1-2 最不幸宣言

 やがて瑞穂は小学校に入学した。


 小学校は保育園とは異なり、学業の成績が求められる。その中でたった一つ、瑞穂は才能と呼べるかもしれないものを見つけた。


 それは勉強だった。


 田舎町であるため、一クラス当たりの人数が少なかった。

 そのため比較対象も限られる。けれど瑞穂の在籍していたクラスでは当たり前のように一番の成績を収められたし、教科書に書いてあることが全て回りくどく見えるくらいには、先生の言うことを理解できていた。


 自分のことを天才だとは思わなかったけれど、人よりも頭がいいことは自覚していた。


 それと同時に、どうしてこんな簡単なものもできないのだと、周囲のクラスメイト達をどこか蔑んだ目で見ていた。

 簡単な話、瑞穂は驕っていたのだ。


 それこそが、その頃瑞穂が最も嫌悪している父親と同じ思考であることに、当時の瑞穂は気づかない。


 ある日の算数の授業のこと、瑞穂は算数の問題が解けなくて困っている子に、解き方を教えた。彼にひとしきり教え終えた後、その子は「みずほくんって、なんでもしってるんだね」と言った。


 瑞穂はそれを皮肉とは受け取らずに、ただの感謝の言葉として受け取った。その頃から既に瑞穂は浮いていたのだ。瑞穂が内心で他人を見下していることは、瑞穂が思っていたよりも態度に現われていた。


 けれど勉強において瑞穂がクラスで一番優秀な成績を収めていたから、誰も文句は言わなかったのだ。


 小学三年になると、教師不足により、元々二クラスしかなかった瑞穂たちの学級は、一つに統合される。

 そこで瑞穂は、いかに自分が狭い世界に住んでいたかを思い知らされた。


 二年間、同じクラスになることのなかった女の子がいた。瑞穂は彼女のことをよく知っていたつもりだった。

 だって彼女は瑞穂の家の近くに住んでおり、登下校を一緒にしている、幼馴染とは言えないけれど、でも仲が良かったような存在だった。


 名を佐中ひなたという。


 瑞穂は、ひなたが勉強をよくできたなんて知らなかった。統合されたクラスの中で、ひなたは最も優秀な成績を収めた。全ての科目において。それだけでなく、人間関係という科目ですら。


 そうして瑞穂は、追いやられるように勉強においての一番の地位を失った。


 瑞穂に残ったのは、驕りだけだった。


 最も勉強ができるという盾を失った瑞穂は、クラスメイトから少しずついじめを受けるようになった。

 彼らは何か理由を付けては瑞穂を殴って、蹴った。彼らはこれまで貯めたストレスを解消するように、瑞穂をいじめるのだった。


 でも殴られることはいつも父親からされていることだから、何も苦痛ではない。普通のことだ。そう言い聞かせる。


 いじめられる中で、瑞穂は夢を抱くようになる。

 霧の中のように曖昧で、でもキラキラと宝石のように輝く夢だった。


 自分は一番ではないけれど、ひなたほどではないけれど、頭がいい。多分、天才に近い頭脳を持っている。だから大人になったらお金持ちになって、あいつらを見返してやるんだ。


