7-1 記憶探しの旅
手帳に書かれていた内容によれば、かつての茉莉は新潟県の各地を歩き回っていたらしい。
瑞穂が知っている場所もいくつか記されていた。
旅をするにあたっては、そんなに多くのお金を使えない。
父親からの仕送りの入った通帳を使えば足がついてしまう。
今の手持ちと稼いだ残りを合わせたたった五万円が、旅に使える費用だ。どうせならすべて使い切ってしまおう、そう考えている。
ふと、あの時の言葉が頭をよぎる。
――人の愛し方も、愛され方も分からないんだね。
そうなのか。きっとそうなんだろうな。瑞穂はそんな風に思う。
だって愛されていたことなんて、瑞穂の知る限り、一度たりともない。
愛した経験も、一度たりともない。愛すべき、愛されるべき親があんなものだったから、どうしようもないではないか。
愛を知らないのは、仕方がないのだ。
でもその言葉を、瑞穂は忘れることができないでいた。
それは残響のようで、それでいていつまでも離れない。
*
「ねぇ、瑞穂さん」
茉莉がそう声を掛けて、瑞穂は現実に意識を戻す。
「起きてくださいよ」
「分かった」
そうは言ったものの、今まで眠っていたため、声はガラガラだった。
瑞穂は目を覚ました。
そこは冷房の効きすぎている電車の中だった。半袖シャツを着ているため、肌寒く感じる。
袖から出ている腕を撫でて温める。スマホを見て、時間を確認する。
ここは電車だ。今は二〇時過ぎだから、車内に人はほとんどいない。車内は一定のリズムで揺れ、また睡魔が襲う。
ここは二人だけの空間だった。
「見てくださいよ」
茉莉はそう言って、窓の外を指差した。
瑞穂は茉莉が指差した方を見る。それは夜空だった。
そこに花が咲いている。
「あぁ、綺麗だな」
「えぇ」
その光景を見て、茉莉は幾重にも重なる破裂音を想像した。
それは花火群だった。
絶え間なく空に打ちあがる花火を見て、茉莉は窓の外に憧れの視線を向ける。
瑞穂は花火でなく、そんな茉莉を見ていた。
電車は花火には目もくれず、一定の速度で走り去っていく。やがて住宅街に入り、影に隠れ、花火は見えなくなる。
「綺麗でしたね」
茉莉は惜しそうに言った。
「ほんと、綺麗だったな。花火を見たのはいつぶりだったか」
瑞穂は記憶を遡るが、はっきりとした年代は思い出せなかった。
少なくとも、小学校の低学年。それもひなたと観た気がした。
大学に進学して東京に出てからも見ることはなかった。都会の高層建築と光は花火をかき消す。
きっと打ちあがっていたのだろうけれど、そこが都会であるために見えなかったのだ。
「わたしも花火、久しぶりに見た気がします。なんとなく昔、見たことがあるみたいで、懐かしさを感じました」
「そうか」と瑞穂は言う。
「この辺りも来たことがあるのかもしれないな」
「そうですね」
「まぁ別のところの、よく似た花火の可能性もあるけどな」
「どうでしょう」おどけたように言う。
答えは誰も分からない。この旅の間にそれを思い出してくれるといいのだけれど。
瑞穂はそう考える。
それからまた電車に揺られる。
赤子をあやす籠のように一定のリズムを刻む。二人は心地良さに身をゆだねる。
しばらくして茉莉は眠りに落ちる。
眠った茉莉は不安定に身体を左右に揺らす。
倒れてしまわないように、瑞穂は肩を貸した。瑞穂の右肩に、茉莉の頭が乗る。
これで倒れる心配はなくなった。
しばらくの間、そうしていた。
電車の揺れで目を覚まして、茉莉は薄く目を開ける。
眠った余韻のまま、視線を窓の外に向ける。
真っ暗な田んぼ道があり、世界が傾いて見える。それが、自分の頭が瑞穂の肩に乗っているためなのだと気づく。
隣では瑞穂も同じように眠っていた。
心地よさそうに寝息を立てている。その無防備な様子はまるで赤子のようでもあった。
茉莉は素直に、このままそうしていたいな、と思った。
やがて電車はトンネルに入る。
町の光一つすら見えなくなって、窓に反射している二人の姿が映る。
「起きてますか?」
反応はない。
