7-2 記憶探しの旅

 それから数日の間、二人は新潟の様々な所を巡った。


 手帳に記録されていたところからそうでないところまで、まるで県外から訪れた観光客のように。

 その表現は間違ってはいないだろう。記憶を取り戻そうとしてはいるけれど、それは二人だけの旅行でもあるのだ。


 まず初めに、新潟県の一番南へと向かう。

 そこから岩船の町に戻っていくように北上していく。


 フォッサマグナを見て、その近くの美しい海を見て、スカイケーブルに乗って自然を楽しみ、日本の滝百選に選ばれるような滝を味わい、温泉に入り、旅館に泊まり、身体の疲れを癒す。


 そうしてあっという間に一日は過ぎる。

 次の日も北上しながら同じようなことをしていく。


 桜がきれいなことで有名な公園を訪れて、そこで城を見てみたり、動物と戯れたり、岩船にあるものの倍以上の大きさを誇る神社を訪れたり、博物館を訪れたり、恋人の聖地に行ってみたり。


 そんな風にして日々は過ぎていく。

 それから六日が経過して、瑞穂と茉莉は新潟市に戻ってきていた。


 これから訪れるところは、茉莉が記憶を取り戻すかもしれない第一候補の場所だ。

 手帳に何度もその名前が書かれていたのだ。今のところ記憶が戻りそうな気配はない。


 でも瑞穂は、ここでならもしかしたら。そんな風に淡い期待を抱いていた。


 そうして二人はその場所へと向かう。





 「すごいですね」


 それはまるで近代的な美術館のような外観をしていた。後ろの青く輝く海の美しさも相まって、ここが日本ではないどこかのように思える。

 アメリカやカナダのような世界観だ。


 「これが水族館なんて信じられないな」

 「違う時代に来たみたいです」と、茉莉は楽しそうに言う。


 この水族館は新潟市の観光名所の中で、最も人気のある場所だ。

 今日が休日であることもあり、入り口には列ができていた。二人はその最後尾に並ぶ。

 

 十分ほどして水族館の中に入ることができた。

 大人一人につき一五〇〇円、茉莉と合わせて三〇〇〇円を支払って奥まで進んでいく。


 水族館は地下にあった。恐らく夏の眩しすぎる日光の影響を受けないためだろう。

 三日前に訪れた水族館もそうだった。


 緩やかに曲がりくねった坂道を下り、暗い道へと入る。互いの表情はよく見えない。けれど足元にある光源だけを頼りに、真っ直ぐ進んでいく。


 ふと、瑞穂は足を止めた。

 茉莉がはぐれていないか確認する。


 「どうしたんですか?」

 茉莉が訊く。

 「あ、いいや。大丈夫だ」

 「早く行きましょうよ」


 そんな風に興奮した茉莉は走り出して、瑞穂よりも先に行く。瑞穂は小さく微笑んで、それから茉莉を追いかけた。


 少し歩いて、視界が明るくなる。

 足元以外全てが水槽になった通路が現れた。

 じんわりとした光が降り注ぐ。頭上を魚群が通りすぎていく。知識がないために何の魚かは分からなかったけれど、それでも美しいと思えた。


 瑞穂は思わず「凄いな」と言葉を漏らす。

 茉莉も「えぇ」と返す。


 二人は足を止めた。

 二人を追い越すように人々は通り抜けていく。


 茉莉は頭上の魚たちを見て、自分もこんな風に何も考えず、自由に生きてみたいな、と思う。

 けれどこれが閉じ込めるための水槽だということを意識すると、なんだか自分のように思えて親近感を覚える。


 生まれてからずっとここにいるのだろう。

 水槽の中は自由のようでいて、自由ではない。不自由でないだけだ。


 水族館で生まれたことによって、彼らは自分が自由を制限されていることを知らないのだとしたら、それはなんだか茉莉よりも、瑞穂よりもずっと可哀想に思える。


 けれどそれを何の気なしに、ただ綺麗だと見て、尊ぶのが普通の人間だ。

 茉莉はそんな風に純粋に魚たちを見ることができない。


 そんな自分はやっぱり普通ではないのだと思う。

 けれどこの心にある気持ちは「普通」なのだろう。誰もが抱く普通であることを茉莉は知っている。


 「どうした」瑞穂が声をかけた。

 声の方を向くと、瑞穂は先に行ってしまっていた。

 「あ、今行きます」


 小走りで瑞穂の元へ向かう。

 そんなことは考えずに、今はただ、この時間を楽しもう。そう思った。





 結局、水族館を訪れても記憶が戻ることはなかった。

 楽しかったけれど、記憶に関しては何も起きなかった。この水族館を訪れたことも初めてだと思ったのだから、記憶が戻る見込みはないように思える。


 瑞穂は少し落胆する。もしかすると、失った記憶は奥深くに眠っているわけではなく、脳から完全に放棄されているのかもしれない。そう思った。


 二人は水族館を後にする。

 そしてこれからどうしようかと迷う。


 実を言うと、十日間を五万円だけで旅行をするのは少し無理があった。やがてお金は無くなり、日も過ぎていく。


 旅行としては素晴らしいものだけれど、目的の方を果たせないまま終わってしまった。

 終えざるを得なくなってしまっていた。


 残りの手持ちはだいたい二○○○円。

 二人が岩船に帰れるほどのお金ではあるけれど、雑費を計算すればそれだけでは足りない。


 そのため二人は、新潟から岩船までを歩いて帰ることにした。

 話し合った末の結論だ。


 距離にしておよそ五〇キロメートル。

 長いけれど歩けない距離ではない。

 二日もあれば余裕だろう。


 宿は取れないのなら野宿をすればいい。一度経験したから多分問題はない。幸いここは田舎が多いから、公園なんて探す必要もなく、いくらでもある。


 長い旅になりそうだった。

 でもこれが最後だ。茉莉は、終わってしまえばきっと瑞穂は自殺をするだろう。そんな風に考える。


 でも茉莉がどうしたところで何かが変わるものではない。仕方がないのだ。


 茉莉も瑞穂も、それを苦には思わなかった。


 そして茉莉は、もう少しだけ二人でいられることを喜んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る