 そんな風に思っていた。けれど夢を叶えるには三十五歳までの寿命では短すぎる。そう思い、瑞穂は失望する。


 でもいいさ。自分はきっとあいつらよりは立派な大人になるのだけは間違いないのだから。寿命が人よりずっと限られている自分が、幸せになれないはずがないのだ。


 そんな風に思い、また、瑞穂は彼らを見下すのだった。



 *



 それから瑞穂は小学五年になった。


 その頃、瑞穂は大人になったとき、大きな人間になろうと躍起になっていた。

 けれど勉強以外の才能がなく、自分は勉強もさほど才能があるわけではないことに気づき始めていた。

 成績は優秀なままだった。けれどそれは墜落寸前の飛行機同然だった。


 瑞穂は、周りより早く熟れた果実だった。より早く枯れるのは、早く開花した花の宿命なのだ。


 ある日のこと、瑞穂はひなたと一緒に、先生から放課後に「話がある」と呼び出された。

 話の内容は、中学受験についてだった。受けるか受けないかはまだ決める必要はないけれど、その選択肢があることを両親に伝えてほしい、と先生は言った。


 それだけのために三十分も残された。長い話が終わり、ようやく解放される。いつものように二人で帰路に就こうとして、靴を履き替え、玄関に出た。


 絶え間なく打ち付けるような音がした。帰り道は雨で塞がれていた。町は雨に濡れていた。


 天気予報では雨が降るなんて言っていなかったから、瑞穂は傘を持ってきていなかった。それはひなたも同じらしかった。


 「雨、降ってるね」


 彼女の言葉に雨音が重なる。瑞穂は「そうだね」と素っ気なく答える。


 空は不自然なほど灰色になっていて、昼間に覗かせた、ずっと向こうまで続く青空の面影はどこにも見当たらなかった。地面には打ち付けるように雨は降り注ぎ、大きな水たまりを作り、ドツドツと、小石が降っているかのような音がした。


 秋らしい唐突な雨だな、と瑞穂は思う。


 「止みそうにないな」

 「うーん、そうだね」ため息を混じらせる。「瑞穂くんはどうするの?」


 左にいるひなたが顔を覗き込ませるようにして訊いた。しかし瑞穂は、それに気づかず、雨降る町に視線を向けたまま言葉を返す。


 「晴れるまで待ってるしかないんじゃないか?」

 「そうだよね」困ったように言った。


 その頃にはひなたは身体を戻していて、真っ直ぐ雨の降り注ぐ帰り道を見つめていた。


 「ねぇ、今日はさ、瑞穂くんのお父さん、仕事で遅いんでしょ?」

 「そうだけど……家に来るつもりなのか? それは――」


 否定しようとしたところで、ひなたが更に言葉を重ねて遮った。


 「――ちがうちがう。このまま、帰らないかって話」

 「このまま?」


 意味が分からないと言いたげな表情で、瑞穂は言葉を繰り返す。


 「どういう意味だ?」

 「このままはこのまま。このまま、私たち二人で雨に濡れて帰るんだよ。楽しそうじゃない? 一回、やってみたかったんだ」


 ひなたは多分、ママに怒られるけどね、と付け足した。

 そんなことしたら父さんに怒られるだろ? と言いかけたところで、今日は残業で遅くなると言っていたことを思い出した。今日なら怒られる心配もなかった。

 けれど心の奥に、脳裏に浮かび上がる父親の姿が「行くな」と瑞穂の足を止める。


 「ううん、やっぱ怒られちゃうから」

 「そっか」残念そうに笑う。「じゃあ、雨が上がるまで待と?」

 「うん、それならいいよ」


 二人は玄関先で雨宿りをすることに決めた。

 すぐには止みそうにない雨を、ただ何をするわけでもなく、並んで見上げる。

 先程までは疎らだった雨雲も、今は空を覆いつくしていた。辛うじて向こうの山の方で、雲の隙間を縫うように光が差し込んで、木々を照らしている。


 会話のない空間で、隣にたたずむ彼女に想いを馳せる。

 常に瑞穂のずっと上にいるひなたに、内心で嫉妬していた。どうして自分じゃないのかと、羨んでいた。友達である以前に、幼馴染である以前に、瑞穂にとってひなたはずっと雲の上にいるライバルだった。


 ふと、彼女の横顔を見上げる。

 こんなに綺麗だったかと思い、今までの記憶を思い返してみる。

 けれど思い返されるのは、ひなたの背中ばかりで、どれだけ自分が彼女に嫉妬していたかを理解させられた。


 でも考えてみれば、この仲以外に、瑞穂とひなたを繋ぎとめているものは何もない。容姿端麗で、勉強も運動もできて、クラスのみんなから愛されるひなたは、勉強を除いて瑞穂とは正反対なのだ。


