2-1 夏の終わりに

 約一年ぶりに聞いた父親の声は、随分としゃがれていたような気がした。


 電話越しであるため、少し違って聞こえたのかもしれない。

 上京する前の、記憶の中の父親の声を思い返してみる。

 しかしその声色はおろか、口調すら思い出せない。  


 どうやら冷蔵庫の奥にしまった瓶のように、嫌なものに蓋をしたまま開けられなくなったらしい。


 父親は成人式があるから帰って来いと、電話をよこした。


 元々地元には、大学を卒業するまで帰るつもりは無かったのだけれど、帰ってくるように言われたのだから仕方がない。

 成人式には何が何でも行かせようとするのが、真面目な父親らしかった。


 大学二年の春学期が終わった。

 世間は夏休みに入り、閉まっているはずの窓の向こうではせわしなくセミが鳴き、どこかで虫取りに興じる子供たちの声がこの部屋まで届く。


 そんな夏の音たちを鬱陶しく思い、瑞穂はベッドから身体を起こす。そして窓がしっかりと閉まっているかを確認する。


 外は東京であるけれど二十三区外のため、都会を感じさせない。

 穏やかな自然が見える。窓一枚隔てた向こうは、きっとうだるような暑さに覆われていることだろう。

 こんな中、帰省しなければならないことを嫌に思う。


 眩い太陽と青空を遮るようにカーテンを閉じ、部屋を暗くした。

 それからライトをつければ、たちまちこの部屋は快適なものになる。


 地元である新潟には、明日戻ることにする。

 そのために、今日のうちに帰る準備をしておこうと、瑞穂は上京して以来、ずっと使っていなかった大きなバッグを、クローゼットの奥から取り出した。


 持って行く衣服を選んでいるうちに、懐かしい服が目に入り、深く沈めた思い出が掘り返されていく。

 そして自殺した友人、齋藤について思い出す。


 「自殺か……」


 無意識のうちに言葉を零す。

 齋藤が自殺した理由は聞いていないけれど、何となく想像できた。月に一度ほど、瑞穂は電話で彼の愚痴を聞いていたからだ。


 恐らく、未来に絶望したのだろう――閉塞された、未来に。


 自分の未来を考えてみる。

 今年で二十になる瑞穂に残された寿命は、あと十五年だ。余命宣告されてから、十五年が経過した。今が丁度折り返し地点ともいえる。


 瑞穂はあの日、ひなたと交わした約束を、今でも覚えていた。

 成人式に再会する約束だ。


 それも立派になって。


 人生の折り返し地点が、奇しくも成人式にあたった。


 ひなたとはあれ以来、連絡を取っていない。中学生になり、スマホを手に入れて、探そうと思えばひなたの連絡先を見つけられただろう。

 けれどそうしなかったのは、単に恥ずかしかったのもあるが、それ以上に、約束を破ることを予感していたからだ。


 小学校に入学したての頃には輝いていた瑞穂の学力も、歳を重ね、次第に周囲との差が縮まるにつれ、輝きを失いつつあった。

 大学生になり、やがてこうなることを、早々と中学生になりたての瑞穂は予想していたのだ。


 成人式に立派になって会う。それは約束だった。

 しかしどうやら果たせそうにないらしい。


 今の瑞穂のどこを見たら立派な人間だと言えるのだろう? 

 お世辞が上手な洋服屋の店員ですら、容易には挙げられないだろう。一つ挙げられたらそれだけで上出来だ。


 それくらい、大学生の瑞穂は平凡、それよりずっと下の、どうしようもない人間なのだ。


 だから未来を考えて、絶望しても何もおかしくはない。

 あとの十五年のうちで、瑞穂はきっと何も成し遂げられやしない。

 立派になんかなれやいない。

 更にこのまま墜ちていくばかりだと思う。


 なら、今のうちに死んでしまっても構わないのではないか?


