5-4 思い出の中で、永遠に。永遠に
「いつからこうだったかは、わたしにも分かりません。少なくとも二十年、いいや、もっとでしょうね。わたしはきっと、産まれた時からこうだったんです」
帰り道、茉莉は独白のように語りだした。
いつかの茉莉がそうしてくれたように、瑞穂は黙って、時折相槌を入れて、その話を聞いた。
「どうしても死ねないんです。身体を切っても、ぐちゃぐちゃにかき混ぜても、心臓を潰しても、わたしの身体は元通りになるんです。ただ、痛いだけなんです」
声がどんどん小さくなっていく。
「怖いですよね……」
瑞穂は何も言わない。
「瑞穂さん。いなくなっていいんですよ? わたしなんて人間じゃないんですから。怖がって逃げないんですか? 気持ち悪がって逃げないんですか?」
瑞穂は足を止めて、茉莉の目を見る。
「いいや、驚きはした。けど、それとこれとは別の話だろ? たとえ怖いって思っても、茉莉には感謝してるんだ。突然いなくなったりしない」
「そうですか」
抑揚を抑えて言った。
「変な人ですね」
「それは茉莉がよく知ってるだろ?」
「えぇ。わたしは瑞穂さんが変な人だって、よく知っています。だってこんなわたしを見ても逃げないんですから」
少しだけ茉莉が笑う。
「でも、どうして不思議に思わないんですか?」
「流石に思ったよ。でも知られていないだけで、そういうこともあるんだろうなって思ったんだ」
「理解できませんね。それがおかしいって言ってるんですよ」
「そうかもな。でも考えてみろよ。命の病気ってのは俺みたいに命を蝕んでいく。そして最後には完全に寿命を搾り取っていく。だからさ、そんなものがあるんだから、逆に死ねない病気があったって、何もおかしくないだろ?」
普通でない瑞穂だからこその思考なのかもしれない。
それを普通の人に言えば、「なんだそれ」と鼻で笑われるだけだろう。
だってそれは人間の常識から外れているのだから。けれど普通でないことには、常識は通用しない。
普通でないことに通用するのは、いつだって普通でないことなのだ。
茉莉もまた、瑞穂と同様に普通でない人間だから、「そうですね」と笑って返した。
「わたしが死ねないのはどうしようもないんですね。だから瑞穂さんが羨ましいです」
冗談交じりの茉莉の言葉に、瑞穂は微笑む。けれど黙ったままだった。
それに返せる言葉が見つからなかったのだ。
それから会話はなく、ただ黙って歩いていった。
*
茉莉と別れ、瑞穂は家の方に戻る。
しかしどうしても父親と顔を合わせる気分にはなれなかった。
二度と顔も見たくない。そんな風に思った。
だからいつもの公園に行こうかと思うけれど、しかし夜だから道が見えないだろう。危険だから、選択肢からは除外した。
瑞穂はあてもなく深夜徘徊をしてみることにした。
ここまでくれば既に祭りの音なんてものは聞こえない。
セミの鳴き声と、じりじりと声を上げるケラの虫が、まるで一つの楽曲を奏でているようだった。
じんわりと身体や額、こめかみから汗が垂れる。
一軒家を見て、ふと、茉莉がどうやって暮らしているかが気になった。
一軒家を持っているか、空き家を勝手に借りているか。もしくは家があるなんてことは嘘で、本当はその辺で野宿をしているとか。
けれど毎日洗濯をきちんとしているようで、洗剤の甘い匂いがする服を着ていたから、家は確かにあるのだと思う。
けれどあの様子だと一人で暮らしている気もする。
そんなことを考えているうちに、幼少時代に一人で遊んでいた、小さな公園に辿り着く。そこにはブランコと少し大きめの滑り台の二つしか遊具はない。
「懐かしいなぁ」思わず呟いた。
瑞穂はあまりにも小さすぎるブランコに腰を掛けて、地面を蹴った。
ぎしぎしと軋む音がしたので、すぐに腰を上げた。
それから滑り台の上に一人で立って、夜空を見上げた。
先程まで降っていた雨は過ぎ去り、空には星が疎らに散っていた。
素直に綺麗だな、と思う。そして隣に誰かいたらよかったのだけれど。
そう思ったのだけれど、今は一人だ。
程よい疲れが身体を包んでいた。何も考えず、広大な空を見上げているうちに瞼が落ちて、やがて意識も同じように落ちていった。
しかしその中でも、ひなたの
『――人の愛し方も、愛され方も分からないんだね』
その言葉が残響のようにいつまでも離れなかった。
*
それは美化された思い出。
