8-4 不幸宣言
それ自体は何ら悪いことではないと思う。
実際問題、そういった人が多くいるのだから、どちらかと言えばそれを許容できない社会の方が問題なのだ。
Ⅿの生活はとても不便そうだった。
以前のようにⅯが気に入っていた公園に気軽に行くことができなくなったし、学校にも行けなくなった。
ただでさえ狭かった交友関係は尚更狭くなった。
そして悪いことに、ここは閉鎖された社会だったからすぐに噂が広まる。
それも事実とは全く異なって。
きっとあの三人が何かしら都合のいい情報を付け加えたのだ。
そして茉莉は、人間とはなんて醜い生き物なのだろうと思った。
事実を見れば間違いなく被害者であるはずのⅯは、どうしてだろうか、岩船の町のみんなから冷ややかな視線を浴びせられることになった。
そしてそれはⅯの家族にも向けられた。
どうしてⅯから何も話を聞かずに、ただ避けるのか。
確かにⅯは悪いことをした。それには茉莉も加担していたから、Ⅿが悪いというよりは、茉莉の方がずっと悪いような気がする。
しかしそれでも人を差別していい理由にはならない。今までずっと被害を受けていたのはⅯの方なのだ。
一度やり返しただけでこんな仕打ちを受けるのは違うだろう。
身体が動かなくなったからといって、避けるのはおかしい。
少しくらいは助けてくれたっていいではないか。茉莉とは違う。
Ⅿはあなたたちと同じ人間ではないか。
そう思っている茉莉の認識は、町のみんなの認識と、まるで太陽と月のように正反対だった。
茉莉は小さな宿に泊まり、時折Ⅿの家に泊らせてもらったり、野宿をしたりして、岩船の町に滞在し続けた。
そうしていたある日の事、茉莉はⅯの家にお邪魔させてもらっていた。Ⅿは右手で伸びた髪の毛を掃うと「公園に行きたい」と言った。
「大丈夫なんですか?」
「僕は大丈夫だよ」
と筋肉を見せつけるような動きをする。けれど左腕は動かない。
「茉莉が連れていってくれるならね」
「でも……」
もし勝手に連れて行って、怪我をさせてしまったなんていったら、申し訳が立たない。なんて言って謝ればいいか分からない。
すると部屋の奥からⅯの母親が現れて言う。
「茉莉ちゃん。連れて行ってくれると嬉しいんだけど。家にいてⅯが余計なこと考えちゃうよりも、二人で出かけた方が楽しいと思うわ」
にこやかな表情で言った。
しかしその言葉の裏には、二人で出かけてきな、という意図が含まれていることを茉莉は見抜く。そういうことにはいつも鋭いのだ。
「そうですね。じゃあ、行きましょうか」
振り向きざま、Ⅿの母親は「行ってこい」と背中を押してくれた。
そうして茉莉はⅯの車いすを押して、あの公園へと向かう。
*
「久しぶりに来たけど、やっぱりここはいいなぁ」
Ⅿはそう言うと、陽射しを遮るように目の上に手を置いた。
「けど少し暑い」
季節は夏に向かっており、気温は以前よりもずっと上昇している。
ぎらぎらと光る海と雲一つない空、そこに浮かぶ大きな太陽がもうすぐ訪れる夏を思わせた。
「変わらないですね」
少し妙な間があった。
それからⅯは気を遣ったように声を抑えて「そうだね」と言った。
その間に茉莉はどことない気まずさを覚える。出会った時から今まで、一度だって感じたことがなかったのに。
けれど茉莉はそれを見ないふりをして、取って付けたようにして「そういえば」と言葉を続ける。
「知っていましたか? たんぽぽって食べられるんですよ?」
向こうに咲いたたんぽぽの花を差した。
「何の話をしてるの?」
Ⅿは小さく笑う。けれど昔のように、目元にしわを寄せては笑わない。
「食べ物の話ですよ」
「じゃあ茉莉はたんぽぽを食べて生きてきたわけだ」
「いや、別にそういう訳じゃない、こともないですけど……。まぁたんぽぽの味は悪くないですからね」
「ふぅん」
Ⅿはそう言うと、景色を眺めて、そのまま黙った。
しばらくの間そうしていた。
茉莉はそんなⅯを真似て、同じように黙って景色を見た。
ふと気づいたら、太陽が三つ分ほど動いていた。気づかないうちに大分時間が経ってしまったようだった。
「ねぇ」
「どうしたの?」
「Ⅿはさ、辛くないですか?」
そう言ってから、訊いてはいけないことを訊いてしまったと思った。
思ったように動けないⅯが、当たり前のように動ける時を知っているⅯが、辛くないはずがないだろう。
「僕にはさ、もう何もないんだ。だから辛くはないかな」
そんな風にして笑う。それは随分と乾いて聞こえた。
