6-2 夏の終わりまで
「本当に本が好きなんだな」
「はい」と、茉莉は恥ずかしそうに俯いて言う。
茉莉の部屋は和室だったのだけれど、よく本やらチラシやら、よく分からないもの散らばっていて、そこが和室だと認識するには時間を要した。
「らしくないな」
そんな部屋を見て、瑞穂はそう言った。
「うるさいですよ」そう言う茉莉を瑞穂は見ないふりをした。
おおよそ七畳くらいの部屋で、畳はそんな具合で姿を見せない。
小さな窓から入る光は部屋の温度を上げている。
小さなテレビと敷布団があり、部屋の壁には本棚がびっしりと並んでいる。
文庫本から単行本まで、様々だ。
ジャンルも小説だったりエッセイだったり、専門性の高そうな学術書まで、幅広く揃えられていた。
本が好き、という感じだった。
瑞穂はそのうちの一冊を手に取る。文庫本だ。
「あ、それ。いい本ですよ」
「これか?」
手に取った文庫本の表紙を見る。
夏の町で、男女があてもなく彷徨っている感じだ。
「どんな話なんだ?」
「簡単に言うと、よくあるボーイミーツガールです」
「ボーイミーツガール?」
そっくりそのまま繰り返した。
「はい。男女が出会って恋をして、けど色々困難が降りかかったり、あるいはそのまま結ばれたり――みたいな話のことをそう呼ぶんです」
「へぇ、そういうのってボーイミーツガールっていうんだな」
なら、今まで読んできたあの本も、ボーイミーツガールにあたるのだろうか。
そんな風に考えながら、本棚に本を戻した。
「そういえば青春ものが好きって、前言ってたしな」
「はい、好きなんです。わたしもそんな恋をしてみたいな、って」
憧れを含んだ視線を、窓の外の青空に向ける。
「ボーイミーツガールって、なんで『よくある』かというと、それはみんなの理想だからなんです。もしくは夢でしょうか。その理想に、わたしも魅入られてしまったんですよね」
その言葉にも憧れが含まれているが、しかしもう一つ、瑞穂はそこに諦めも含まれていたように感じた。
それは自分が普通ではないということに起因する。
茉莉は普通ではないから、どうしても異常な生き方をせざるを得ない。そこには「よくある」なんて常識は通用しない。
「よくある」は多くの人が経験、または想像する普遍的な物事なのだ。
普通ではない人間はいつだって蚊帳の外にいる。
普通の人ならばその機会は与えられる。しかし茉莉にはその機会すら与えられないのだ。
それが普通でないということ。
それからしばらく、茉莉のお気に入りの本について語り合った。
紹介する本のだいたいがボーイミーツガールで、その中には瑞穂の好きな本もあったから、時を忘れて語らうことができた。
しばらくして茉莉が思い出したように言った。
「あ、そういえば手帳を見せるんでしたね」
「あぁ、そうだったな。でも別に急ぐ必要はないぞ」
「そうですか? でもせっかくですし、今探しますよ」
瑞穂としてはもう少し話していたかった、という意味で言ったのだけれど、どうやら伝わらなかったらしい。
そういうことははっきり言わなければ伝わらないのだけれど、だからといって、はっきりと「もう少し話していよう」なんて言うのは気が引ける。
まるで誘っているような言い方に聞こえる。
茉莉は散らかった紙の山をかき分けてタンスまで辿り着く。
そしてその中から、使用感のある小さな黒色の手帳を取り出した。
「これです」
そう言って瑞穂に手帳を投げた。
「キャッチしてくださいよ」
空中でページが開き、失速したが、瑞穂はなんとかキャッチに成功する。
「雑だな」
「別に今日まで意味のないものでしたからね。わたしにとってはゴミ同然です」
瑞穂は散らかった紙を退けてスペースを作り、そこに座った。茉莉も瑞穂の隣に腰を下ろす。
そして手帳を見る瑞穂を覗く。
手帳の表紙を開く。
そこにはメモが書かれていた。
内容は本当に取り留めのないことばかりだった。今日はどこに行っただとか、道に迷っただとか。さらには「凄い」だとか「怖い」だとか。
まるでSNSの投稿ようにも思える。しかしその情報は、これからの旅先を決めるのには役立ちそうだった。
そして、瑞穂の意識はそれ以外のことに向いた。
「茉莉って字汚いんだな」
「別にそんなものはどうだっていいんですよ。早く次のページ行ってください」
茉莉は恥ずかしそうに誤魔化す。
それから瑞穂は手帳の内容を読んだ。大まかにではあるけれど二回、読み直した。
一度では理解できないことも、読み直すことで、すっと頭に入ってくる。
「何か分かりましたか?」
「あぁ、だいたいの行く場所を決めた」
「そうなんですね。この手帳も少しは役立ってよかったと思います。今までわたしの知らないことばかり書かれていたから、少し怖かったんです。だからタンスの奥にそっとしまっておいてたんですよ」
「そうか、よかったな」
瑞穂は同情するわけでもなく、ただそう言った。
それからまた手帳に目を通す。
ややあって瑞穂は「少しトイレ借りてもいいか?」と言う。
「はい、案内しましょうか?」
「頼む」
そうして二人はトイレに向かった。
道のりは大したものではなく、部屋を出てすぐに階段を降りて、右に曲がればそこがトイレだった。
「ここです」と茉莉は言う。
「ありがとな」
「では。先に戻ってますので」
「あぁ、案内ありがとな」と返事をする。
