしても分からない。こうすることでしか、わたしは瑞穂さんに感謝を伝えることができないんです」
取り乱してしまうくらい、茉莉の言葉は覚悟に包まれていた。
「わたしは普通じゃないから……――」
そして、ねぇ、と言う。
「教えてくださいよ。ちゃんと教えてくださいよ。それじゃあ意味がないじゃないですか。どうしてなんですか?」悲しみを含ませて言う。「じゃないとわたし――」
「――会いたい」
そう思った。
「え?」
瑞穂は少し声を小さくして言った。
けれど届かない。
だから今度は伝わるように言おうと思った。はっきりと、潮風に飲み込まれないようにその言葉を伝える。
「会いたかった――から」
そう言うとすぐに、振り払ったはずの羞恥が追いついてくる。
そうして瑞穂は次ぐ言葉に詰まってしまう。
「そうですか」と茉莉は口角を上げた。
「そういうこともあるんですね」
少し不思議そうに言う。
その言葉はまるで自分に言い聞かせているようであった。
そして瑞穂は言う。
これを言ってしまったらもう戻れない。
言葉はそんな風に魔力を持つ。
心からの物であれば、尚更に。
それは一世一代の決断だった。
「――なぁ、茉莉。俺、死ぬのやめにしたよ」
まるで時間が止まったように、茉莉の動きは固まってしまう。
風が吹き抜けて、二人の髪を揺らした。
そこには濃密な潮の香りが含まれていた。
「俺は生きることにした」
瑞穂は茉莉の言葉を待たずに、続ける。
愛の言葉を。
「死ぬまで暮らそう、茉莉。この町でもいい。そうじゃなくて別のところでもいい。茉莉と二人でいたいんだ」
そう茉莉の目をはっきりと見据えて言った。
「残り十五年、茉莉の傍に居させてくれ」
瑞穂自身も考えられないような言葉がすらすらと出てくる。
自分の言葉ではないように思えたけれど、それこそがきっと心の奥底に隠していた本心なのだろう。
身体に妙にその言葉が馴染むのはそのためだ。
茉莉は目を見開いて驚いた。口に手を当てて、身体を震わせ、瞳を潤わせる。
「でも……」
茉莉は声を震わせながらも、気持ちを伝えようと息を整える。
「でも、わたしは不幸を呼ぶんです。こんなわたしといちゃ、ダメなんです。だってまたあの時みたいに、大切に思う人は死んでしまう。そうでなくとも不幸にしてしまう」
茉莉は深く息を吐いた。波風で揺れる水面のように荒れた心を落ち着かせる。
そして言う。
「ねぇ、瑞穂さん。聞いてください」
瑞穂は黙って茉莉の話を聞くことにする。いつも茉莉がそうしてくれたように。
ほんの少しだけ。聞いてください。昔話です、と茉莉は言った。
「昔々、わたしには好きな人がいました。本当にずっと昔の話です。その人は特徴のない、けれど前向きな人でした。わたしは色んなことがあって、そして仲良くなって、恋をしました。でもわたしがいることで、普通でないわたしといたことによって動けなくなって、彼は死んでしまいました。自分で死にました。彼は普通でないことに耐えられなかったのです。わたしは不幸を呼びよせてしまいました」
茉莉は深く息を吐いて、自らを落ち着かせた。
語る口調は早まっていく。
「わたしは普通ではありません。もしかすると人間の皮を被った宇宙人かもしれませんし、あるいは人間を殺そうとする怪物かしれません。わたしは死ねませんし、食事をせずとも生きていけます。わたしの知らない『いつか』から、わたしの時間は永遠に止まっているんです。こんな人間とは思えないわたしが、世界に受け入れられるはずがありません。みんなに受け入れられるはずがないんです。瑞穂さんには迷惑をかけてしまう。彼のように死なせてしまう。死んでほしくない。どうしても、死んでほしくない。好きだから――お願いだから。お願いだから、死んでほしくない。わたしは殺したくない。どうしても死ぬというのなら、わたしの知らないところで死んでほしかった。希望を抱いたまま死んで欲しかった。出会わないまま、自分勝手に死んでほしかった――」