昔の自分にとってはたった一つの青春らしい思い出、けれど真実を知ってしまった今の自分にとっては、ただの記憶の一つでしかない。
ひなたへの関心は、どうやら捨てきれていなかったらしい。
瑞穂はその夜、ひなたの夢を見た。
それは約束の夢だった。
思い描いていたような青春らしい約束。
けれどそれは、十年もの時を経て瑞穂が美化して仕上げたもので、真実は違う。
そう頭では理解している。けれどその理解が追い付かないのも事実だ。
だからこうして夢にまで見ているのだろう。
こんな自分には不相応な夢だ。
たった数時間前までは、こんな夢を見たのなら大喜びしていたに違いない。
でも、あぁ、これは美化された、夢のような夢だ。間違った夢だ。その景色を見て、そんな風に思う。けれど瑞穂にとって、やっぱりこれは大切なものでもある。
だからこれは、瑞穂の記憶の奥底にしまっておくことにする。
そうして瑞穂の理想の「佐中ひなた」は、ずっと青春であり続ける。瑞穂だけの「佐中ひなた」であり続ける。
そうすることで、彼女は生き続けるのだ。
思い出の中で、永遠に。永遠に。
*
鳥のさえずりで目を覚ました。とても健康的な目覚めだった。
場所以外は。
目を開けると、まず何より、雲一つない青空があった。それはどこまでも続いていく。いきなりそんな景色を見て、これはまだ夢の中にいるのだな、と思う。
けれど青空を横切った小さな虫が羽音を立てて、これは夢ではないのだと気が付く。
がちがちに固まってしまった身体を、強引に起こした。ずきずきと背中が痛んだ。そして周囲を見渡して、公園で眠ってしまったことに気が付く。
「やっちゃったな」
ベッドがどれだけ素晴らしいものかを、野宿で理解する。
瑞穂には決めたことがあった。昨日の帰り道、そして散歩をしている最中、決めたことだ。
それを実行するためには、家に戻らなくてはならなかった。
時期的に、今日がお盆休みの最後だ。間違いなく父親はいるだろう。会いたくはけれど、嫌なことは早めに終わらせた方がいい。
そう考えて、瑞穂は家の方へと向かうことにする。
これが最後になるかもしれない――そう思ったら、少しは気分も上がってくる。
*
ただいまも言わずに家に帰る。
できるだけ足音を立てないように階段を登った。
そうして二階にある自室へと到達する。
瑞穂は帰省してきたときのリュックに、衣服を入れられるだけ入れる。
リュックは食べ物を溜め込んだリスのように膨らんだ。担いでみれば、まるで人を背負っているように重たい。
父親に気づかれないよう、再び足音を抑えて階段を下る。
そうして玄関まで行き、靴を履いていたその時、声がした。
「瑞穂?」
瑞穂は心臓を跳ねさせ、振り向く。
父親が階段の向こうの部屋から顔を出していた。
瑞穂から見えている景色は、理不尽に暴力を振るわれた昨日の朝と全く変わらない。
瑞穂の身体は次第に硬直を始める。
「どこか行くのか?」
「あ、いや」
喉が詰まりそうになり、唾を飲み込む。
「少し出るだけ」
「そうか」
どこか悲しそうな声で言った。
瑞穂は今の父親に暴力性がないことを悟り、身体の硬直は解けていく。
今のうちに家を出ようと思った。
「じゃあ行くから」
「あぁ」
そうして父親はリビングの方へ戻ろうとする。
瑞穂は玄関の扉に手をかける。
そして玄関の戸を開けた。
背中には父親。
こんな親とも思えない父親で、理不尽に暴力をふるう。
お金があることくらいしか取り柄がなくて大嫌いだけれども、どこまでいっても彼は親なのだ。
最後くらいは、と思い、小さく「じゃあな」と呟いた。
父親はそれに気づかない。
金属が噛み合う音がして、玄関の戸が閉まる。
そしてそのまま、二人は永遠に会うことはない。
これが最後の会話になる。
家の冷蔵庫には、ケーキが残されていた。
大人の男性が二人で食べるには丁度いい、四号サイズのホールショートケーキだ。
瑞穂。十月、辺り一帯に実る黄色い稲穂のように、美しくあれ――そんな風にして名付けられたことを、永遠に知らないまま、またそれを永遠に伝えることのないまま、二人は別々の道を歩み始める。
そして父親は、生涯瑞穂の帰りを待ち続けることになる。
しかし瑞穂はもう決心したのだ。
どうしても戻れない理由が、そこにある。
*
茉莉はいつものように公園のベンチで本を読んでいた。
普段と何一つ変わらない。
しかし内心では、どうしようもない孤独感に苛まれていた。
茉莉の記憶はあやふやで、大事なところが欠けている感覚がある。