 別に瑞穂が死んで悲しむ人なんて、誰もいない。

 誰も弔ってくれない。

 だから――


 瑞穂はこの日、自らに余命宣告をした。



 *



 新幹線の扉を出ると、乾いた熱気が身体中を覆った。

 東京とは違う、日本海側特有の乾いた暑さだ。それに懐かしさを覚えながら、列に並び、新幹線改札を出る。


 一年ぶりに訪れた新潟駅は、少し歳をとったように見えた。しかし賑やかさは、まるで東京都心の繁華街を思わせる。


 瑞穂の記憶にある限り、新潟駅がここまで混みあっていることはなかったように思える。


 行きかう人で身動きがうまく取れないほどだった。

 どうしてこんなにも混みあっているのかと不満を抱きながら、人混みをかき分けて在来線改札へと向かう。


 そうしていた時だった。


 時が止まったように思えた。

 ふわりと風が吹き抜ける。

 強烈な懐かしさを覚えて、足を止めて振り返る。


 しかしそこには、先程まで瑞穂も混ざっていた人混みしかなく、そこに懐かしさなんて微塵も見いだせなかった。


 遅いと言わんばかりに背中を押され、人混みに流され、その懐かしさの正体を掴めないまま、その場から遠のいていく。

 人混みの流れが逆らうことを許さない。


 諦めて流れに身を任せて歩いているうちに、やがて目的の西口とは反対方向にある東口在来線改札へと辿り着いた。


 スマホを取り出して、時刻を確認する。


 午後一時二十分過ぎ。ここから地元まではさらに一時間ほど電車に乗る必要がある。そこからさらに徒歩で三十分かけて、ようやく実家に辿り着く。


 ふぅと小さく息を吐く。疲れたなと思いつつ、目的の五番線へと向かう。

 地元への電車は混みあうことなんて滅多にないから、座れるはず。それまでもう少しの辛抱だと、自分に言い聞かせた。 


 瑞穂は人よりも体力がない。持病のせいでもあるが、何より瑞穂は大学に入学してから、一度も運動らしい運動をしたことがなかった。

 そのため、ただでさえ人より限られた体力は、さらに減少していた。

 こういった少しの運動で、それは明らかになる。


 五番線に電車が来るまではまだ少し時間がある。それまでベンチに座り、久しぶりに訪れる新潟の空気を味わう。

 鼻から通るのは、都会の汚れた空気ではなく、自然由来の澄んだ空気だ。


 そうしていると、二人組の若い女性が瑞穂の前を通った。楽しそうに会話をしていた。通りざまに彼女らの言葉に耳を傾ける。


 「どこだっけ?」

 「何が?」

 「花火見れるの?」

 「あー、確か萬代橋だったかなぁ――」


 彼女らの話を聞いて瑞穂は、今日は八月七日。新潟まつりの日だったか、と思い出す。瑞穂は新潟県民ではあったものの、新潟まつりには来たことがなかった。それでも開催日を覚えていた自分に感心した。


 するとアナウンスが入る。ようやく電車が来るらしい。


 『十三時五十二分発。村上行が五番線にまもなく参ります――』


 それからすぐに電車が来て、瑞穂は乗車した。

 乗客のほとんどいない電車から見える景色は、あっという間に流れていく。

 収穫を二か月先に控えた、まだ黄緑色の稲穂が並んでいる。その光景は懐かしいのだけれど、代わり映がなく、ただただ退屈でしかない。


 どこまでも変わることのない流れる稲穂を、何も考えることなく見つめていた。そしてそのまま、緩やかに瞼は落ちていった。

 意識も緩やかに落ちていく。



 *



 一時間が経過した頃、目的地の駅名がアナウンスされた気がして、閉じていた瞼を上げる。しかし電車は相変わらず、稲穂だらけの道を走っている最中だった。


 時計を見てみると、到着予定時刻を数分ほど過ぎていた。

 どうやら少しだけ遅延しているらしかった。


 それに気づくと、瑞穂は意図せずに小さく表情を崩した。

 どこか実家に帰るのが遅くなることに、喜びを覚えている自分がいた。それだけ瑞穂が実家に帰りたくないと思っている、ということだろう。


 やっぱり返ってこなきゃよかったな、と思う。

 しかし成人式の先の予定を思い出して、瑞穂は地元に帰ってきた意味を再確認するのだった。


 ややあって、電車はようやく目的の岩船駅に到着した。


 大きなカバンを肩に担いで扉の前に立ち、開くのを待つ。

 警告音と共に、扉が開く。

 強烈な自然の匂いが入り込んでくる。

 それと同時に、うるさいほどのセミの鳴き声がした。


 あぁ、帰ってきてしまったんだな、と思う。


 岩船駅は実家から最寄りの無人駅だ。

 改札に自動改札が二つあるだけで、駅員も、乗客も誰もいない。

 駅から出て目の前に広がった景色は、記憶の中の姿とは随分と違っていた。


 道路は錆びたように赤く染まっており、暑さのためか、外に出ている人の姿は見えない。そんな風景を、八月らしい疎らに雲の散った青空が照らし出していた。

 それらのせいで、この町は寂しく見える。


 喉の奥に渇きを感じて、駅を出てすぐのところにあった自動販売機で、瑞穂は冷えたスポーツドリンクを買った。

 

 水滴だらけのペットボトルを手に取り、勢いよく飲む。

 乾いた喉は水分を求めていたようで、喉が喜んでいるのが分かった。冷えた液体が食道を通る。

 暑さで火照る身体が、腹の中から急速に冷やされていく。

  

 半分ほど飲んだところで、口から離し、キャップをして鞄にしまった。

 それから瑞穂はその町を、ゆっくりと、ゆっくりと歩いた。


 車がなんとかすれ違うことのできるくらいの、細い道路だった。足取りは重たい。

 一年ぶりに訪れた地元の空気を味わうわけでも、夏の暑さにあてられたわけでもなく、ただ実家に帰りたくなくて、父親と顔を合わせたくなくて、足かせが重たくなっていく。


 寂れた駅前通りを過ぎ、橋を渡り、田んぼばかりの道を過ぎ、それからまた十分ほど歩いたところで、瑞穂の足が止まった。


 子供の頃、よく見ていた景色と視界の中の景色がオーバーラップする。


 住宅街で曲線を描く道路。並ぶ一軒家の列の中で、ひと際目立つ家がある。二階建ての、さほど大きいわけではないが、洋を感じさせる高級感のある家だ。


 それが瑞穂の実家だった。


 すぐに家の前に到着する。今日は日曜日だし、事前に帰ることを連絡していたから、父親がいることは間違いない。


 家の前に立つ。そして玄関の扉を開きかけて、その手を止めた。


 やっぱり父親と顔を合わせたくない。


 瑞穂は扉から手を離し、玄関の前から離れる。

 今日のうちに帰ることにはなるのだろうけど、今はどうしても帰りたくなかった。


 逃げるように家の前から立ち去る。


 それからあてもなく生まれ育った町を歩く。


 この町は何となく歳をとったような気がした。町ですら成長をしているというのに、いつまで経っても立派になれなかった自分が、惨めで堪らない。


 ひなたとの約束は、もう果たせない。成人式に出る理由もない。

 未来もない。


 ふと、観光地すらないこの町に、たった一つだけ、とある名所があったことを思い出す。瑞穂はそれを思い出すと、その名所へと向かうことにした。


 陽は傾きかけていた。

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