そう言って、茉莉は目を瞑り、続く言葉を考えるように間を置く。
「でも瑞穂さんは自分の意志で――生きる道を選んだんです。死ぬ道を避けた」
どうしてでしょかね、と笑って言う。
それから茉莉は頭を下げた。そして懇願する。
「なら、瑞穂さんはまだ普通の道を歩めます。どうかわたしを見捨てて、生きていってください。たとえ一人でも、普通に。みんなと同じように。普通に、普通に生きていってください」
最後にもう一度、「どうか」と念を押す。
瑞穂は小さく「そうか」と言った。
茉莉は頭を下げたまま、瑞穂の答えを待っている。
少しの間を置いて、瑞穂は笑って言った。
「茉莉は馬鹿だなぁ」
立ち上がって、茉莉の前にしゃがむ。
「俺は茉莉と生きたいんだ。普通とか関係ない。嫌われるとか、蔑んだ目で見られるとか、何も関係ない。無責任かもしれないけど、俺は茉莉と、二人で幸せになりたいんだよ」
茉莉は声にもならない声を上げて、顔を上げた。
「だからさ」と瑞穂は言う。
「――俺と一緒に生きていこう」
手を差し伸べる。茉莉は瑞穂の顔を見つめる。
太陽は傾きつつあり、丁度瑞穂に重なっていた。
それがまるで瑞穂が救世主のように――いいや、彼はそんな大層なものではなくて、ただのわたしにとっての救世主、あるいは最愛の人なのだ。茉莉はそんな風に思う。
「まったく、馬鹿なのはどっちですか」
茉莉は嬉しそうに笑う。
「わたしの思いやりを全部無駄にしちゃって。本当に馬鹿野郎です。大馬鹿野郎です。……でも、瑞穂さんらしい」
そして茉莉は、瑞穂の手を取った。
瑞穂は茉莉を引き上げ、立たせる。
そして視線を交わす。
ねぇ、と言う。
「わたし、瑞穂さんの事、好きです」
何かを求めるように、茉莉は瑞穂の瞳を見つめた。しばらく見つめ合って、やがて瑞穂は観念したように、視線を逸らして笑った。
そして瑞穂は茉莉の手を引いて――唇を重ねた。
この瞬間、まるで自分たちは世界の中心に居るかのように感じた。
唇を離して瑞穂は言う。
「俺も好きだ。茉莉が好きだ」
えへへと笑って「わたしもです」と言う。
この瞬間が人生史上、最も幸福な時間であると瑞穂は思った。
それは茉莉も同じだった。
公園には幸せの色が溢れていた。
それはもう、春のたんぽぽのように、夏のひまわり畑のように、辺り一帯に。
普通だとか普通でないとか、もういい。
二人でいられるのなら、それが一番だと気づいたから。
二人でいられるのなら、なんだっていい。
何も要らない。
彼女がいる。愛がある。それは贅沢というものだ。
『――人の愛し方も、愛され方も分からないんだね』ふと、その言葉が頭をよぎる。
瑞穂は愛を知った。愛され方を知った。
これが恋なのだ。
もう思い残すことなんて一つもない。
けれど大切なものがある。
未来は、二人だけの時間だ。
そして、気持ちを確かめ合うように見つめ合って、それから互いに小さく笑う。
今ならばどんな辛いことが起きたって、笑い飛ばせるような気がした。
互いの頬は朱色になっていくけれど、でもそんな恥ずかしささえ、今ならば心地いいように思える。
そしてもう一度、今度は茉莉の方から、唇を重ねた――それが幸せの証であるかのように、ずっとずっと、唇を重ねていた。
どうか、この幸せが、永遠でありますように――
どうか、あなたが、永遠でありますように――
その願いは油と水のように、絶対に相容れないものだ。
二人でいることが幸せならば、二人でいられなくなった後は、一体どうなるのだろう。
瑞穂はふと、そんなようなことを考える。
そしてやがてその時は訪れる。
ずっと前から、瑞穂の中で――答えはもう出ているのだ。
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