思うにそれは、記憶の容量オーバーによって、古い記憶を脳が勝手に消去しているからだと考えられる。
そうすることによって、昔の記憶はなくなる。自分の出生に関してや、どうやって育ったのかに関しての一切を覚えていないことの説明がつく。
茉莉が覚えているのは、ここ数年ほどの記憶だけ。
推測を付け加えるなら、記憶メモリーを、古くなったパソコンのバッテリーのように、消耗してしまったのではないか、とも考えられる。
だから怖いのだ。記憶がないことが――その中で何があったのか、本当はやるべきことがあるのではないか、戻るべきところがあるのではないか。
だから目を瞑っていた。怖くてどうしようもないのだ。
しかしある日、一人の自殺志願者が茉莉の元に訪れた。
いいや、ただそれは公園を訪れただけに過ぎないのだけれど。だからそれは決して運命なんかではない。間違っても絶対に。
毎日が怖くて仕方がなかった。だから自然に身を置くことで、本に没頭することで、空の変化の機微を見て、時間を忘れようとしていた。
けれどそれにも限界があった。
そんな恐怖も、その自殺志願者といる時だけは、心の奥に引っ込んでいってくれた。決して恐怖が和らいでいるわけでも、薄まったわけでもない。
ものをタンスにしまう要領で、恐怖が心の奥に一時的にしまわれるのだ。
しかし知られてしまった。
――死ねない病気を持っていることを。
知られてしまったからには、自殺志願者は茉莉に恐怖を抱くだろう。
恐れ、怯え、やがて茉莉の顔も思い出したくなくなるのだろう。
心のよりどころとして存在を、自殺志願者に求めていた。しかしそれ以上に、彼――瑞穂との時間が楽しかった、というものある。
もっと時間を共有したいな、と思う。
あの時、その事実を知っても彼は茉莉を恐れなかった。
けれどそれはきっと表面的なものにすぎない。心の奥で恐れているのだ。彼だってそうだ。死なない、普通でない茉莉を。
そうして二度と瑞穂と会えなくなる。
だから茉莉は悲しんでいた。
けれど嘆いていてはいない。
時間を共にしたい彼の命を救えたのだから。
瑞穂を助けたのは、目の前で死んでほしくなかったから。
どうせ死ぬのなら、希望を残したまま死んでほしい。目の届かないところで死んで、まだきっとどこかで生きている。そんな風に思わせてほしい。
そんな具合に心は前向きだけれど、顔は俯いたままだ。
もう二度と会えないということは、何より悲しくて切ないことなのだから。
このいつもあるような、それでいて少し違う景色を共有できないのは、きっと隣に瑞穂がいないからだ。
いつも彼が座っていたところだけ、ぽっかりと穴が空いたようにも思える。
そんな感覚は本を読んでも、空を見上げても、風の声に耳を澄ませても、消えることはなかった。
違和感を抱えたまま、茉莉はただ時間が過ぎるのを待った。
瞬間、風が吹きぬけて、茉莉の前髪を揺らす。
潮の香りがする。
遠くの海を見た。そして真上のどこまでも青い空を見る。
綺麗だなぁ、と思う。「綺麗ですね」と言いたいな、と思う。
声がする。
寂しく思うあまり、ついに幻聴まで聞こえてしまったのかと思う。
けれどその声がしつこいものだから、幻聴ではないと気が付く。
そして茉莉は、声のする方を向く。
「――っ、瑞穂さん!」
「どうした、そんなに大きな声出して」
瑞穂は笑って言った。
茉莉は自分に落ち着けと言い聞かせて、小さく息を吐いた。
そして笑って言う。
「来てくれないかと思ってました」
「いいや、来るさ」
ふと、自分がらしくない行動をとってしまったことに気が付き、茉莉は夕焼けのように耳を赤くする。
瑞穂はいつものように振舞った。
まるで昨日の出来事なんかなかったかのように。それは「茉莉は茉莉でいていい」そんな風に言っているように思えた。
茉莉は「普通」ではない。もちろん瑞穂も「普通」ではない。
けれどたった二人の空間に限ってしまえば、茉莉も瑞穂も普通なのだ。そこに当たり前なんてないのだから。
そして瑞穂は、いつも持ってきていなかったリュックを、ベンチに置いた。
腰を下ろして、息を吐く。
茉莉、と名前を呼ばれ、彼の方を向く。
そして彼は、茉莉の目を見て言った。
「やりたいことはないか?」と。
瑞穂は気づいたのだ。
最も不幸なのは自分ではなく――彼女の方だったのだと。
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