10-2 嘘つきの願いごと

 瑞穂は旅の中で、茉莉の睡眠が浅いことを知っていた。


 茉莉の身体の時間は若いままで止まっている。

 本来は眠る必要なんてないのだろうから、茉莉の眠りが深くない理由としてはそれで納得はできる。


 しかし眠るということはどんな生物にだって欠かせない。茉莉は生物ではないなんてありえない。眠ることが必要なはずなのだ。


 だから茉莉は眠る必要がないのではなくて、眠れなかった、という方が正しいのではないだろうか。

 瑞穂はそんな風に推測する。


 茉莉はどうしても普通の人間とは違っているから、茉莉について深く理解してあげることができない。

 けれど、考えることはできる。

 茉莉のためを想うなら、何だってできるきがした。


 今からすることを考えた時、瑞穂自身が悪魔か何かのように思えた。


 それはある種の裏切りで、でも愛しているからこそ、彼女のことを一番に考えているからこその行動だった。


 一瞬の大きな幸せか、緩やかに続く些細な幸せか。瑞穂ならこう答える。


 『どちらにせよ、その後に待ち受ける深い悲しみを、茉莉に感じさせたくない』と。


 許してくれなくてもいい。


 それで幸せになれるのなら、きっと本望なのだと思うのだ。





 瞼越しに感じる眩い日差しに思わず目を覚ますと、夏らしい熱気が身体を覆った。

 一瞬にして汗をかいたような気分になる。


 額に滲んだ汗を手首で拭い、茉莉は身体を起こす。


 「瑞穂さん?」


 辺りを見渡しても、林の中からセミの鳴き声が聞こえるだけだった。

 公園にたった一人、取り残されたような気分になる。


 しかし瑞穂のことだから少ししたら帰ってくるだろう。きっと買い物に出かけただけなのだ。茉莉はそんな風に思う。


 そして屋根のあるベンチに向かい、もう一度身体を横にする。

 よく眠れたために横になっても眠気は全く襲ってこない。そもそも眠るつもりなんてなかったけれど。


 横になったのは、彼ならば、まるで主人公のように、肩を叩いて起こしてくれるかもしれない。そんな風に思ったからだ。





 しかし瑞穂は茉莉を思って、目が覚めるまでずっと傍にいて、できるだけ物音を立てないよう自然に身を委ねていた。


 肩を叩かれて目を覚ますなんてことはないのだと悟り、茉莉は目を開ける。

 まるでいま目を覚ましたかのように、少し小さな声で「おはようございます」と言った。

 自分の声が物凄く白々しく聞こえる。


 「おはよう」瑞穂は茉莉に視線を移して言う。

 「よく眠れたか?」

 「はい。とても」

 「それはよかった。いつも睡眠が浅そうだったから」

 「よく見てますね」

 「そりゃあ当たり前だろ」


 瑞穂はそれが当たり前のように言ったけれど、茉莉にはそれが瑞穂なりの照れ隠しだと分かったから、「嬉しいです」と微笑みを付けて、素直に返した。


 それからしばらく、二人の間には会話はなかった。


 ただ時間と空間を共有できていることに喜びを覚えて、何度目かの「今が一番幸せ」を噛みしめる。

 うだるような暑さも、焼けつくすような日差しも気にならない。


 ややあって瑞穂は口を開いた。


 「なぁ、茉莉」

 「どうしました?」

 「これから先、どうする?」

 「そうですね」


 そう言った時、長くてもあと十五年しかこんな風に瑞穂といられないのかと思い、心が締め付けられた。


 「別にどこに行きたいとかでもいいし、小さな夢でもいい。あったら教えてくれ」


 「わたしは多分、ないと思います。瑞穂さんといれるだけで幸せです」

 「そっか」

 瑞穂は向こうの海の方に視線を逸らす。

 「それは嬉しいな」


 そんな風に顔を逸らしたから、瑞穂が恥ずかしがっているのかと思ったが、見えた表情はまるで卒業アルバムを眺めているかのように何かを含んでいた。。


 その時ばかりは瑞穂の考えていることは分からなかった。


 そんな風に懐かしむように笑うから、まるで今日が卒業式のように思えて、茉莉は寂しい気持ちになる。まるで最後の別れようにも思える。


 でも、「そんな表情をしないでくださいよ」とは言えなかった。


 それは瑞穂が本当に懐かしんで、あるいは何かを堪えている表情にも見えたからだ。

 あとからしてみれば、やっぱり言っておけばよかったと思った。





 妙な確信があった。


 理由なんかどこにもなくて、理論的に考えれば失敗する確率の方が高いのだろうけど、でもそれがたった一つの正解のように思えた。


 きっとそれは、瑞穂が誰よりも、茉莉よりも茉莉のことを考えていたからに違いない。


 そうでなくては、こんなことを思いつくはずもないし、思いついたとしても実行できるはずがない。


 準備するものはのこぎりとバーナー。全て瑞穂の実家の倉庫から持ってきた。


 深夜になり、茉莉は眠る。

 昼間に飲ませた睡眠導入剤の効果がようやく出たようで、いつもよりもずっと深い睡眠をしているように見える。


 瑞穂はのこぎりを持って、眠る茉莉のもとに向かう。


 そして柔らかな頬を撫でた。

 優しく抱きしめた後、小さくキスをする。


 「さようなら。愛を教えてくれてありがとう。……恋をしてくれてありがとう」


