7-3 記憶探しの旅


 向こうの地面からは陽炎がゆらゆらと揺れ、それは今ここが灼熱地獄であることを表していた。

 日光がまるで肌を突き刺しながら燃やしていくようだった。


 汗がだらだらと伝う。

 髪の毛が邪魔に思える。歩いているだけなのにも関わらず、息が切れていく。

 一度足を止めたら、もう一度動かすには相当な気力が必要そうだった。


 さらに瑞穂は病気のせいで体力が少ないから、息苦しくて仕方がない。


 そんな瑞穂の様子を見た茉莉は「大丈夫ですか?」と訊いた。


「あぁ、これくらいなら問題はない」


 少し強がりを言う。そしてスポーツドリンクで喉を潤す。食道を通り、胃の中が冷えていく感じがした。ぼろぼろの身体が再生していくようだった。


 「暑いですね」

 「あぁ」


 暑さでうまく頭が回っていないため、そんな風に発展のしない会話ばかり繰り返す。

 そうしているうちに日は暮れだし、纏わりつくような熱気が空気を支配し始める。


 スマホで時間を確認する。十九時過ぎだった。

 瑞穂と茉莉は休憩のために、目に入ったコンビニに入る。


 コンビニの看板がまるでオアシスのように思えた。入り口には夏らしく、小さな虫が集っていた。


 店内に入った途端、瑞穂は小さく声を上げた。

 数時間ぶりに浴びたエアコンの冷気は、外から来た瑞穂にとっては冷た過ぎた。


 そしてそれは茉莉も同じだった。店内に入った途端、「ひゃ」と声を上げる。


 汗に冷気があたり、まるで秋の夜のように寒い。今外に出れば、来た時よりもずっと暑く感じるだろう。


 「ずっとここにいたいですね」と茉莉は笑う。

 「風邪ひいちゃうだろ」

 瑞穂も笑った。

 「でも気持ちは分かるな」


 茉莉は商品棚の角にあったオレンジ色の買い物かごを手に取った。

 それからドリンクコーナーへと向かう。


 乾いた暑さの昼間と違って、夏の夜は蒸し暑い。

 立っているだけで汗が噴き出ていくから、状況によっては昼間よりも脱水症状に陥りやすい。


 とりあえず重くならない程度に飲み物を四本手に取る。そして茉莉の持つ買い物かごに入れた。

 「ねぇ、瑞穂さん」

 「ん?」


 茉莉の方を見ると、何かを企んだように笑みを作る。

 「これ、買っちゃいましょうよ」


 そう言って指を差したのは、二十歳以下は購入してはいけない飲み物のコーナーだった。

 つまりアルコールだ。


 そういえば、瑞穂の見た目は二十歳には見えないらしい。瑞穂は自分がそういった制限を突破できることを知っている。


 「飲みたいのか?」

 「はい」

 「なら買うか」


 そう言って瑞穂は、茉莉が指差した缶チューハイを買い物かごに入れる。そして瑞穂も真似をして、同じものを買い物かごに入れた。


 「じゃあ買ってくるぞ」


 そう言って瑞穂はレジへ向かう。

 その間、茉莉はコンビニの中を適当に散策する。あまりコンビニに来ることはなかったから、物珍しく感じた。


 少しの間そうしていると、清算を終えた瑞穂が声をかけた。


 「終わったぞ、行こうか」

 

 そうしてまた、蒸し暑い真夏の夜へと繰り出していく。夜は長い。




 

