6-1 夏の終わりまで


 それをするには、少しだけ身の上を語らなければならない。

 今まで誰にも言った事はない秘密の話だ。


 もちろん、住む場所を貸してくれているおばあちゃんにも、一度たりとも言った事がない。けれど茉莉は、相手が瑞穂なら、大体のことは言える気がした。その理由ははっきりとしている。


 そうして茉莉は、知っている限り、覚えている限りの全てを話しはじめる。





 茉莉は自分について、ほとんど知らない。

 どこで産まれたか、どこで育ったか、誰が友達で、誰が親族か、全く知らない。気が付いたときには、この岩船の町にいた。


 自分に過去があったことは理解できる。けれどその過去はもう茉莉の頭には残されていない。


 茉莉は、あてもなく町を歩いた。

 幸いなことか不幸なことかは分からないけれど、茉莉は食事を取らずに生きていけるらしかったから、飢えることはなかった。

 しかしそれは、常識的に見ればおかしなことだ。


 茉莉は自分を、吸血鬼やバンパイアの類なのではないかと思い、皮膚を切って血を出してみた。

 血を舐めてみて美味しいと思えば、自分は吸血鬼だと思うことができるからだ。


 しかし血は鉄の味がして、お世辞にも美味しいものではなかった。どうして彼らは好んで血液を呑んでいるのだろう。よく分からない。


 加えて切った皮膚はすぐに再生してしまった。それもおかしなことだ。そこで気づいたのだ。

 どうやら自分は死ねないらしい、と。


 それは吸血鬼というよりも、自分の時間が止まった、という表現の方が近いような気がする。

 傷をつけると再生するのは、その自分に戻ろうとするからで、歳をとれないのも、今の自分を維持しようとするから。その方が自然に聞こえる。


 それから、何度も死のうと思った。

 茉莉には何もなく、生きている意味さえ見出せなかったから。けれどその度に、身体は元の姿に戻ろうとした。


 きっとわたしは人間ではないのだ。そんな風に思った。

 けれどそれを共有するような相手はいないし、仮に相手がいたとして、そんな悩みを言ったところで馬鹿にされるのが関の山だ。


 茉莉は普通ではないために、社会から断絶されると信じ、一人で生きていかなければならなかった。

 それはもちろん自分の意志ではない。


 社会は普通の人間のためにしか作られていないから、茉莉には生きづらい。いいや、生きていけない。

 茉莉だって普通に憧れた。

 みんなのように遊びたいし、学校だって通ってみたいし、恋だってしてみたい。けれどそれは決して叶わない願いだった。


 だってそうだろう。

 死ねず、老けず、傷つかない、まるでダイアモンドも性質だけを抽出したような茉莉が、普通の人間に混じれるわけがないのだ。





 そんなようなことを考えて岩船の町を徘徊していたある日のこと。茉莉は一人の老婆を介抱した。

 一見すると困っているように見えなかったのだが、声をかけて見ると、足が痛くて動けなかったらしかった。


 茉莉は肩を貸して、彼女を家まで送った。

 その老婆は、茉莉が深く関わった初めての人間になった。


 家に着くと、部屋に案内され、日が暮れるまで老婆と他愛のないやりとりをした。

 その中で、衣食住に困っていることを見抜かれ、老婆は茉莉に「もしよかったら一つ部屋を貸してやろうかい?」と言った。


 当時はどうして気づいたのだろう、と思ったが、今にしてみれば、その服装は女子高生が着るにはみすぼらし過ぎた。


 家出をしたのだと勘違いしてくれた。

 そして幸いなことに、老婆は警察に通報することをしなかった。


「小さな頃はわたしもよく家出をしたもんだからね。何度も親から逃げたもんさ。合わせて二年分くらい逃げた気もする。夫と駆け落ちもして、金が無くて頭を下げて、一部屋を貸してもらったこともあったからねぇ」