意外にもはっきりとした答えが返ってくるから、茉莉はなんて言えばいいか分からなくなる。
辛くはないけれど何もない。
Ⅿが望んでいたことは不幸な形でも叶えてしまったし、そこから先に進むには決して一人では行くことができない。
それはあまりにも可哀想ではないか。
茉莉は返答に悩んで、絞り出したように「そっか、そうなんですね」と言った。
心では色んなことを思っていても、そんな風に単調な返答しかできない自分が憎かった。
やがてⅯは帰ろうかそう言った。
何か言えたらいいのに。けれど言葉が浮かばない。
茉莉はただ「はい」とだけ言う。
そうして茉莉はⅯの車いすを押して公園を後にする。
背中から濃密な潮風を感じた。
気候や季節が変わっても公園は変わらない。
だと言うのに、茉莉は前のようには振舞えないのだと悟る。
そしてそれはⅯの方も同じだった。
知ってしまった。変わってしまった。分かってしまった。
砂浜の城が波にさらわれるのと同じく、失ったものはもう戻らないのだと悟る。
*
それから数日して、茉莉はⅯの家を訪れた。
夕方の事だった。玄関の戸を開け「こんにちは」と言う。
しかし返事はない。
留守なのかと思い、靴を見てみる。普段よりも靴が少なかった。
どうやらⅯの家族はいないらしかった。しかしⅯの靴はある。
声が返ってこないということは眠っているのだろうか。
茉莉は慣れたように、Ⅿの家へと上がる。
廊下を歩いていると、やけにしんとしていることに気づく。
隅だけに夕陽の差し込む廊下はどこまでも不気味で、まるで異界にでも迷い込んだかのようだった。
そしてリビングに入る。
しかしそこには誰もおらず、無音だけが残されていた。
それから縁側やⅯの部屋や、家族の部屋まで探した。
けれどⅯはいなかった。
きっとⅯは家族と出かけたのだ。
茉莉はそう思い、帰ろうと廊下を歩いていたところで、水滴がしたたる音が聞こえた。
初めは雨でも降り始めたのかと思ったが、しかしあまりにも一定のリズムを刻んでいるから、それが雨ではないと気づく。
音は、茉莉が唯一探していない部屋――風呂場から聞こえる。
嫌な予感がした。
いいや、実を言うと今よりもっと前から、さっきこの家に来たときから、茉莉は何となく気づいていた。気づかないふりをしていた。
風呂場の前に立つ。水滴の音はより大きく聞こえる。
ここにⅯがいませんように。そう願って、茉莉は震える手でその扉を開ける。
それを見て茉莉は目を見開き、それから俯いて小さく笑った。
「そっか、そうですよね――」
そして、ごめんなさいと謝るその先には、真っ赤な浴槽と、何者かが入っていただろう人間の抜け殻が落ちていた――そう表現するのが最も適しているように思えたのは、それがⅯだと思いたくなかったからだろう。
手を取って息を確認する。しかしもう――
「――ねぇ……」
現実が幻か、Ⅿが微かにそう言った。
「なぁに」
茉莉は寄り添うように応える。
しかしいつまでたっても、Ⅿの声は返ってくることはない。
茉莉はⅯの頬を優しく撫でた。
それから唇に指を這わせる。たとえどれだけ愛した人であろうと、死はどうしようもなくあっけないものだな、と思う。
一縷の涙が頬を伝った。
そして茉莉は、今まで伝えていなかった「茉莉」という人物について語る。
それがⅯに向けてできる、精一杯の誠意だと思うから。
本の読み聞かせのように穏やかな、しかしどこか悲しさを含んだ声が反響する。
誰一人としてその話を聞く者はいなかった。茉莉一人を除いて。
*
Ⅿ。
一緒にいて心から楽しいと思えた人。
ただ時間を共有するだけで楽しいと思えた人。
初めて恋をした人。
でも手を差し伸べるべきではなかった人。
不幸にしてしまった人。
夢を与え、夢を奪ってしまった人。
全てを奪ってしまった人。
わたしが愛した、出会うべきでなかった人。
わたしは不幸を呼ぶ。こんな普通でない人間が、誰かと関わるべきではなかった。絶対に出会うべきではなかったのだ。
そこまで記憶を辿ったところで、彼の名前からノイズが消えた。
あぁ、そうだった。記憶が正しければ、十月生まれの彼の名前は――一面が金色に染まるあの風景に由来していたのだった。
そんな風に言えば聞こえはいいのだけれど、つまるところそれは、永遠に避けられない運命でもあるのだろう。
運命とは決していいことばかりではない。
避けようがないから、運命なのだ。
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