5-3 思い出の中で、永遠に。永遠に

 心の高揚とは裏腹に、二人は黙っていた。

 瑞穂は何を話せばいいか分からなかった。それは彼女も同じだろう。


 三分ほどの沈黙が一時間のようにも感じられた。

 初めに口を開いたのは、ひなたの方だった。


 「瑞穂くん。大人になったね」

 「そういうひなたこそ」


 『ひなた』――その口の動きをしたのは随分懐かしいような気もしたし、その名前が自分の口から発せられていることすら不思議に思った。


 それら全てひっくるめて、ひなたが隣にいることが不思議でならない。ずっと記憶の中だけの存在だと、心の中で思っていた。けれどここにいる。目の前にいるのは、佐中ひなた本人なのだ。


 だから驚きや困惑とか、小学校で別れてからの感情をすべて含めて、瑞穂は言う。「会えてよかったよ」と。


 「うん、わたしも」


 一度話が回りだすと、不思議なことに先程までの緊張だったり、困惑だったりはどこかへ飛んでいった。

 何を話せばいいんだろう、そんな風には悩まなかった。


 「別れてからはどうだった?」

 「転校先の学校のこと?」

 「それもそうだし、それから先のこととか」


 「うぅん」と顎に手を当てて悩む仕草を見せる。

 それは昔と何ら変わらない。


 しかしどこかに変化を感じてしまった。


 それは彼女が大人になったからのだろうか。

 そして自分が子供のままだからだろうか。


 「別に普通だったなぁ。普通に友達と過ごして、中学に進学して、そこでも普通に過ごして、高校に入学して、そこでもおんなじ。普通に過ごしたよ。それから就職して、今に至るって感じ」

 「大学には行かなかったんだな」

 「お金があればね、言っただろうけど。厳しいんだよね」


 瑞穂よりもずっと頭が良かったのに。あるいはスポーツ推薦でも行けたかもしれないのに。

 

