6-1 夏の終わりまで
それをするには、少しだけ身の上を語らなければならない。
今まで誰にも言った事はない秘密の話だ。
もちろん、住む場所を貸してくれているおばあちゃんにも、一度たりとも言った事がない。けれど茉莉は、相手が瑞穂なら、大体のことは言える気がした。その理由ははっきりとしている。
そうして茉莉は、知っている限り、覚えている限りの全てを話しはじめる。
*
茉莉は自分について、ほとんど知らない。
どこで産まれたか、どこで育ったか、誰が友達で、誰が親族か、全く知らない。気が付いたときには、この岩船の町にいた。
自分に過去があったことは理解できる。けれどその過去はもう茉莉の頭には残されていない。
茉莉は、あてもなく町を歩いた。
幸いなことか不幸なことかは分からないけれど、茉莉は食事を取らずに生きていけるらしかったから、飢えることはなかった。
しかしそれは、常識的に見ればおかしなことだ。
茉莉は自分を、吸血鬼やバンパイアの類なのではないかと思い、皮膚を切って血を出してみた。
血を舐めてみて美味しいと思えば、自分は吸血鬼だと思うことができるからだ。
しかし血は鉄の味がして、お世辞にも美味しいものではなかった。どうして彼らは好んで血液を呑んでいるのだろう。よく分からない。
加えて切った皮膚はすぐに再生してしまった。それもおかしなことだ。そこで気づいたのだ。
どうやら自分は死ねないらしい、と。
それは吸血鬼というよりも、自分の時間が止まった、という表現の方が近いような気がする。
傷をつけると再生するのは、その自分に戻ろうとするからで、歳をとれないのも、今の自分を維持しようとするから。その方が自然に聞こえる。
それから、何度も死のうと思った。
茉莉には何もなく、生きている意味さえ見出せなかったから。けれどその度に、身体は元の姿に戻ろうとした。
きっとわたしは人間ではないのだ。そんな風に思った。
けれどそれを共有するような相手はいないし、仮に相手がいたとして、そんな悩みを言ったところで馬鹿にされるのが関の山だ。
茉莉は普通ではないために、社会から断絶されると信じ、一人で生きていかなければならなかった。
それはもちろん自分の意志ではない。
社会は普通の人間のためにしか作られていないから、茉莉には生きづらい。いいや、生きていけない。
茉莉だって普通に憧れた。
みんなのように遊びたいし、学校だって通ってみたいし、恋だってしてみたい。けれどそれは決して叶わない願いだった。
だってそうだろう。
死ねず、老けず、傷つかない、まるでダイアモンドも性質だけを抽出したような茉莉が、普通の人間に混じれるわけがないのだ。
*
そんなようなことを考えて岩船の町を徘徊していたある日のこと。茉莉は一人の老婆を介抱した。
一見すると困っているように見えなかったのだが、声をかけて見ると、足が痛くて動けなかったらしかった。
茉莉は肩を貸して、彼女を家まで送った。
その老婆は、茉莉が深く関わった初めての人間になった。
家に着くと、部屋に案内され、日が暮れるまで老婆と他愛のないやりとりをした。
その中で、衣食住に困っていることを見抜かれ、老婆は茉莉に「もしよかったら一つ部屋を貸してやろうかい?」と言った。
当時はどうして気づいたのだろう、と思ったが、今にしてみれば、その服装は女子高生が着るにはみすぼらし過ぎた。
家出をしたのだと勘違いしてくれた。
そして幸いなことに、老婆は警察に通報することをしなかった。
「小さな頃はわたしもよく家出をしたもんだからね。何度も親から逃げたもんさ。合わせて二年分くらい逃げた気もする。夫と駆け落ちもして、金が無くて頭を下げて、一部屋を貸してもらったこともあったからねぇ」
懐かしそうに言う。
「だから、いいんだよ。わたしをおばあちゃんと思っていいから」
その厚意に甘え、茉莉は衣食住を手に入れた。
それが二年前のこと。
それから容姿も変わらず、今の今まで過ごしてきた。
おばあちゃんにも茉莉の秘密は伝えなかった。
しかし多分、茉莉が普通でないことには気づいているだろう。それでも触れないのは、いずれ打ち明けてくれると信じてくれているからだと思う。
だからこそ茉莉は、今のままではいけないと感じている。
やがておばあちゃんは死に、茉莉だけが取り残される。自分の問題は自分で解決しなければいけない時が来る。それは決して遠い未来の話ではない。
しかし終わらない一生の中では、そんなことは些事なのかもしれない。
けれど、やがてこの記憶も忘れるのだと思うと、やっぱり怖かった。怖くて仕方がなかった。心の底から殺してほしいと思った。
誰かにわたしを定義して欲しかった。
*
「どうですか?」
瑞穂の方を見て訊く。
「でも、瑞穂さんよりはましな人生を過ごしている気がします」
「どうだろうな。比べられるものでもないぞ」
瑞穂はよく考えた末にそう言った。けれどそれは本心ではない。
茉莉の方がずっと酷いように思う。
「まぁそうですね。不幸比べなんてするものじゃないですね」