 懐かしそうに言う。

「だから、いいんだよ。わたしをおばあちゃんと思っていいから」


 その厚意に甘え、茉莉は衣食住を手に入れた。

 それが二年前のこと。

 それから容姿も変わらず、今の今まで過ごしてきた。


 おばあちゃんにも茉莉の秘密は伝えなかった。

 しかし多分、茉莉が普通でないことには気づいているだろう。それでも触れないのは、いずれ打ち明けてくれると信じてくれているからだと思う。


 だからこそ茉莉は、今のままではいけないと感じている。


 やがておばあちゃんは死に、茉莉だけが取り残される。自分の問題は自分で解決しなければいけない時が来る。それは決して遠い未来の話ではない。


 しかし終わらない一生の中では、そんなことは些事なのかもしれない。


 けれど、やがてこの記憶も忘れるのだと思うと、やっぱり怖かった。怖くて仕方がなかった。心の底から殺してほしいと思った。


 誰かにわたしを定義して欲しかった。





 「どうですか?」

 瑞穂の方を見て訊く。

 「でも、瑞穂さんよりはましな人生を過ごしている気がします」

 「どうだろうな。比べられるものでもないぞ」


 瑞穂はよく考えた末にそう言った。けれどそれは本心ではない。

 茉莉の方がずっと酷いように思う。


 「まぁそうですね。不幸比べなんてするものじゃないですね」

 茉莉も納得する。


 二人は公園にいた。

 今日の空は灰色で、向こうには黒を滲ませた雨雲が漂っていた。湿った空気が肌に張り付く。いつものようにセミが鳴いている。潮の香りに、雨の香りも混じっている。


 それは知ったばかりの、茉莉の人生を表しているようでもあった。


 少し会話に間が空いた。瑞穂は茉莉の話を受けて、これから話そうと思っていたことを少しだけ変えて言う。


「なぁ茉莉」

「なんですか?」

「やりたいことは決まったか?」

「まだですよ」と茉莉は言う。

「でも、どうしてですか? 別にわたしに構ってくれる必要はないんですよ? それにもしわたしにやりたいことが見つかったとして、それに瑞穂さんが付き合う必要もないんですよ? 瑞穂さんは夏の終わりに死ぬんでしょうに」


 瑞穂が夏の終わりに死ぬことだけは、どうしても変えられないのだと、茉莉は分かっている。

 根拠はなく、直観で。

 きっと彼は決めているのだと茉莉には分かる。


「どうしてだろうな」

 瑞穂は肩をすくめて笑った。

 「でも決めたから」

 ほらやっぱり、と茉莉は思う。

「変な人ですね」

「お互い様だろう」


 それからしばらく、茉莉は暗い空を見ながら「やりたいこと」について考えた。


 その間瑞穂は、夏らしいものについて考えていた。

 今頃は高校野球のテレビ中継が行われていることだろう。いいや、もしかすると決勝戦を終えて、放送はしていないかもしれない。

 高校野球は夏の風物詩ではあるけれど、意識を向けたことがないから、詳細についてはよく分からない。


 雨の降り始めた岩船の町を見て、ようやくここが地元だと感じて、夏らしく思えるようになる。

 今まで地元のように思えなかったのは、心の奥に色々なものがつっかえていたからだろう。


「――一つだけ。実現は無理でしょうけど、一つだけ思いつきました」


 茉莉は突然、そう言った。

 瑞穂は驚いたような表情を見せながら相槌を打つ。


「なんだ?」

「わたし、記憶を取り戻したいんです」


 黙ったままの瑞穂の顔を見て、心配そうに言う。


「変なことでしたか?」

「いいやそうじゃない。茉莉、記憶ないもんな」

「はい」

「分かった。できるだけ記憶を取り戻してみよう」

「……どうやるんですか?」

「分からない。けど色々試してみるしかないだろ」


 茉莉は瑞穂の考えていることが分からないので、首を傾げながら、しかし「まぁ、そうですね」と頷く。

 その返答が不満そうだったからか、瑞穂は「やりたいんだろ?」と確認するように訊いた。えぇ、と言う。


 ややあって、瑞穂が言う。


「今からだいたい十日後、そこが八月の終わりだ。それまで少し旅をしよう」

「旅ですか?」

「あぁ。この辺に、覚えていないだけで知ってた土地があるはずだ。そういうところを巡るんだ」

「それで、どうするんです?」


 茉莉がそう言うと、瑞穂は考えをまとめるため、少し間を置いた。


「あくまでも俺の推測だ。記憶ってのはだいたい、何かの物を媒介にしてる。たとえばテストの問題を見て答えを思い出したり、とっくに忘れていたことを昔の写真を見て思い出したり。つまり記憶はモノに宿ってると考えることができる。なら、昔行った事のある場所へ向かえば、何かしらは思い出せるんじゃないか? そう思ったんだ」


 安直だろうけどな、瑞穂はそう付言する。

 茉莉はなるほど、と頷いて言う。


 「それは一理ありますね」

 と茉莉は言った。

 「そういえば、部屋にいいものがありました」


 茉莉は手帳のことを思い出す。それは日付間隔がバラバラな日記のようなものだ。茉莉の知らない昔からのことが本当に大まかに記されている。

 多分、記憶を失うことを恐れた昔の茉莉が書いたのだろう。


 けれど今のことは記録されていない。

 だって、書いてしまったら失った時が怖いから。失いたくないのが本音ではあるけれど、失うのなら知らないままにしておいた方がいいに決まっている。今はそう思っているのだ。


 「手帳があるんですけど、確かそこに何か書いてあった気がします」

 少し考えるように間を置いて言う。

 「少し家に来ませんか?」

 「家?」


 茉莉と瑞穂の視線が交わる。

 数秒間、そうしていた。


 茉莉は、なんだか恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。

 まるで家に誘っているようではないか。そんな風に思う。


 茉莉は誤魔化すように、その発言を押し通した。


「旅に出るんでしょう? 目的地はある程度、決まっていた方がいいんじゃないですか?」

「まぁ、確かに。そうだな」


 それらしい理由を付けて納得させた。

 しかし結局のところ、瑞穂が部屋に上がることに変わりはない。


 そうして二人は、瑞穂が自殺をするまでの間、茉莉の記憶を取り戻す旅に出ることになる。



 茉莉は、瑞穂の行動に一切の期待をしていなかった――正確には、期待しないようにしていた。

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