 ふと、自分にはあたりまえの現実が似合わないのだと思った。

 どうしてこんなことをしているのだろうかと、この旅の間、何度も強く思った。


 けれどそれは決して自分のためなんかではなくて、自分よりももっと不幸な彼女のため、このどうしようもない自分でも何かを為せるのではないかと思ったのだ。


 だからこれは無駄なんかではない。

 たとえ茉莉が望むように記憶が戻らなかったとしても、茉莉には新しい記憶が残る。


 過ぎた時間を、かつての約束のようにずっと引きずる必要はない。

 前を見なくては、瑞穂はそう思う。

 瑞穂は学んだのだ。


 未来を見据えよう。

 自殺をしないとしても、瑞穂は残り十五年で死ぬ。けれど茉莉は永遠に生きていく。


 死ねないことの苦しみは、辛さは、悲しさは、きっと普通の人間の想像が及ぶ範疇ではない。

 その苦しみの一割も理解できているか怪しい。

 茉莉は一見すると世間知らずの真面目な女の子なのだ。


 人間は呼吸を止めれば、手首を切れば、首を吊れば、簡単に死ねる。

 だというのに大半の人間はそう簡単に死なない。

 いつまでも生きていようとする。

 だからこそ、茉莉の死ねないという性質は、皮肉のように刺さっていく。


 そんな彼女の未来を考えた時、やっぱりどうしようもなく心が痛む。


 だって茉莉はいつだっておいていかれる立場だ。

 茉莉は絶対に瑞穂を送ることになる。


 夏の終わりに自殺をしなくても、十五年後に瑞穂が死んだときには、もしかすると見送っているかもしれない。あるいは別れを恐れて茉莉から離れていたとしても、茉莉を一人ぼっちにしてしまう。


 どうしようもないのだ。

 その死ねないという性質がある限りそれは避けようがない。


 実のところ本当の旅の目的は、その解決策を探し出すことにあった。具体的に言えば茉莉を殺す方法。


 けれどそんなものは、そう簡単に見つかるはずがない。この短期間で見つけられるならば、茉莉はとっくに死んでいるはずだ。


 生まれは変えられない。

 けれどその先の人生は変えられるはず。


 もしかするとそうではないのかもしれない。

 やはり人生は生まれだけに左右されるものなのだろうか。




 