茉莉も納得する。
二人は公園にいた。
今日の空は灰色で、向こうには黒を滲ませた雨雲が漂っていた。湿った空気が肌に張り付く。いつものようにセミが鳴いている。潮の香りに、雨の香りも混じっている。
それは知ったばかりの、茉莉の人生を表しているようでもあった。
少し会話に間が空いた。瑞穂は茉莉の話を受けて、これから話そうと思っていたことを少しだけ変えて言う。
「なぁ茉莉」
「なんですか?」
「やりたいことは決まったか?」
「まだですよ」と茉莉は言う。
「でも、どうしてですか? 別にわたしに構ってくれる必要はないんですよ? それにもしわたしにやりたいことが見つかったとして、それに瑞穂さんが付き合う必要もないんですよ? 瑞穂さんは夏の終わりに死ぬんでしょうに」
瑞穂が夏の終わりに死ぬことだけは、どうしても変えられないのだと、茉莉は分かっている。
根拠はなく、直観で。
きっと彼は決めているのだと茉莉には分かる。
「どうしてだろうな」
瑞穂は肩をすくめて笑った。
「でも決めたから」
ほらやっぱり、と茉莉は思う。
「変な人ですね」
「お互い様だろう」
それからしばらく、茉莉は暗い空を見ながら「やりたいこと」について考えた。
その間瑞穂は、夏らしいものについて考えていた。
今頃は高校野球のテレビ中継が行われていることだろう。いいや、もしかすると決勝戦を終えて、放送はしていないかもしれない。
高校野球は夏の風物詩ではあるけれど、意識を向けたことがないから、詳細についてはよく分からない。
雨の降り始めた岩船の町を見て、ようやくここが地元だと感じて、夏らしく思えるようになる。
今まで地元のように思えなかったのは、心の奥に色々なものがつっかえていたからだろう。
「――一つだけ。実現は無理でしょうけど、一つだけ思いつきました」
茉莉は突然、そう言った。
瑞穂は驚いたような表情を見せながら相槌を打つ。
「なんだ?」
「わたし、記憶を取り戻したいんです」
黙ったままの瑞穂の顔を見て、心配そうに言う。
「変なことでしたか?」
「いいやそうじゃない。茉莉、記憶ないもんな」
「はい」
「分かった。できるだけ記憶を取り戻してみよう」
「……どうやるんですか?」
「分からない。けど色々試してみるしかないだろ」
茉莉は瑞穂の考えていることが分からないので、首を傾げながら、しかし「まぁ、そうですね」と頷く。
その返答が不満そうだったからか、瑞穂は「やりたいんだろ?」と確認するように訊いた。えぇ、と言う。
ややあって、瑞穂が言う。
「今からだいたい十日後、そこが八月の終わりだ。それまで少し旅をしよう」
「旅ですか?」
「あぁ。この辺に、覚えていないだけで知ってた土地があるはずだ。そういうところを巡るんだ」
「それで、どうするんです?」
茉莉がそう言うと、瑞穂は考えをまとめるため、少し間を置いた。
「あくまでも俺の推測だ。記憶ってのはだいたい、何かの物を媒介にしてる。たとえばテストの問題を見て答えを思い出したり、とっくに忘れていたことを昔の写真を見て思い出したり。つまり記憶はモノに宿ってると考えることができる。なら、昔行った事のある場所へ向かえば、何かしらは思い出せるんじゃないか? そう思ったんだ」
安直だろうけどな、瑞穂はそう付言する。
茉莉はなるほど、と頷いて言う。
「それは一理ありますね」
と茉莉は言った。
「そういえば、部屋にいいものがありました」
茉莉は手帳のことを思い出す。それは日付間隔がバラバラな日記のようなものだ。茉莉の知らない昔からのことが本当に大まかに記されている。
多分、記憶を失うことを恐れた昔の茉莉が書いたのだろう。
けれど今のことは記録されていない。
だって、書いてしまったら失った時が怖いから。失いたくないのが本音ではあるけれど、失うのなら知らないままにしておいた方がいいに決まっている。今はそう思っているのだ。
「手帳があるんですけど、確かそこに何か書いてあった気がします」
少し考えるように間を置いて言う。
「少し家に来ませんか?」
「家?」
茉莉と瑞穂の視線が交わる。
数秒間、そうしていた。
茉莉は、なんだか恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。
まるで家に誘っているようではないか。そんな風に思う。
茉莉は誤魔化すように、その発言を押し通した。
「旅に出るんでしょう? 目的地はある程度、決まっていた方がいいんじゃないですか?」
「まぁ、確かに。そうだな」
それらしい理由を付けて納得させた。
しかし結局のところ、瑞穂が部屋に上がることに変わりはない。
そうして二人は、瑞穂が自殺をするまでの間、茉莉の記憶を取り戻す旅に出ることになる。
茉莉は、瑞穂の行動に一切の期待をしていなかった――正確には、期待しないようにしていた。
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