9-1 永遠でありますように


 茉莉がいなくなっても瑞穂は冷静なままだった。


 茉莉の記憶を取り戻すことにかこつけて、父親から逃げたも同然だったから、瑞穂には茉莉を追う資格がない。

 そんな態度ではいなくなったのも仕方のないことと言える。


 彼女の気持ちなんて瑞穂が理解してあげられるわけがない。

 瑞穂にしか理解できない苦悩があるように、彼女には彼女なりの苦悩があるのだから。


 だから瑞穂は茉莉を諦めた。


 もう死んだっていいじゃないか。瑞穂にはもう何もない。けれど死ぬ場所くらいは選びたい。人生史上最も楽しかった思い出は、そこにあるのだから。

死に場所を求め、そうして瑞穂は岩船を目指す。


 茉莉がいなくなっただけだ。


 色々なことを考えたけれど瑞穂が死のうとしていることは変わらないし、岩船のあの公園で死のうとしていることも変わらない。

 目的地は変わらないから、茉莉がいなくなったところで行動を変えるということはない。


 一人で歩く夏の道はどうしようもないほどに退屈で、まるで一分が一時間のように思えた。


 ふと歩いてきた道を振り返ってみる。

 しかしたったの三百メートルほどしか進んでいない。そんなようなことがよくあった。


 内容のない話を聞いてくれる相手はいない。

 内容のない話をしてくれる人はいない。

 けれど茉莉と二人で歩いていたところで、ずっと話しているわけではなかったから、考えようによっては今と何も変わらないと言える。


 ただ隣に茉莉がいるかいないか、それだけの違いだ。

 けれど少しだけ違和感がある。

 たとえ何も話さなくても、何もしていなくたってそこに茉莉がいたのだ。


 けれど今はいない。あるものがなくなっただけ。

 違和感の正体はそれだろう。





 まったくの無風だった。


 歩いていても、立ち止まっても、耳を塞いでみても、その違和感は無くならなかった。

 それどころか違和感は虚無感へと変わり、瑞穂の胸に穴をあけた。それが歩くたびに大きくなっていく。


 この気持ちは一体なんなのだろう。

 それが胸にある限り、真夏の青空とは対照的にどこか曇ったような気分になる。


 茉莉がいなくなったのは仕方がないことなのだ。


 居もしない神様が、茉莉は関わるべき存在ではなかったのだと言っている。

 茉莉は世界を知ってしまい、不幸になった。

 そう言っている。


 その通りでしかなかった。


 茉莉は瑞穂と出会ったことで、たくさんの可能性を知ってしまった。

 可能なことから不可能なことまで、本当に様々。


 茉莉に外の世界を教えたのは瑞穂だ。

 届かない手を伸ばさせたのは瑞穂だ。


 彼女のことを想うなら、瑞穂は茉莉に二度と会うべきではない。


 こうして別れて、彼女がまた記憶を失って、どこかの地でやり直すことを願うべきだ。


 頭ではそう理解している。


 けれど瑞穂の心は、本当にそれでいいのかと問いかける。


 ――茉莉のためを想うなら、俺は一緒に居るべきじゃないんだ。


 茉莉のため? どうしてお前はいつもみたく自分勝手に動かないんだ。本当は茉莉を追いかけたいんじゃないのか? 

 でも怖いから、動けないんだろう? 

 茉莉のためとか言ってみても、突き詰めればお前は、どこまでも自分勝手なんだな。


 そんな風にして頭の中の自分が言う。


 ――そうだ。俺はずっと自分勝手だった。ありもしない青春に縋って、齋藤のことを全く考えて接しなかった。本当に自分勝手な人間だ。


 立ち止まって、自分自身に言う。


――でもどうしてだろうな。今はその自分勝手が怖いんだ。


 その自分勝手で散々傷ついた。

 だから塞ぎこんだって別に構わない。俺は止めない。けれど少しくらい、他人のことを見てみてもいいんじゃないか? 