 やがて歩き疲れて二人は休める場所を探した。そうして夜の海岸へと辿り着く。


 茉莉は砂による汚れを気にせずに、そのまま座った。それを見て瑞穂も、そのまま地面に座る。


 しばらくは会話がなかった。


 その時間はまるで、いつもいた公園のように穏やかで心地がいい。


 「ねぇ、瑞穂さん」

 茉莉は後ろに両手をついた。

 「ん?」

 「海ってどこも似たような匂いがするんですね」


 瑞穂はその発言を、いつも自然の機微に敏感だった茉莉らしくないなと思う。


 「まぁそうだな」


 そう言ってから、瑞穂は鼻から空気を吸った。

 波が打ち寄せる。そして引いていくとともに、風が吹いて前髪を揺らした。


 潮の香りがした。


 「本当だ。変わらないな」

 「えぇ、そうでしょう」と茉莉は笑う。


 それからまたしばらく黙った。

 自然音や味を味わっていた。


 瑞穂はリュックの中から、先程コンビニで買った缶チューハイを取り出す。

 買ってから少し時間が経っていて、缶は運動を終えたばかりのように汗を大量にかいていた。

 シャツの袖で水滴を拭ってから、茉莉に手渡す。


 「はい、これ」

 「ありがとうございます」


 瑞穂も自分の分を手に取った。

 そして缶を開ける。それを見て、茉莉も真似をするように缶を開けた。


 瑞穂はそれを見届けてから、一気に半分ほど飲んだ。茉莉も続けて一気に半分ほど飲む。


 「あ、思ったより美味しいですね」

 「そうだろ?」

 そう言ってからすぐに、瑞穂はリュックからレジ袋を取り出した。


 「なぁ、茉莉。花火やらないか」

 袋の中から現れたのは、花火のバラエティパックだった。

 「え、花火……ですか?」

 「嫌だったか? なら全然いいんだが」

 「いえいえ、そんなことはないんです。ただ驚いただけです。いつの間に買ってたんですね」

 「レジの前にあったんだ。いいだろ?」


 花火を見せびらかして言う。

 「夏らしいです」


 茉莉は少し遠回りな表現をした。


 岩船から新潟に来るとき、二人は電車の中から花火を見た。そして瑞穂は、花火を見る茉莉の横顔を見た。

 見間違いでなければ茉莉が向けていた視線は、憧れだった。花火に憧れていたのだろう。


 その時、瑞穂は思ったのだ。

 茉莉は花火をちゃんと見たことがないのだろうな、と。


 彼女にとって花火とは遠くからなんとなく眺めるもので、近くで鑑賞するようなものではないのだろう。ましてや誰かと観るものだとは思っているはずがない。


 茉莉は自分のことを普通ではないと思っているから、世間一般の人々が憧れを抱くような物事を避けてしまう節がある。


 瑞穂も同じだ。

 自分は、自分たちは普通ではない、そんな風に思っている。


 けれど今は二人だけ。

 そこに普通ではないことなんて、一つもない。

 二人の世界では、二人が常識なのだから。


 「それで、花火はやるのか?」

 「やりましょう。やってみたかったんです」


 その言葉を聞いて、買ってよかったと思う。

 瑞穂は花火のパックの袋を開けた。そして花火を取り出す。


 瑞穂も茉莉も、こういった手持ち花火をまともにしたことがないから、どんな風にしてやればいいのか分からないし、どんな風に花火が色を見せるのかも分からない。


 けれど少なくとも、夜空に打ちあがるあの大きな花々よりは、大きく劣ることだけは知っている。

 だってこんな小さなものが、夜空に咲く花に敵うわけがないだろう。


 瑞穂はろうそくを立てて、自前のライターで火をつける。


 茉莉は花火についての一切の知識がないから、ただ瑞穂が準備している様子を見ていることしかできない。


 任せきりの瑞穂に何だか申し訳なくなり、何かを知らないということは、それだけで無力であると思った。


 「さぁ、やろうか」

 「はい」


 茉莉は少し緊張する。あの大きな花が空に咲くわけではないことくらい、何も知らない茉莉でも知っていた。


 しかしそれでも、これは花火である。

 花の火なのだ。期待をするなと言う方が無理な話だった。


 瑞穂もなんとなくの知識で茉莉に手順を教える。

 二人の手持ち花火が、揺れる炎の上で交差した。すぐに火が灯る。そして――


 「すごい、すごいです! 瑞穂さん!」


 茉莉の右手にある手持ち花火からは、彩り豊かな火花が、まるでシャワーのように噴射されていた。

 勢いはすぐには収まらない。


 茉莉は興奮した様子を隠せない。楽しそうに笑って、手持ち花火をくるくると空中で回している。

 残像が八の字を描いた。


 「見てください!」

 そう言って、瑞穂に当たらない程度に花火を向けた。

 「わたし、魔法使いみたいですか?」

 「あぁ。でも見習いみたいだな」とからかう。

 「瑞穂さんだって、見習いみたいなもんです」

 「俺が?」

 「わたしと同じようなものじゃないですか」


 そう言ってまた、楽しそうに笑う。

 そんな茉莉のことを瑞穂は見ていた。


 そして先に茉莉の花火が火薬を切らして、噴射をやめた。茉莉は少し寂しそうな表情を見せる。


「まだあるからな」と瑞穂は言った。

 そして先ほどの茉莉の言葉に対して、まぁその通りだな、と思う。


 自分たちは外れ者だ。そうでなくては二人でこんなことをしているはずがない。


 普通ではない。けれど普通に生きたいかと言われれば、今は違うと答えたい。

 少し前だったら恐らく、考えることもなく首肯していただろう。


 社会は大多数の普通のために作られていて、大多数から見て普通ではない人にとっては生きづらいものでしかない。