 瑞穂が浮いていても、一人ぼっちでないのはひなたのおかげだった。この関係を大切にしよう。こんな自分といてくれるひなたを大切にしよう。

 そう思った――。


 けれど、雨の音に紛れて告げられたひなたの言葉によって、ひなたはずっと遠く、手の届かないところにいってしまった。


 「ねぇ」ひなたは伝って落ちてくる雨を、手ですくいながら言った。

 「どうした?」

 「あのね、私さ……転校するんだ」

 「え?」


 思わず彼女の方を見る。

 打ち付ける雨音が大きく聞こえる。瑞穂が見つめていることに気づいて、ひなたは視線を瑞穂に移す。

 そしてもう一度告げる。


 「私、転校するの」


 今度ははっきりと聞こえた。

 瑞穂は返す言葉に悩み、じっとひなたを見つめたまま動かなかった。

 一台の軽自動車が校門の前を通った。飛沫の音が、どこまでも残っていく。


 視線を向こうの山に移す。

 こんな時でも、雲に隠れた山頂は幻想的だな、なんて思ってしまう。

 しばらく考えて紡ぎ出した言葉は、頭上から降り注ぐ雨のように、無機質で冷たい言葉だった。


 「へぇ。そうなんだ」

 「……瑞穂くんは寂しくないの?」

 「別に」


 食い気味に返す。そして視線を頭上の雨雲に向ける。

 それから手持ち無沙汰の視線を、じわじわと雨が溜まっていく小さな用水路に向ける。


 子供らしい強がりだった。


 でも内心では、これまでにないくらい動揺していた。父親から殴られる時よりも、余命宣告を受けた時よりも、遥かに激しく。


 たった一人の、父親よりもずっと大切な人を失うことが、どれだけ恐ろしいことか。

 そんな恥ずかしがりで強がりでもある瑞穂の心を見透かしたように、ひなたは笑って言った。


 「じゃあさ、約束しよう?」

 「約束?」

 「そう。約束」


 そう言うと、少し恥ずかしそうに視線を雨の降る空に向けて言った。

 「私は成人式には帰ってくるから――」


 その言葉に、瑞穂は俯いた頭を上げる。


 そこには、目の前にはまつ毛の長い、湿気で潰れた長い黒髪の、少しみすぼらしい服を着た可愛い女の子がいた。


 「――その時に、立派になって、また会おう」


 立派になる。ひなたの言うその言葉の、具体的な意味は分からなかった。

 けれど十年後にまた会う。そんな子供の頃の些細な約束だけで、これから先の未来にほんの少し、希望を持てた。


 こうして瑞穂の前から、たった一人の大切な人が遠ざかっていった。



 *



 それからひなたはあっという間に、惜しまれながら転校していった。

 でもほんの少しだけ、瑞穂の転校を喜んでいた自分もいた。もしかしたらいじめが無くなるかもしれないと思ったのだ。


 でも結局のところ、ひなた一人がいなくなったところで、既に根付いた習慣が消えることはなかった。瑞穂はひなたの代役になることはなく、また、これまでと何も変わることなく、いじめは横行するのだった。


 それから中学受験をし、少し遠くの中学に行き、いじめをする彼らから離れた。けれどそこでも変わらず、瑞穂は浮いたままだった。


 大学生の瑞穂にとって、たった一人の友人だった齋藤とは、この中学で出会うことになる。


 そして高校へ行き、大学へと入学した。


 小学校で見せていた勉強の才能は、すでに使い果たしていたらしく、進路を決める頃には落ちぶれていて、受験には見事に失敗した。

 その結果、志望校の偏差値を十も下げることとなった。


 大学一年の春休み、もうすぐ二年になろうとしていた時期に、中学で出会ったたった一人の友人が自殺した。


 これで瑞穂は完全な孤独となった。


 自分はなんて不幸なのだろう。死んだ友人よりも、何より自分を可哀想に思った。

 三十五歳までの限られた人生の中で、孤独であり続け、父親から暴力を受け続け、大切な人を失った。


 不幸な事ばかりで、自分にはまるで何もない。


 つい先日、たった一人の友人が自殺した時、まるで世界の中心が自分であるかのように、自分こそが世界で最も不幸な人間だと思った。


 何かを失うことよりも、失わないことの方が圧倒的に多くて、それだけに失った代償は大きい。それは自分は空っぽであると証明しているようでもあった。


 失うことのできる人間は、失う以前は満たされていたのだ。

 けれど瑞穂はその二回を除き、失うことをほとんど経験しなかった。何もない。

 だから瑞穂という人間は、何も成し遂げることはないのだ。


 そして、瑞穂がいなくなったところで、誰も何も思わない。

 たった一人の家族でさえ。



 *



 しかしどれだけ自分の人生を恨んでも、自分の人生をどれだけ可哀想だと慰めても、生まれは変えられない。生まれだけは変えようのないこと。それだけはよく知っていた。


 瑞穂はそれを、よく知っていたはずだった。

  

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