 その言葉は瑞穂の心からのものだった。

ありがとう、何度だってそう言おう。今も、茉莉がいなくなるこれから先の未来も、ずっと。


 けれど、最後に大好きが言えないのは、どこまでも捻くれた自分らしいように思える。


 そうして瑞穂は決意をする。

そして彼女ができるだけ苦しまないように、首を切る。


 けれど骨が堅く、完全には首を断てない。

 力を込めた一太刀。


 血飛沫が瑞穂の服を真っ赤に染めた。

 顔の半分も真っ赤になる。溢れる赤い液体はベンチも、その下のコンクリートまでも赤く染めていく。


 じわり、じわりと侵食し、それは瑞穂の足元まで届いた。血液独特のえぐみのある匂いが、蒸した夏の匂いに混じっていく。


 すると、茉莉が薄っすらと目を開いた。そして聞こえるか聞こえないかの、掠れた声で言う。


 「本当に、最後……だっ、たん、です、ね……」


 言葉はうまく繋がっていないけれど、瑞穂にはちゃんと届いている。


 「きっと、みずほさんことだから……わたしの殺し方を、見つけてくれたんでしょう? わたしには、わかり、ますよ」


 さすがですね、と言う。

 ほんの少し、妙な間があった。


 ややあって、「あぁ」と言う。


 何をしようとも抑えられなかった。

 本当はこんなことはしたくないのだ。


  そんな風に素っ気なく言うことしかできなかったのは、溢れる涙のためだ。その声が震えて聞こえたのは、溢れる涙のためだ。

 その涙を返り血が隠す。


 「さすが、ですね」と血濡れた顔が笑う。

 「でも、すごく寂しい。ずっと、みずほ、さんと、生きていたかったなぁ。むり、です、けども」


 血を吐き、でも言葉を紡ぐ。


 「ずっと、わたしの、ため、だった、んですね。……ありがとうご、ざいます……」


 そんな風にして苦しむ姿は見ていたくない。

 でもこれがもしかすると最後になる可能性があるから、絶対に忘れることのないよう目に焼きつける。


 「わたし、楽しかった、ですよ。いっしょに、歩いたり、山にのぼったり、水族館にいったり、花火をしたり。全部、わたしの、ためでしたもんね。ふたりでいるだけで、すごくすごく、楽しかった」


 あぁ、楽しかったなぁ、と言う。


 茉莉の言葉と共に瑞穂は記憶を辿る。


 それは夏の思い出。二人で作った思い出。絶対に忘れてはいけない思い出。それらを遡り、瑞穂はその時間が、心の底から楽しかったと思えた。それは茉莉が、瑞穂が、決して叶わぬと思いつつ、でもやっぱり憧れた青春の日々のよう。


 茉莉の真っ赤な顔に、それを洗い流すようなものが流れていく。

 「あぁ、言い、たい、ことが……いっぱい、だなぁ……」


 目元にゆっくりと手を置き、掠れた声でそう言う。

 けれどそれらは、残された時間がそう長くはないことを示している。


 「もしも、もしもですよ。わたしたちが、普通に生まれて、普通に育って、普通に生きていたのなら。わたしたちは……こんな風にして、出会えたんでしょうか……?」


 「分からない」

 瑞穂はそう言う。

 「でも多分、出会えるよ。いいや、多分じゃない。絶対に」


 「なん、だか、それって……運命の出会い――み、たい、ですね」


 茉莉はそう言って笑う。


 言いたいことがあるんです、と茉莉は言葉を繋いだ。


「ねぇ、瑞穂さん」そう言って手を伸ばす。


 けれどその手の伸びた方は瑞穂がいる方向ではなかった。そしてすぐにその手は力なく降りる。


 それから待っても茉莉は声を出さなくなり、そこで茉莉の意識は途絶えた。


 茉莉の身体は、無意識化で切ったためか、すぐには繋がろうとしない。


 それまでには少し時間があるようだった。


 瑞穂は涙で頬を濡らし、これ以上は進みたくはないと思いながら、けれどもその手を、その意識を、止めようとはしない。


 誰が何と言おうと、これは茉莉のためなのだ。

 たとえ茉莉が否定しても、茉莉のためだと言おう。


 茉莉の意識が途絶える直前に「大好き」と聞こえた気がした。


 だから瑞穂も、真似をするように、涙で声を震わせながらこう返した。


 「俺も大好きだ」

 そしてうん、と頷いて言う。

 「また会えるよ。絶対に――」





 瑞穂はその夜、茉莉を殺した。


 再生しないように細かく切り刻んだ後、切り口をバーナーで炙る。そして火を通す。


 瑞穂は茉莉を食べた。


 一片たりとも残さず。


 まるで身体に宿すように。


 二人で生きていくように。その運命を分け与えてもらうように――それがたった一つの正解だ。


 なんて皮肉な話なのだろう。


 たった一人で生きてきた、たった一人で生きていかざるを得なかった彼女が死ぬ方法は、無意識下で、意識外で、誰かの手によって殺してもらうことだったのだから。


 そして瑞穂は後を追うように死のうとする。


 しかし、手首を切っても、頸動脈を切っても、心臓を刺しても、身体をバラバラに切り裂いても、何をしてもできなかった。


 結局、いつまでたってもそれはできなかった。


 瑞穂は、潰した身体が繋がりゆく中で、茉莉はずっと、こんな気持ちだったのかと思う。



  

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