「瑞穂さん」と、もう一度問いかけてみる。
やっぱり反応はない。
瑞穂は眠ったままだ。今なら何をしても、瑞穂は気づかないだろう。何だってできる。
けれど茉莉は何もしない。すべきでないと思った。
知るはずのない脳の奥の自分が、それ以上はダメだと言っている。
茉莉は瑞穂に身体を預けて、瞼を閉じた。
すぐに音が遠ざかり、景色も薄くなっていく。
眠る瑞穂に何かできると思ってしまったのは、眠気による気の迷いだということにしておこう。
沈む意識の中で、茉莉はそんな風に考える。
*
終点の新潟駅に到着する。
電車内とは違って、人はそれなりにいた。
けれど瑞穂が帰省したときの混雑からは程遠い。あの時は近くで祭りがあったのだ。
駅構内を出た途端、熱気が纏わりついて、肌から汗が湧き出る感覚があった。
茉莉は額に浮いた汗を手で拭い、それから髪をまとめた。
「暑いですね」
「飲み物買っていくか?」
「そうしましょう」
二人は自販機を探す。
今日は熱帯夜だった。
駅周辺は発展しているとはいえ、セミだったりケラだったり、夏の虫の鳴き声は聞こえる。
岩船は田舎だから開けている場所が多かったけれど、新潟は都会だ。
ビルが立ち並び、空気の循環を妨げている。そのため昼間よりも余計に暑く感じる。
自販機で飲み物を購入し、そのままどこかへと向かう。茉莉はそれについていく。
茉莉は全て行き先を瑞穂に任せているから、何一つとして知らない。もちろん、今日だけでなく、これからの行き先も、全て。
けれど不安は一つもない。瑞穂なら大丈夫と信じているからだ。
茉莉の記憶を取り戻そうとしてくれているのだし、何より彼には茉莉を裏切るような理由がない。
言ってしまえば、茉莉の記憶を取り戻すのはおまけのようなものなのだ。
この旅が終われば、もしくは終わらなくても夏が過ぎれば、瑞穂は自殺をするだろう。
その時、茉莉は一人になる。
ほとんど人生に希望を見出していない瑞穂が、間違っても茉莉を誘拐したり、どこかに置き去りにしたり、そんな裏切りのようなことをするはずがないのだ。
そうする動機がない。
そんな寂しい理由だけで、茉莉は瑞穂を百パーセント信じているわけではないのだけれど、その根底にある理由は瑞穂にも伝わらないし、本人である茉莉にもそれは理解ができない感情だ。
あるいは理解しているのかもしれないけれど、見ないようにしているのかもしれない。
どちらにせよ、茉莉は瑞穂を信じている。
それだけでいい。
あとの十日間を、二人でいられるなら、それでいい。
そうじゃなきゃ嫌だ。
心の奥で、茉莉の本音が漏れた。
*
ホテルはたいてい、事前に予約をしなければならないから、めぼしいビジネスホテルは全て予約で埋まっていた。
駅周辺から離れ、住宅街を抜け、やがて岩船のような田舎へと辿り着く。
いくら発展しているとはいっても、新潟は地方都市。少し中心部から離れてしまえば、岩船の町のように田んぼしかない。
「野宿するんですか?」
茉莉はそう訊いた。
街灯が定期的に立っていて、見渡す限り田んぼの道。目の前に信号機はあるけれど、車は五分に一度くらいしか通らない。
今、二人が歩いている歩道だって、狭くて一列にならなければ通れない。もしかすると、岩船の町よりも不便かもしれない。
「あー、野宿か。それもいいかもな」
瑞穂は笑って言う。
「でも流石に嫌だろ? 草むらの中に寝たら多分、虫に食われるだろうし」
「確かに。それはそうですね」
笑って言う。
「野宿は最後の手段だ。多分、探せばホテルはあるだろうからな。まだ歩くけど、足は大丈夫そうか?」
「はい、大丈夫です」
そんな風に茉莉は言うけれど、その声からは確かに疲労を感じる。瑞穂はそれを察知して、進路を変更することにした。
瑞穂はポケットからスマホを取り出す。そしてマップで周辺の情報を見る。
「どうしたんですか?」
茉莉が後ろからスマホを覗き込んだ。
「ここはずっと田んぼ道ですよ?」
「あぁ。でも少し疲れた。公園を探してるんだ。少し休まないか」