瑞穂がトイレに入ると、階段を登る音がした。言った通り、茉莉は先に部屋に戻ったようだった。
用を足し終えて、部屋に戻ろうとする。
階段に足をかけたとき、突然後ろから声をかけられた。
驚き、心拍数が瞬く間に早くなる。
「あんた、茉莉の友達かい?」
瑞穂は数段登った階段を降りて、「はい、そうです」と言った。
「茉莉の友達の瑞穂と言います。お邪魔しています」
「礼儀正しい子だ」と目の前の老婆は微笑んだ。「それにしても……茉莉が友達を連れてくるなんてねぇ。そんなこともあるもんだ」
感慨深そうに言う。
瑞穂は茉莉から話を聞いていたから、目の前にいる老婆が、茉莉の言っていた「おばあちゃん」なのだとすぐに理解する。
そして彼女は、「ありがとね」と言った。
「いえ、別に。そんなつもりじゃないですから」
「茉莉に友達ができるだけで嬉しいんだ。だってあの子は変わってるから、誰にも相手にされない。けどさ、誰よりも優しい子なんだ。それを分かってくれる子がいるだけで、あたしは嬉しいんだよ」
その言葉で、今までの茉莉の行動の中に、自分を思ってのことも多くあったのだと、瑞穂は気づく。知ってはいたけれど、気づいていないことの方が多かったのだ。
たとえば齋藤の家まで着いてきてくれたのもそうだし、「髪を切れ」と、容姿について指摘してくれたのも茉莉だった。
さらに言えば、瑞穂の話をまともに聞いてくれた人は茉莉が初めてだったような気もするし、その話を聞いて、否定をしなかった人も茉莉が初めてのような気がする。
茉莉はやっぱり他人想いな人間なのだと再認識した。
だからこそ悲しく思う。
普通に生まれていればな、と。
けれど瑞穂が一番理解している。
生まれは変えられないのだと。そう分かっているからこそ、やっぱり残念に思う。
「茉莉をよろしく頼むよ。あたしはいつ死ぬか分からんからね」
と、老婆らしく笑いながら言った。
瑞穂は「はい」とだけ返す。
瑞穂は茉莉の部屋に戻る。
「遅かったですね」
「茉莉のおばあちゃんに会って、少し話してた」
「そうなんですか。いい人でしょう?」
「あぁ、すごく茉莉のことを考えていた。いい人だよ」
「よかったです」
それからまた他愛のない話をして、やがて太陽は沈み始め、空の色が薄くなり始める。
時刻は午後四時半を過ぎた頃。
そろそろ行くかと、瑞穂と茉莉は部屋を後にする。
瑞穂が玄関で靴の紐を結んでいると、茉莉が「少しおばあちゃんのところに行ってきます」と言い、奥の部屋へと向かった。
五分ほどして茉莉は戻ってくる。
当然だけれどその頃には靴を履き終えており、瑞穂はただ薄っすらと聞こえる茉莉とおばあちゃんの話声耳を澄ませていた。
おおよそ何について話していたかは分かった。
内容を聞かなくても、なんとなく推測できた。けれど知らないふりをして、茉莉に訊く。
「どうしたんだ?」
「少し言ってきたんです。十日くらい家を空けてもいいかって」
「大丈夫だったか?」
「はい。そもそもあたしは部屋を貸してるだけだからね、と言われて、確かにその通りだなぁって。わたしはいつでも自由に出入りしていいんだそうです」
「よかったな」
居場所があって、という意味を含めて言う。
茉莉は「はい」と、いつもより調子を上げて返した。多分その含めた意味が伝わったのだろう。
それから茉莉も靴を履き替えて、二人で家を出た。
少しの間だけれど、旅が始まる。
たった十日間のうちに茉莉の記憶を取り戻すことができるとは、瑞穂は思っていない。
けれどもしかしたら、その小さな小さな可能性があるのなら、できることはやりたい。
自分よりもずっと不幸に生きてきた人。
もちろん、そのおおよその形は生まれで決まってしまうから、先の未来を変えることは難しい。
その可能性は、言ってみれば川の中から砂金を見つけ出すようなものだ。
けれど可能性はゼロではない。
生まれによって定まらない。人生は変えられる。
瑞穂はそれを証明したいのだ。
そして何より、茉莉に幸せになってほしいから。
自分よりも不幸な人。世界一不幸な人。
彼女はどうしようもなく、生まれによって人生を定められた。
そこに自分の意志なんて関係なかった。瑞穂には人生の中で選択の余地があったけれど、茉莉にはなかった。ただの一つだって。
生まれた時から、死なない身体だったから。普通ではない。異常だ。
だから少しでも幸せになってほしい。
彼女の考える幸せは、瑞穂には具体的には分からない。でも彼女がそうしたいと言ったから、瑞穂は茉莉の記憶を取り戻そうとする。
夏の終わりに瑞穂は死ぬ。
それまでに彼女に少しでも良い思い出を。
できることならば、失っていた記憶をプレゼントしたい。
瑞穂はそう願った。
それは最良の選択で――最悪の選択でもあった。
そして瑞穂には、もう一つ、探していることがあった。それは決して茉莉には言ってはいけない。
もし言ってしまったら、今の関係が崩れてしまうだろうから。茉莉は絶対にそれを拒絶する。
あるいはそのまま受け入れてくれるかもしれないけれど、その可能性の方がずっと低い。
瑞穂は旅の間、黙ってそれを探すのだ。
しかしそれも、可能性の薄い話ではあったのだけれど、瑞穂は見つけてしまうのだ。
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