2-2 夏の終わりに
その公園は小さな山の中腹にある神社を、さらに登ったところにある。
ここの地名は「岩船」という。酷く過疎化の進み、いつ消滅するか分からない、日本をみればどこにでもあるような典型的な田舎町だ。
大化の改新が起きた頃、この町の海岸沿いに「磐舟柵」と呼ばれる柵があったといわれている。
蝦夷の土地との境界線として柵が建てられ、防衛の前線としても機能したらしい。
今ではそれがどこにあったかは定かではないが、この辺りにあったと示す石碑が神社の近くにある。
目的の公園は神社の奥にあるのだが、その石碑の裏の小山を登った方がすぐに着くことを、瑞穂は知っていた。
しかし瑞穂はその公園自体には行ったことがない。
小学校の頃、同級生が休み時間に話していたのを盗み聞きしたため、覚えていただけなのだ。
小学校時代の瑞穂は浮いていたから、特に学校ですることもなく、そんな卑屈な事ばかりをしていた。
全くもって不健全な少年時代だったと思うが、大学生になった瑞穂を見れば、今と当時で根っこのところは何も変わっていないと分かる。
生い茂る木々と、水分を奪いつくすような暑さの中、耳に響くセミの鳴き声を辿り、舗装されていない、ありのままの自然の坂道を登っていく。
汗腺が広がったように、身体中から汗が噴き出る。顔の横を汗が伝う。
それを服の袖で拭い、また前を見る。こんなにしんどいのなら、来なきゃよかったと思い、足を止めた。
引き返すのなら今のうちだった。
しかし、せっかくなのだからここに来なければ意味がないと考えなおし、また足を進める。まるで不思議な引力に誘われたようでもあった。
明確にここからが公園だと示す看板や仕切りはたてられていなかったが、木々が消え、突然に視界が開けたことから、ここが目的の公園だと分かった。
振り返ってみて、歩いてきた道が木々に包まれて見えなくなっていた。随分と昇って来たものだな、と思う。
それから公園の中の方へと進んでいく。
公園はそれなりに大きい。木のベンチがいくつかあり、屋根付きのベンチもある。木が疎らに生えていたが、手の届く範囲全ての枝は伐採されていた。あるべきところに枝が無い様子は、何だかもの悲しい。
見渡してみたが、人がいる様子はない。
ここが、心なしか住宅街より涼しい気がしたのは気のせいではないだろう。瑞穂は落ちないように設置された柵に手をついて、顔を上げた。
ここからの景色は、岩船の町を一望できた。
左には、土地を余すことなく使われた水田地帯に、黄緑色の稲がずっと向こうまで並んでいる。右を見れば、どこまでも続く、キラキラと光る青い海がある。中央には豊かな自然と、閑静な住宅街があった。
瑞穂が育った嫌いな町とは、異なる様相を呈していた。
瞬間、突き抜けるような風が吹いて、瑞穂の髪を揺らす。
風が海を運び、潮の香りが鼻孔の奥まで運ぶ。
懐かしいような、悲しいような。
それでいて、温かい。
ただの風に、もっとそれ以上の何かが含まれている気さえする。
瑞穂は、その風を追うように振り返る。
そうしなければいけない気がした。
何かに追いつけない気がして。
ずっと遠くまでいってしまう気がして。
過ぎた風を追った先には、潮の香りが漂う。
そこに、少女がいた。
ワイシャツ姿に、膝丈までの紺のスカート。
身長は瑞穂より少し小さい。大体、一六〇くらい。
女子高生のような容姿の少女は、長い黒髪を風に任せてなびかせながら、瑞穂に近づいた。
「こんにちは」
少女は様子を伺うようにして言った。
瑞穂はぽかんとして、挨拶を返すのを忘れてしまう。
それだけ彼女が人形のように美しかったとか、彼女が瑞穂の見知った誰かだったとか、彼女が自分のタイプの女の子だったからとか、そういった明確な理由があったわけではない。
少女に視線を向けたまま、少女の「こんにちは」に返答しなかったのは、別のところに意識を回していて、そう言われたことが瑞穂の脳に届いてなかったからだ。
それから少しして、瑞穂は目の前の少女に、挨拶されたことを認識する。
「あ、こんにちは」
瑞穂は少し申し訳なさそうに言う。
そんな風に挨拶をしてみて、こうやって誰かと話したのは久しぶりだな、と思った。大学の講義では話すことはないし、もしグループワークになっても、瑞穂はずっと班に在籍していないかのように、黙りこくっていた。
しかし誰かと話すこと自体は苦手ではない。ただ、相手がいないというだけのこと。
それでいいのかと言われれば困ってしまうが、でもそれが自分の生き方だとも思う。
ずっと昔から、そうしてきて、今から変えるなんて無理な話だ。それは生まれつきのものなのだから。
少女は歩き出し、瑞穂を通り越した。