 素直にそう思った。


 暗闇の中では表情はうまく見えなかった。

 その中で、明るい感情ではないものが混じっていたのを、瑞穂は確かに感じ取った。


 「そっか」と相槌を打つ。

 「瑞穂はどうしてた?」

 「俺も普通だよ」


 いじめられた過去を、友達がいなかった過去を、ぼかして言う。


 「ひなたがいなくなってからも普通に過ごした。普通に成長して、普通に大人になった。立派な大人にはなれなかったけどね。それにはなれなかったな」

 「立派な大人って」

 ひなたは口に手を当て、くすくすと笑う。

 「小学校の頃は、わたしも頑張ってたんだなって。瑞穂と会って思い出したよ。懐かしいなぁ」

 「ほんと、懐かしいな」


 どこか違和感を覚えながらも、十年越しの再会を喜んだ。

 懐かしんで、ひなたと話した。

 しかし瑞穂はその違和感の正体をすぐに突き止めてしまう。


 話題が進み、瑞穂はずっと思っていたことを切り出した。


 「そういえばひなた、成人式こなかったね」

 「この町の?」

 「うん」と頷く。

 「わたしはこの町があんまり好きじゃなかったからさ、来なくていいかなって思ったの。小学校で楽しかったことなんてあんまりなかったし」


 後半の方、何を言っているか分からなかった。

 言ったことが右耳から左耳へと、言葉がトンネルのように通り抜けていった。

 恐る恐る訊いてみる。


 「ひなた」

 「ん?」

 「約束って憶えてる?」

 「えっと……なんの?」


 暗闇の中でも、ひなたが困った表情を作っているのは分かった。


 「――ううん、いいんだ。忘れてくれ」首を振って言う。

 「そうなの?」ひなたは不思議そうに首を傾げる。


 「あぁ、忘れてくれ」

 それは自分に向けて言った言葉でもあった。


 約束をしたのは小さな昔の一瞬の出来事だ。

 それ以外にもきっと、些細な約束を積み上げてきたことだろう。それを記憶の中に残している瑞穂の方が異常だったのだ。

 ひなたにとっては忘れてしまえるほどの、ありふれたことだったというだけで。


 ふと、二人で話した昔話に矛盾があることに気づいてしまった。

 それは考えたくない可能性でもあった。けれどどうせ自殺をするのだ。本当のことを知ってしまったところで、もう何も変わりやしない。

 思い切って言ってみることにする。確かめずにはいられなかった。


 「……その約束ってのはさ」

 瑞穂は脈絡なしに話し始める。

 「ひなたが俺に転校するって言ってくれた日のことなんだよ。俺ら二人は中学受験の話で学校に残されて、帰ろうとした。玄関に出たら雨が降ってて、二人で晴れるまで待ってたんだ。その時、ひなたと俺で、成人式で再会しよう。そんな感じの約束をした。憶えてるか?」


 「そうだっけ? でもそんなこともあったような気もするね」と微笑む。


 そこで気が付いた。

 ほんの数ミリだけ、ほんの僅かではある。しかし瑞穂とひなたの間には限りなくゼロに近い、けれど大きなずれがあることに。


 初めはひなたの方がずれているのかと思った。

 けれどずれているのは自分の方だと気づく。


 今までの人生の中で、自分が普通だったことなんてほとんどないのだから。普通ではないことの方がずっと多かった。今回もそうなのだ。きっと。


 今まで互いに向かいの一軒家を見ていたが、ひなたが視線を瑞穂の方に向けた。


 「ねぇ、瑞穂。今、幸せ?」

 「なんだよ突然」


 その言葉に、ひなたは何も言わない。


 瑞穂が言葉を発そうとした瞬間、目の前を一台の自動車が通りすぎ、二人の顔を照らした。今まで夜の闇に包まれて見えなかったひなたの顔を、ようやく見ることができた。


 しかしそれは、瑞穂の知るひなたではなかった。

 ひなたはこんな姿ではなかったのだ。


 やはり


 「わたしは今、それなりに幸せだよ」


 そう言い始めた頃には車は通り過ぎ、ひなたの顔は夜の闇に紛れて見えなくなっていた。


 「けどさ、百パーセントかって言われたらそうじゃないと思う。わたしは欲張りだから、百パーセントの幸せを掴みたいの。だから瑞穂くんのことを羨ましく思ってた」


 それは俺の病気のことを知らないからだ。

 そう言いかけて、ひなたの言葉に潰される。


 「羨ましく思ってたのは、瑞穂くんの方も一緒だったんでしょ?」


 色んな音が、ひなたの声でさえ、遠く感じた。


「わたしには分かってたよ。あぁ、嫉妬されてるんだなって。互いに嫉妬し合ってた。そうだよね?」


 ――そうだった。あの時の約束は、そんなロマンティックな話ではなかった気がする。


 「わたしはお金がなかったから人生を棒に振った。振らざるを得なかった。もっといい人生が送れるはずだった。そんな時、わたしの前に現れた瑞穂くんはお金持ちだった。もしかしたら運命の出会いかもしれない。人生が変わるかもしれない。初めて出会った時はそう思ったけれど、でも一緒に時間を重ねていくうちに、瑞穂くんとは相いれないんだなって思った。きっとその違いのせいだね。その記憶も、きっと都合のいいことだけを切り抜いて憶えているんでしょう? わたしは記憶力がいいからさ、分かるんだよ。約束はしたけれど、そんな青春みたいな話じゃないって」


