2-3 夏の終わりに

 月曜日になったため、父親は出勤した。


 家には瑞穂以外誰もいない。時刻は午前九時過ぎで、大学生の瑞穂からしてみれば、とても健康的な目覚めだった。


 顔に張り付いた寝汗を水で洗い流し、家にある服ではなく、東京のアパートから持ってきたジャージに着替える。


 一日の予定は特に決まっていなかった。アパートにいたならば、一日中籠って適当に動画でも見ていただろうが、この家に一日中籠るのは気が滅入る。


 そういうわけで瑞穂は、財布とスマホを持ち、当てもなく家を出た。


 町を巡る。懐かしさは感じなかった。

 この土地には嫌な思い出や、思い出になれなかった思い出が、土壌の深くまで染み込んでいる。瑞穂が持つ思い出は、そんなものばかりだ。


 それらから目を逸らすように町を歩くのは困難だった。

 逃げるように思い出の染み込んでいないところへ、ところへと進んでいくうちに、気がつくと目の前には、昨日訪れた公園に繋がる道があった。


 生い茂る木々の向こうにある、自殺の名所に誘われているようだった。

 神様が瑞穂に自殺をしろと言っているようにも思う。


 瑞穂はその道へと足を踏み入れた。


 歩くこと十五分ほど。一度来たからか昨日よりも早く着くことができた。


 涼しくて快適だった木陰を過ぎて、視界が開ける。瑞穂は照り付ける太陽の元へと投げ出される。

 「暑っつ……」思わず口から漏らす。

 相変わらずセミの声がうるさい。目を空けられないほど太陽が眩しく、肌が焦げるように熱を持つ。


 瑞穂は、公園に屋根のあるベンチがあったことを思い出し、そこに向かう。

 公園の敷地に入った途端、昨日も感じたような風が吹き抜けて、伝う汗を冷やしていく。森の香りに混じって潮の香りがする。


 瑞穂は視線を小さくなった町に向けながら、ベンチに向かう。町は嫌いだけれども、この景色はやっぱり綺麗だと感じる。

 もしかすると、この町で唯一好きな場所かもしれない。そんな風に思う。


 「――今日も来たんですね」

 「うわっ!」


 突然声をかけられ、思わず身体を引いてしまった。


 「おい、おっきい声出すなよ」

 「出してませんよ」


 瑞穂の様子を気にしていないように、変わらぬ口調で言う。

 そこには昨日見た少女が立っていた。そういえば昨日、毎日来ています、なんて言っていた。本当にその通りだった。


 瑞穂は少女の顔を見ることなく、屋根のあるベンチへと向かった。それに少女もついてくる。瑞穂がベンチに座ると、少女は二人分くらいのスペースを空けて、瑞穂の隣に座った。


 瑞穂はゲームでもしようかとスマホを取り出した。しかしこの公園は田舎で高所にあるから、うまく電波が届かないらしかった。


 回線の状況を示す棒が一本しか立っていない。

 仕方ないので、適当に興味もないニュースでもみようかとブラウザを開く。

 しかし回線が悪く、スマホの画面には『このページは表示できません』との表示が現れた。


 どうしようもないので、オフラインでもできるゲームをしていたが、やがてそれにも飽きが来て、スマホをポケットにしまった。

 何もすることが無く、ぼんやりと空を見上げた。


 スマホが無ければ何もできない時代になったんだな、と最新技術に想いを馳せると共に、都会のスマホを使う人ばかりの光景を思い出す。


 一年経っても、瑞穂はそこに混ざろうとは思えず、たとえば駅で電車を待つ時、バスの中など、みんながスマホを使っている中、瑞穂一人が文庫本を読んだり、ただ何をするわけでもなく空を見上げたり、考え事をしたりしていた。