 他人の視点に立って、考えてみろよ。


 そこで瑞穂は、どうして茉莉が姿を消したかを考える。しかし結論らしいものはあまり浮かんでこない。


茉莉の行動から好意らしきものを感じていたから、嫌われていたなんてありえない。

 どちらかと言えば、時間を共有することを楽しんでいたようにも見えた。


 嫌われていたのなら、そもそもの話、旅なんてしていないだろう。


 それなのになぜ。


 茉莉の立場に立ってみる。

 ふと、瑞穂に何らかの影響を与えてしまうからだと考えた。するとすぐに何かが繋がった。


 瑞穂に害が及んでしまうから。

 そうだとして、どうして今になっていなくなったのだろう。

 その理由としては一つしかない。


 茉莉は記憶を取り戻したのだ。


 そこに瑞穂と関わってはいけない――というよりはそう思うようになった過去の経験が含まれていたのだろう。

 それは茉莉なりの優しさだったのだと気づく。


 それならなおのこと、茉莉を探すべきではないのだろう。


 そうか、と瑞穂はしゃがみこんだ。


 熱を十分に含んだコンクリートは、瑞穂の身体を熱していく。頭上からの熱も、瑞穂の水分を奪っていく。

 けれど瑞穂は別のことに熱中していて、そんなことには気づく様子もない。


 会うべきではない。

 茉莉の立場になってみた今ならば、茉莉がどこにいるかをなんとなく分かる。


 そこに行くということは、つまり出会ってしまうということになる。茉莉の厚意を無駄にすることになる。


 だから死のうとするのなら、瑞穂は別のところで死ななければならない。


 瑞穂は海に潜って死のうかと考える。

 あるいは切り立った断崖から飛び降りるか。そうすれば確実に死ねる。

 苦しむ余裕もなく死ねる。


 でも、本当にいいのか?


 死にたい理由を思い出してみろと別の自分が言う。


 それはこの世界を諦めたからだ。


 でも今考えてみれば、諦めるには少し早い気がする。


 瑞穂の勝手な妄想でしかないのだけれど、もしも瑞穂のことを考えて茉莉が離れてくれたのなら、少し嬉しいような気がした。


 会いたい。

 だからこそ会いたい。


 自分勝手でいい。

 ようやく自分勝手でも受け入れてくれるような相手が現れた。


 待ち望んでいたわけではない。おかれた状況だって何一つとして違う。

 けれど茉莉の心情は何となく理解できた。


 きっとそれは、瑞穂が、茉莉が、社会から外れた方の人間だったからだ。


 今より未来、もしくはもっと過去の話、茉莉のことを理解して、受け入れていた人間はいるかもしれない。


 けれどこの『今』において、茉莉に寄り添ってあげられるのは瑞穂だけなのだ。


 茉莉の厚意を無駄にしても、茉莉に会いに行く。


 会いに行きたい。理屈でなくて、心がそう言っている。


 もしもそのせいで瑞穂の命がなくなってしまうとしても、それで死ぬのもかえって青春ドラマのようで面白いと思う。


 人生を終わらせるにはまだ早い。

 自分にはまだ、やることがある。


 瑞穂は立ち上がる。そして再び歩き出す。


 茉莉がいるところなんて、茉莉が向かっているところなんて、一つしか考えられない。


 遠くの海辺で潮風が吹きはじめた。





 瑞穂は走った。


 肺をひゅうひゅうと鳴らしながら、腕を振り、足を回し、首を振り、必要なものを抜いてリュックを投げ捨て、夏の道路を走った。


 セミの鳴き声も、海岸線道路に吹く風も、うだるような暑さも、そして太陽の眩しささえ置き去りにして、瑞穂は全力で走る。


 茉莉は死ねないから、この間にも死んでしまうなんてことは、万が一にもあり得ない。


 けれどこの高まる鼓動が、早く会いに行けと言っている。きっとそれは、走って酸素が足りなくなっているためだけではないだろう。


 この鼓動は彼女を求めているのだ。

 体力が著しく低い瑞穂にとって、岩船までの道のりは苛酷だった。


 走って、苦しくなったら歩いて、呼吸が安定したら走って、また休む。その繰り返し。


 そうして少しずつでも進んで、辛くても歩みを止めないで、決して立ち止まろうとはしなかった。


 ふと、青く四角い標識が見えた。

 どうやら『岩船』は、この道を左折するらしい。


 今まで岩船なんて単語は看板に出てこなかったから、着実に近づいていることを実感できた。


 そこから二時間ほど歩いて、ようやく見知った道に辿り着く。

 ここまではほとんど海岸線に沿って歩いてきたので、茉莉を追い越したなんてことは有り得ない。


 瑞穂が眠っている間に居なくなったのだから、きっと先に帰ってきているはずだ。

 早ければ今朝には到着していたかもしれない。


 瑞穂は今朝目を覚ましたところから約十三キロの道のりを歩いた。


 途中、薬局に寄って残った金で、ある買い物をした。太陽は傾き始めている。

 でももう少し。嫌な町に帰ってきてしまったけれど、茉莉に会える。


 そう思えば疲労の貯まった瑞穂の身体も、少しは元気が出た。


 そうして瑞穂は、大嫌いな町へと戻ってきた。

 自分自身の心に従うために。

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