「いいですね。実はわたしも少し疲れていたんです」
夜闇でうまく見えないけれど、茉莉が笑っているのが分かった。
「なら丁度いいな」
瑞穂も休憩が欲しかった。夕方に岩船を出てもう四時間が過ぎようとしている。
旅の始まりにしては随分とノープランではあるけれど、瑞穂も茉莉も、旅行と言うものをしたことがないから仕方がない。
そもそも瑞穂は本来、家から出ない性格なのだ。岩船にいた時は家にいるのが嫌で仕方がなかったから、公園で茉莉と時間を潰していた。
ふと、それは本当だろうか、と自問自答する。
だって本当に時間を潰したいだけなら、公園よりももっと適している場所はいくらでもありそうな気がする。
図書館で本を読んでいなくても、そっちの方が時間を潰せそうだ。
だってただ空を見上げて、たまに茉莉が隣で本を読んでいて、瑞穂は変わらず自然に身をゆだねて、そんな風に時間を過ごす。
瑞穂は何もしていないのだ。
だから、どうして自分は公園に通っていたのだろう、と思う。どう考えても、つまらない。
けれど考えても、それらしい答えは出ることなく、そのうち目的の公園に近づく。
答えはあまりにも明白で、しかし瑞穂にとってそれは未知であるから、どうしても分からない。
考えを巡らせているうちに、やがて脳裏にひなたが昔の姿で現れる。
人の愛し方も、愛され方も分からないんだね――とだけ言う。そして霧のように消えていく。
やめてくれ、と心の中で言う。
考えるだけ無駄だと思考をやめるけれど、その言葉だけはどうしても頭から離れてくれない。
目を閉じたとき、集中を解いたとき、なんでもないとき、ふとしたとき、脳裏にその言葉がよぎる。
実を言うと今日だって、ずっとその言葉が消えてくれないでいた。
嫌なのだ。
けれどそうなってしまうのは、瑞穂がその言葉を受けて、その通りだと思っているからだろう。否定はできない。肯定しかできない。
でも誰かといるとき、その誰かはたった一人しかいないのだけれど、その場合に限っては平気でいられる。
だからこうして一緒にいる。
そういうことにしておこう。
そうでなくては、今、自分が茉莉の記憶を取り戻そうとしている理由が分からないじゃないではないか。瑞穂はそんな風に思う。
けれどもそれは矛盾だらけで、もっともっと単純明快な答えがあるのだ。瑞穂はどうしてもそれを避けようとする、というよりは知らないから、答えに辿り着けない。
きっと普通の人間だったら、一秒もかけずにその気持ちを理解するのだろうけれど。
どこまでいっても彼女の言葉の通りだった。結局のところ、いつまでもひなたから離れられないでいる。それも理想像でしかないというのに。
*
ベンチに座って、背もたれに身体を預ける。
多くの時代を経験してきたベンチに二人の大人が座っているからか、少し軋みをあげた。
けれど強度は十分で、折れる心配はなさそうだった。
茉莉は夜空を見上げる。雲が覆っていて、ほとんど星は見えない。しかし雲の合間から月が顔を覗かせて、優しく二人を照らしていた。
「疲れたな」と瑞穂が言う。
「えぇ」と茉莉は返す。
ややあって、瑞穂は小さな声で言う。
「この旅で茉莉が死ぬ、なんてことがあればいいんだけどな」
それはまるで独り言のように小さく、誰にも伝えるつもりがないために、セミの合唱に飲み込まれていく。
茉莉にはその言葉の半分も聞こえていない。けれど聞き返すことはなく、ただ「そうですね」と言った。
それはきっと瑞穂の本心からでたことで、茉莉はそれがどんなことであろうと、否定するつもりなんてないからだ。
会話はそれで途切れる。
この夏の間はずっと一緒に居たからか、話すことなんて特になかった。かといって無理に何かについて話す必要もない。
茉莉はただこうしているだけでいいんだ、と思う。
月は雲に隠れ、夜の世界は一層暗くなる。
ふと、瑞穂の方を見る。瑞穂は疲れたようで、座ったまま眠ってしまっていた。しかし頭をこくっと落としそうな気配もなく、まるで高級チェアに座っているかのように、姿勢を保っていた。
