10-1 嘘つきの願いごと
太陽が沈む頃。何をしたいかと訊くと、茉莉は何もしたくないと答えた。
「わたしは別に特別なことはしたくないんです。と言ったら語弊がある気がしますけど、でもわたしは瑞穂さんと一緒に時間を共有したいんです」
そうですね、と茉莉は言う。
「何でもない日常と言いますか……」
「なるほど」と瑞穂は笑う。
瑞穂には帰る場所がない。けれど居場所はある。
茉莉の傍になら、瑞穂の居場所は確かに存在している。
「なら、そうしようか。茉莉」
「はい」
茉莉は楽しそうに笑う。
全くの迷いを含まない、純粋な笑顔が見られてよかったな、と心の底から思った。
*
その日はいつもの公園で寝ることにした。
二度の野宿を経験して抵抗はなくなっていた。今まで二人でずっと過ごしてきたこの場所を、今日は離れたくなかったのだ。
瑞穂と茉莉はいつもの公園で野宿をすることにする。
この公園から見る夜空は初めてだった。
「本当に綺麗ですね」
「あぁ。本当に綺麗だ」
芝生に座り、後ろに手をついて夜空を見上げる。
点在する星々は、深い紫の空を背景として存在感を表している。
綺麗としか言えないほど星空はずっと遠くまで輝いており、旅行をしていた間、何度も見た夜空よりもずっと煌めいて見えた。
魔法にかかっているからだろう。
二人で見ると数倍綺麗に映る魔法が。
「瑞穂さん。どれが夏の大三角形か分かりますか?」
そんな風に茉莉が訊いた。
「あー」
瑞穂は適当に指を差して言う。
「あれだろうな」
「どれですか?」
「あれとあれとあれが、こんな感じに繋がるんだ」
指で三角形の軌跡を作る。
けれどそれは適当に言ったもので、そこに大三角形なんてあるはずがなかった。
「あれじゃないですよ。夏の大三角形はこっち」
茉莉は右の空を指差した。それぞれに名前を差して言う。
「デネブ、アルタイル、ベガ。で、それを結んだら……ほら、大三角形になるでしょう?」
「ほんとだな」と、瑞穂は相槌を打つ。
「でもそんなものはこじつけじゃないのか? その辺にある適当な星と星を結んだら、三角形なんていくらでもできそうな気がするけどな。ほら、あれだって。あそこにある星だって、全部大三角形だ」
「ロマンないこと言いますね」
「悪かったな」と、瑞穂は少しだけ反省する。雰囲気を壊してしまう発言だ。
「でもまぁ、その通りなんですけどね。正直なところ星なんて全部後付けです。人類がもとからあった星を観測して、『これに似てる』ってそれらしい名前を付けただけなんですから、観る人が違えば山羊座はクマ座になっていたかもしれませんし、あるいは星座なんて概念は産まれなかったかもしれないんです」
しみじみとした表情で、茉莉は夜空を見上げている。
「そう思うと、不思議ですね」
そうしてしばらく夜空を見上げていた。
他のことは気にならなかった。
時間を共有できているという事実が身体の反応をすべて忘れさせ、意識を集中させた。
やがて夜も更ける。
スマホの充電はとっくの昔に切れてしまっているから時間は分からないけれど、今までの人生で培ってきた体内時計が、今は丁度日付が変わった頃ではないかと提案してくる。
その時間帯は皆が眠る頃だ。
どこまでも広がる夜空、静かに立ち並ぶ木々たち、穏やかな自然のせいもあり、瑞穂にはより強い睡魔が襲った。そしてそのまま眠ってしまう。
「瑞穂さん?」
茉莉が声を掛けた頃には、瑞穂はもう完全に深い睡眠に入ってしまっていた。
「まったく」と呆れたようなことは言いつつも、茉莉は表情を崩す。
きっと瑞穂は疲れていたのだろう。
朝起きて、わざわざ走って茉莉のことを追いかけて来てくれたのだから、いつも通り元気なんてことは有り得ない。
その疲れは愛の証だ。
そんな彼を愛おしく思い、茉莉も眠る彼の横に並ぶ。まるで添い寝のように隣に横たわった。彼の顔を少し見て微笑む。
そして空を見上げる。
北の空も西の空も雲は一つとしてなく、明日の朝まではずっと晴れが続くだろう。雨が降るなんて考えられない。
風も一つとして吹いておらず、この公園で眠っていても問題ない。
眠る瑞穂に、茉莉は顔を近づける。
「気持ちよさそうですね」
頬を優しく撫でながら言った。
「さて、わたしも寝ましょうか」
こうして隣で眠ることが密かな夢だった。