柵に腕を置き、身体をもたれかける。そして、柵の向こうの景色を見ながら言った。
「わたし、ここからの景色が好きなんです」
瑞穂は少女の動きを真似て、もう一度視線を岩船の町に下ろす。
「だから毎日来てるんですけど……」少女は視線を町から、瑞穂の横顔に移した。「珍しいですね、あなたみたいな人」
瑞穂は少し考えてから、そうなのか、と素っ気なく相槌を返した。
それが意味するところを瑞穂は上手く理解できなかったが、自分なりに目の前の少女は孤独で、彼女は話し相手が欲しいんだな、と理解する。
目的は公園に来て、ここがどんなものかと様子を見る事だった。しかし今の状況は、この上なく想定から外れている。こんな山の奥にある名所と呼ばれる公園に、昼間から人がいるとは思わなかったのだ。
帰ろうか迷う。
しかし実家に帰るほどの心の準備は、まだできていない。父親の顔を見る勇気はまだない。それに目の前の少女のこともよく知らない。けれど詳しく知りたいとも思わない。
少し悩んで瑞穂は、先延ばしをするように、目の前の少女と会話をすることを選んだ。
話し相手になってやろうと、ほんの少しだけ威張った態度で、瑞穂より背の小さな少女を見下ろして言った。
「なんでこんなところにいるんだ?」
「わたしですか?」
そうだ、と頷く。
「ここの景色が好きなんですよ。だから来てるんです」
先程の繰り返しではあったが、瑞穂はそれに気づかない。少女はそれを指摘することなく、瑞穂の返答を待った。
「よく飽きないな」
「ここの景色、好きですから」
少女がここから見下ろす町の景色が好きだと言うように、自分にも好きなものはあっただろうかと考えてみる。しかし今考えてみて、思い当たるものはない。
そんな趣味らしい趣味があっていいなと、少女を少し羨んだ。そして羨んでばかりで、自分にはなんにもないんだな、と思う。けれど瑞穂は、そんな自分を悲しんだり、哀れんだりはしない。
だってもう、どうしようもないから。
成人式が終わったあと、瑞穂は余命宣告よりも十五年早く、死ぬことにしたのだ。
ここは名所――自殺の名所。
瑞穂はここに、自殺の下調べをしに来たのだ。
ここが自殺の名所であることを、少女は知っているのだろうか。
「えっと、あなたはここからの景色は好きですか?」
途切れた話を戻すように、少女は次いで訊く。
「俺はこの町に住んでたんだが、この町は嫌いだ。でも、ここからの景色は確かに綺麗だ。だからまぁ嫌いじゃないのかもな」
「奇遇ですね。わたしもこの町はあんまり好きじゃありません。でも、ここからの景色は好きなんです」
少女は瑞穂の言葉を少しなぞるように言った。
「知ってるか?」瑞穂はそう切り出した。「この公園が有名だってこと」
「はい、知ってますよ。だから不思議だったんです。わたしの顔を見ても、あなた、引き返しませんでしたから」
「……どういう意味だ?」
「自殺はたいてい夜にするんです。その下見をする場合は昼間に来ます。わたしは日中、いつでもいるので、わたしの顔を見ると大体引き返していくんです。たとえ準備段階でも、自殺を見られたら面倒なことになると思うらしくて」
少女は遠くの空を見て言った。どこか望郷の念を感じさせる横顔だった。
「そういうものなのか」
「まぁ、わたしがそう思ってるだけなんですけどね」
持論だったらしいけれど、妙に納得できた。そうすると、少女が言った『珍しいです、あなたみたいな人』とは、少女の顔を見ても驚いて引き返そうとしなかった瑞穂を珍しいと言っていたことになる。
それからしばらくの間、少女と他愛のない会話をした。そうしているうちに、西の空がオレンジ色に染まり始めたので、少女よりも先に公園を後にする。
それから行くところもなく、結局実家に戻らなくてはならなくなった。
家に帰ると、父親は少年時代から高校時代に見た姿のように、素っ気なく「おかえり」と言った。
それに瑞穂はまた、素っ気なく「ただいま」と返す。
父親を怒らせないように、母親とも思えない何者かの写真に線香をあげ、手を合わせる。
そんな風にして一日は終わった。
恐れていた父親は想像よりも大人しいものだったけれど、瑞穂は、その態度こそが何より嫌いな理由なのだと思った。
その他人を見下す視線が、他人に決して興味を示そうとしないその瞳が、そして気に食わないことがあれば豹変して暴力をふるった父親が――心の底から大嫌いなのだ。
金しか取り柄のない父親を、瑞穂は一年ぶりの自室で、さらに憎たらしい存在へと作り上げていく。
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