茉莉は感心したように、そんな瑞穂を見つめる。
やがて雲から顔を出した月がもう一度、二人を照らした。瑞穂の顔が鮮明に映し出される。そこにはいつも先導してくれるような瑞穂の姿はなかった。
茉莉の隣にあるのは、子供のように心地よさそうに、無防備に眠る瑞穂の姿だった。
茉莉は微笑む。そしてそっと背もたれの方に、身体を押してあげた。
瑞穂は俯いたような姿勢になり、そのまま眠る。
実のところを言えば、茉莉は少しホテルというものに憧れていた。
華やかな装飾に、整えられた客室、まるで中世の城のような美しい廊下、夜食のフレンチや朝食のビュッフェなどの、豪勢な料理。
きっと今日はホテルには行かないのだろうな。けれど、今この時間もまぁ悪くはない。そう思う。
いいや、きっと、どっちが良い悪いとか、そんな話ではなくて、ただ二人でいられるだけで十分なのだ。
茉莉は自分の心に気づき始める。
けれどまた、目を逸らす。
自分の身体ではどうしても人を悲しませてしまうから、そして誰かを失ってしまうから。自分はその感情を抱くべきではないのだ。
普通ではない人間が、まるで普通の人間のような――ありきたりなボーイミーツガールをしてはいけない。身の丈に合わないのだ。そんな風に思う。
それに彼はそんな心を持って、茉莉に接していないだろうから。
しばらく経っても起きない瑞穂を見て、肩を叩く。「瑞穂さん」と声をかける。
けれど目を覚まさない。
茉莉はベンチから立ち上がって、瑞穂を横にしようとする。このままこの公園で一夜を明かすつもりだった。
手が触れた。瑞穂の温もりを感じる。
頬に触れた。瑞穂の吐息を感じる。
もう一度手に触れた。瑞穂が生きている証を感じる。
自分の胸に触れた。愛を感じた。
すぐに胸から手を離して、なかったことにしようとする。
大きく息を吐いた。肺に入っている空気を全て吐き出す。そして心を整えた。
瑞穂の顔元まで向かい、かがんで「おやすみなさい」と言う。
そして茉莉は、並ぶもう一つのベンチで横になった。眠ろうとしたが、とても窮屈だった。
膝を曲げてようやく身体が収まる。
眠ろうとして瞼を閉じる。
真っ暗な世界の中で、瑞穂さんは窮屈じゃないのかな、そんな風に思う。
ふと、先程の瑞穂の言葉を思い出す。
夏の夜に飲み込まれて聞こえなかった部分を想像で補う。
あぁ、きっと瑞穂さんはわたしの殺し方を探ってくれていて、それを見つけられたのなら、わたしを殺すつもりなのだろう。
そんな風に思う。言葉では分からなくても、その声色からは十分に想像できる。
彼は自分が思っている以上にずっと、優しい人間なのだ。茉莉よりもずっと。
殺す。
なんて酷いことなのだろう。
なんて悲しいことなのだろう。
でもそれに、瑞穂からの最大限の優しさを感じた。
その『殺し』は、瑞穂から貰うことのできる愛のかたちで、包み込むような優しい愛なのだ。
だから茉莉は心のどこかで、自分を殺す方法を見つけてほしいな、と思う。ずっとずっと自分のことを考えていてほしいな、と思う。
けれどそれは、茉莉が孤独の中で、たった一人、何十年も模索してきたことで、一度たりともそれらしき方法を見つけられたことはない。
きっと瑞穂にだって無理だろう。だから茉莉は期待をしない。微塵も期待をしてはいけない。
でも宝くじが当たるような確率で、その方法を見つけられるのなら、それ以上の幸運はない――そう思う。
そうして二人は、並ぶベンチで並ぶように眠る。
けれど茉莉は十数分に一度目が覚めて、それが何度も続く。
それはこの不安のせいだろうか。
そう思っても不安は簡単に消すことはできない。むしろ増えていくばかりだ。
結局、茉莉はうまく眠ることができなかった。
やがて空は白み始める。その頃になって茉莉はようやく眠ることができた。
茉莉はそれまでずっと、隣で眠る彼のことを考えていた。
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