 まわりと一緒でありたくない、というのは多分、頭が良かった過去の自分に由来しているのだろう。


 けれどここには比べるべき『みんな』がいない。

 混ざる『みんな』もいない。

 それは随分と心地がいいものだな、と瑞穂は森の香りを目一杯肺に入れ、鼻と口からゆっくり吐き出した。


 昨日と違って、少女が話しかけてくることはなかった。彼女は今何をしているのだろうと、横目で見てみる。


 「……なぁ、毎日そんなことしてるのか?」


 少女はベンチに座って、向こうの海をじっと見ていた。ただそれだけ。

 瑞穂の問いに、少し疑問を含んだ表情で答える。


 「はい。たまに本を読んだりしていますけどね」


 少女は瑞穂の顔を見た。右から左へ風が吹いて、少女の髪を揺らす。不思議とそんな光景を見たことがある気がした。


 「雨の日も、風の日もか?」

 「流石に来れない日もありますよ。でもよっぽど酷い雨じゃない限りは、毎日来てます」

 「冬とか大変そうだな」

 「えぇ、それは。でも、来る価値はあります」

 「毎日来てるんだから、そうは思えないんだけどな」

 「価値があるんですよ。わたしにとっては」


 少女はまた、向こうの海に視線を送った。


 「毎日見てる景色が同じように見えても、少しずつ違いますし、季節によって色が変わる」少女が瑞穂の方を見る。「それって不思議だと思いませんか?」


 そう聞いて、瑞穂は今まで見た青空を幾つか思い返してみる。

 五月の青空と八月の青空、二月の青空はそれぞれ同じ青なのに、全く違う。

 淡い青だったり、どこまでも続く深い真っ青だったり、白の強い青だったり、様々だ。


 「言われてみたらそうだな。この青空も、冬の青空と比べたら違う」

 「そうなんですよ」


 声の調子がほんの少しだけ上がる。


 「季節で空が変わるように、毎日空は変わるんです。今見てる青空も、昨日見た青空とは違うんですよ」

 「へぇ、よっぽど空が好きなんだな」

 「することが無いだけですよ」


 少女は調子を上げて、しかし寂しげに言う。

 それから少しの間、何かを考えるように黙って、また口を開いた。


 「それにしても、よく来ましたね」

 「俺に来ないで欲しかったのか?」

 「いいえ。よくこんな暑い日に、って思っただけです」

 「それはお互い様だろ?」

 「それはそうですね」


 少女は小さく笑った。

 昨日と今日で、結構な時間を共に過ごした。その中で少女は何度か笑うことはあった。けれどそれは貼り付けたような笑いばかりで、心からの笑いではなかった気がしていた。


 目を細めて、口角を緩やかに上げる。少女の笑う顔は、太陽が反射して煌めく海のように見えた。

 誰かと話して笑って貰えたことなんて、もう随分と昔のことのような気がする。


 瑞穂はこんなどうしようもない人間だから、まわりに人が寄り付かなかった。上から目線で話しかけ、さらに自分から他人を突き放すような人間を、誰も好まないのは当然のことだ。


 誰かに話しかけられたときには、過分に気を遣われるし、心からの笑いが生まれる場所には決まって瑞穂はいない、呼ばれない、行かない。

 それが自分という人間なのだと遠ざけるから、余計に人が寄り付かなくなった。


 いつぶりだろう。もしかすると、ひなたと話したときぶりだろうか。

 気づけば瑞穂も、表情を緩ませていた。

 瑞穂もまた、久しぶりに心から笑えた気がした。


 「そういえば聞いていませんでしたね。名前、なんていうんですか?」

 「南峰瑞穂。十月生まれだ」


 流れるように言う。


 「確かに、十月生まれっぽい顔ですね。瑞穂さんって。名前からも伝わってきます。十月の稲穂は綺麗ですもんね」


 口角を上げて言った。

 瑞穂は知らぬ顔をして、訊く。


 「そっちはなんて言うんだ?」

 「えぇと……茉莉、って呼んでください」

 「まり。似合う名前だな」

 「ありがとうございます」


 そう言って軽く頭を下げる。

 出会ったばかりの日では見られなかった、流ちょうなやりとりだった。会話らしい会話だ。


 少女――茉莉は、自らを十七歳と語っていた。高校生だろう。


 それを聞いたとき、瑞穂は女子高生らしくないな、と思った。

 空を見ることが趣味で、さらにはスマホを持ち歩いていないという。そんな高校生は、日本中を探してみても滅多にいないだろう。後者の方なんか特に。


 そんな浮世離れしたともいえる茉莉は、高校生で、どうやら夏休みらしい。だから一日中、好きな公園で好きなだけ空や海などの景色を見ていられるのだ。


 彼女と趣味や興味を持つものは、正反対だった。けれど会話はそれなりに弾んだ。茉莉は、これまで出会ってきた人々とは異なり、瑞穂に余計に気を遣っている印象はなかったからだろう。彼女には話しやすさがあった。


 それなりに会話が弾んだとはいえ、それはあくまで普段の瑞穂と比較した場合だ。 

 普段から瑞穂は会話なんてしないから、会話が成立している時点で、弾んでいるといえる。


 でも、こうして話しをすることが楽しいと思えるのだから、まだましな方だとは思う。



 * 


 その日から瑞穂は、公園に通うようになった。

 次の日、また次の日、その次の日と公園を訪れる。


 契機は、茉莉に出会ってから五日目の事だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る