それを叶えて、それ以前に愛を確かめ合った余韻から、幸福感で満たされている茉莉は、その時のことを思い出して一人で小さく笑う。
それからもう一度瑞穂に顔を近づけて、唇に親指を這わせ、人差し指でなぞり返す。
そして少しの間口づけをする。
今この瞬間において、未来の事とか過去の事とかはどうでもよくて、ただこの幸福感をどうにかしてしまいたかった。
もう一度、今度は彼に幸福感を分け与えるように唇を重ねる。
茉莉は小さく「おやすみなさい、瑞穂さん」と言った。
そうして茉莉は瑞穂の方に身体を向けて目を瞑った。
やがていつもの倍以上に眠気が襲ってきて、茉莉も同じように眠る。
いつもよりもずっと深く眠れるような気がした。
*
いつもと違う環境だからか、瑞穂は夜中に目を覚ました。
空は眠る前とほとんど変わっておらず、今が深夜であることを示していた。
熱帯夜だった。
肌に汗が張り付いて、少しだけ不快だった。しかしそれは傍に人がいたためでもある。
それを知れば、不快に思うこの暑さもまぁ悪くはないと思える。
瑞穂は立ち上がり、公園のトイレで用を済ませる。そしてまた茉莉の元へと戻ってくる。
相変わらず綺麗だな、と思う。
この目に入るもの全て。空も、海も、この自然も、そして眠る彼女も。
瑞穂は身体を横にした。
ふと眠る茉莉が目に入る。
呼吸に合わせて彼女の胸は、緩やかに膨らんだり萎んだりを繰り返している。今日は珍しく、深い眠りについている。
その性質からか、茉莉はいつも深い眠りをできていないようだったのだ。
瑞穂は茉莉に触れようとした。
その時、長く伸びた人差し指の爪は尖っていて、不運にも茉莉の頬の皮膚を切ってしまった。
瑞穂の手の軌跡を残すように、赤い線が薄くできる。緩やかに血は滲んでいく。
どうしよう。
やってしまったと焦るけれど、しかし茉莉は身体が元に戻る性質があるのだと思い出す。
祭りの夜のように、戻ってくれるだろう。
何事もなく過ごしていれば本当に人間のようだから、そんなことは忘れてしまう。
瑞穂は茉莉の皮膚が再生するのを待った。
しかし溢れるのは、赤い血液だけ。
どれだけ待っても治り始める気配はなかった。
まるでただの人間のように思える。
そこで瑞穂は一つの仮説を立てる。
やがて茉莉の流血は止まった。指で垂れた血を拭う。そうして瑞穂はまた、眠りにつこうとする。
しかし今度は眠れそうにない。
ぐるぐると頭の中で何かが回り、それについて考えれば考えるほどまた、別のものがぐるぐると頭の中で回りだす。
次第にそれは大きくなっていき、瑞穂の眠気を吸収して、またぐるぐると回っていく。
そうして夜も空けようとしているのに、どんどんと瑞穂の目は冴えていく。
答えは出そうにない。
けれど考える必要がある。
それはどうしても大切で、後送りにはしたくないほど急ぐような考え事だったためだろう。
ただ試すだけ。
nそれで十五年後に手遅れになんかならずに済む。謝って済むようなことではないのだろうけれど、それで茉莉が幸せになれるのなら、辛い思いをしないのなら、本望だから。
一瞬の大きな幸せか、緩やかに続く些細な幸せか。
正直なところ、未来を考えた時、どうしても悲しい結末は避けられないのだと気づいていた。
けれどそんなことを言ったって、何かしたところで変わるものでもない。
瑞穂が残り十五年以内に死ぬことは変えられないし、それで茉莉が生き残ってしまうことも変えようがない。
茉莉はどうしたって取り残されてしまうのだ。
だから瑞穂は悲しんで、哀れんでいた。
茉莉が死ねないことについて知ってから、ずっと。
でもそれについて、初めて瑞穂が行動を起こせるような気がする。
失敗したっていい。成功すれば、それについてのマイナスはゼロになるだろうから。ただ一度、試すだけでいいのだ。
瑞穂は眠らなかった。
代わりに茉莉を置いて一人で公園を離れる。茉莉はそれに気づかないまま、眠っている。
やがて空が白み始める。漁船は沖に出て、町は動き始める。光が灯り始めた。
夜明けはもうすぐそこだ。
どんなに暗い夜だって、必ず明ける。
明けない夜はないのだから。
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