 社会から排除されてしまうことだってあるだろう。


 けれどここに居場所を見つけて、こんな風に毎日を笑って生きていけるのなら、それもまぁ悪くはないというものだ。


 そうして茉莉はまた別の花火を楽しむ。瑞穂は花火をしながらも、そんな茉莉を見続けていた。

 この時間、この空間を楽しんでいた。


 他人と旅をして、酒を飲んで、花火をするなんて、少し前の自分からは考えられないことだ。

 それに加えて、この旅自体が全くもって自分のためではないのだから、尚更にそう思う。


 そしてこの時間が永遠に続けばいいのに、と思う。

 やがて瑞穂の花火も噴射をやめた。





 買った花火のほとんどを使い果たして、残すところあと線香花火一つとなった。


 茉莉は寂しそうな表情を見せた後、線香花火を手に取ると「これは少し違うみたいですね」と言った。

 「線香花火ですか?」

 「あぁ、そうだ」

 「こんな薄い紙なんですね」


 不思議そうに花火を見つめる。

 風が吹いて、ろうそくの火を揺らした。潮風だった。火薬のにおいと煙が舞う。

 茉莉は目を細め、揺れる前髪を抑える。


 「じゃあやろうか。最後の花火」


 瑞穂はそう言った。

 瑞穂の言った『最後』は花火に対してなのだろうけれど、その言葉が含む「終わり」の意味は、茉莉の心をきつく縛り上げた。


 どことない寂しさが茉莉を襲う。けれどその感覚はどこか懐かしいような気もする。


 茉莉は小さく「はい」と言った。


 心情が伝わらないように、花火に注目するふりをして視線を逸らしながら。


 「線香花火は一緒に付けるんだ。どっちが先に落ちるか競うんだ」

 「それくらい知ってますよ」と、茉莉は笑う。

 別に楽しみ方はそれだけではない。

 「そうか」


 瑞穂は花火をろうそくに近づけた。

 茉莉も近づける。


 そしてほとんど同時に、二人の線香花火に火が付いた。


 仏壇に上げる線香なんかとは全く違った。

 初めは小さな火球が花火の先端に形成される。

 数秒後、小さな破裂音と共に、まるで空気中に電気が走っていくように、あるいは雪の結晶のように、細く鮮やかな火花が散る。


 ぱちぱちと音を立てる。

 それがいくつもできては消えを繰り返す。


 火薬のにおいがした。そこに潮の香りが混じる。


 「綺麗ですね」

 「本当に綺麗だ」


 それだけで十分だった。

 ぱちぱちと火花の散る音と、波が打ち寄せる音。この空間にはまるで二つの音しか存在していないように思えた。


 言葉は交わさない。

 茉莉は花火が散る様をじっと見ていた。


 線香花火は手持ち花火よりもずっと貧層なように見える。

 けれど線香花火しか持ち合わせていない、独特の味というものがある。

 趣深く、味わい深い。


 茉莉にとってそれは、文字や画面越しのもののはずだった。


 線香花火がどういうものかを知識としては知っていても、実際見て感じることでしか得られないものがある。

 それを茉莉は知らなかったはずなのだ。


 しかしそれをどうしてか、経験の中で感じたことがあるような気がした。


 やがて線香花火も勢いが衰え始める。


 ――いつ、どこでそれを感じたのだろう。


 ガソリンが切れた原付のように、その火は途切れ途切れになる。


 ――一体この気持ちは何なのだろう。


 線香花火の勢いはもうほとんどない。


 ――昔にもこんなことをしたのだろうか。花火なんてした記憶がない。


 いいやそれは――

 そして火玉が地面に落ちた時、茉莉は気づいた。


 心を抉るようなこの気持ちは、

 いつだって心を温めてくれるこの気持ちは、

 一度考え始めたら磁石のように離れようとしないこの気持ちは、

 抑えようのないこの気持ちは、彼を愛してやまないこの気持ちは、


 この気持ちは、恋心。

 どうしようもない恋心。


 茉莉はそれに覚えがあった。


 それに気づいたとき、まるで魔法にかけられたように茉莉の頭の中の空白は埋まっていく。

 何もないところに城が築かれていくように、あるいは真っ白の紙に下書きなしに色を塗っていくように。


 一縷の涙が頬を伝った。

 「茉莉?」

 瑞穂の声は届かない。


 代わりに遠い昔の、誰かの声が響いた。


 幻聴ではない。確かな記憶だ。


 記憶の中にふわりと風が吹いて、蓄積した埃が隠した足跡が姿を見せる。


 ねぇ、と記憶の中の誰かが茉莉の肩を叩いた。

 なぁに、と茉莉は言う。

 その頬は涙で濡れていた。


 そして茉莉は思う。

 やっぱり自分は瑞穂に恋心を抱くべきではなかったのだ。

 自分なんかが恋をしていいはずがなかったのだ。彼が普通ではない人間と仲良くしていたら、どうなるか分かりきっていただろうに。


 それを見えないふりをしていた。


 記憶というものは、たいていの場合、何かを媒介にしている。

 懐かしい昔の写真を見れば続けていくつもの記憶が想起されるように、茉莉もまた、失っていた記憶は恋心を媒介にしていた。


 気づいてしまった。


 思い出した。


 思い出してしまった。


 もう、隠しきれない。


 そして茉莉は幸福の道を断つ。


 わたしこそ不幸の源だったのだ。





 瑞穂の線香花火は茉莉よりずっと長く、火を灯し続けた。


 それはまるで永遠を思わせるかの如く、

 ずっと。ずっと。



 


 翌日、茉莉は姿を消した。

 目が覚めた時、瑞穂の隣には誰もいなかった。


 風は一つとして吹いていない。

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