 ――思い出の美化が解けていく。


 「それはもっともっと、どす黒い話だったんだよ」


 そっか。あれは成人式の再会の約束じゃなかったんだ。瑞穂は思い出す。

 記憶を正確に。あれはひなたからの一方的な約束の取り付けだったのだ。


 つまり、こういうことだ。

 あの頃の瑞穂は、既に勉強の才能の衰えを感じ始めていた。ひなたもそれに気づいていた。だから成人式に立派になって現れるはずがないと。そう決めつけて、約束をした。


 それは再会の約束ではあるけれど、初めから決して叶うことのない、再会の約束だったのだ。


 そして更に思い出す。


 佐中ひなたという人間は、記憶の中のような誰にでも平等な人間ではなくて、いわゆるいじめっ子のような性格をしていたと。


 瑞穂は本当に都合のいい解釈をしていた。


 それでも昔、ひなたに恋をしていたかと言われたら分からない。


 「この祭りに来たのは、もしかしたら瑞穂くんに会えるかなって思ってだった。わたしは瑞穂くんのことが好きだったから。けれど瑞穂くんは違うわたしに恋をしていたみたい」


 ひなたの笑いは乾いて聞こえる。



 「瑞穂くんは、瑞穂はきっと――人の愛し方も、愛され方も分からないんだね」



 何も言うことができないまま、時間だけが流れていく。

 頭が回らない。遠くで騒ぐ人々の声がやけに大きく聞こえる。遠くで祭囃子が聞こえるけれど、それは耳を経由して外に出ていく。

 うまく情報を拾えなかった。


 「じゃあね」

 ひなたは顔を闇に向けて言う。

 「好きだったよ」


 そう言うとひなたは立ち上がって、出店の通りへと消えていった。

 自分勝手に言いたいことを言って、いなくなったひなたに、文句はなかった。

 聞きたいことは山ほどあった。けれどひなたを追いかける気にはならない。瑞穂の足は根を張ったように、茉莉の方に向くことはない。


 瑞穂は何となく立ち上がった。

 足が向いたのは、彼女が消えた方向とは反対の方だった。

 祭囃子から遠のいていく。


 今は一人になりたかった。





 あてもなく、まるで酔っぱらいのように歩いた。

 先程のひなたの問いに答えるとしたら、間違いなく「自分は今、世界で最も不幸だ」そう答えるだろう。

 決して幸せなんかではない。そう言える。


 なんて言ったって、今まで見てきた思い出はありもしない幻想のようなもので、それに縋って生きてきたのだから。

 本当に惨めに思える。惨めで仕方がない。


 幸い今日は祭りだから、酔っぱらいなんてどこにでもいる。

 未成年ではあるけれど、警察に補導されることはなかった。


 ぽつぽつと小雨が降り始める。夏の蒸し暑い夜を、一気に冷やしていく。それと同時に、空気に湿り気を含ませていく。

 酔っぱらいは彷徨うゾンビへと変わり、雨に身体を濡らしながら歩いた。


 そうして大きな橋に差し掛かったとき、ふと、生きる目的が完全になくなってしまったことに気が付く。


 齋藤の家は訪れたし、茉莉を祭りにつれてくる約束を済ませた。

 ひなたの件もどうにかなってしまった。


 自分にはもう何もない。もう終わらせてもいいのではないか。


 ここは橋。下は石で学校くらいの高さだから、飛び降りてしまえば死ねること間違いなし。


 飛び込めばすべて終わるんだ。


 たったそれだけで。


 この苦しみも、この痛みも、ぜんぶぜんぶ。


 柵に手をかけてみる。

 すると驚くことに、自分でも知らないうちに身を乗り出していた。柵に足をのせ、いよいよ体重を前にかければ死ねる。

 あぁ、やっと終わる。そう思った。


 そして瑞穂は一歩、空へと足を踏み出した。


 「――瑞穂さん!」


 声が聞こえた。それが茉莉のものだと気づいたころには、すでに身体は落下を始めていた。

 すると茉莉も身体を乗り出した。

 「来るな」と言う暇もなく、彼女も瑞穂と同じように、橋から飛び降りた。

 彼女は蹴って飛び降りたから、少し瑞穂よりも落ちる速度が速い。

 すぐに瑞穂に追いつくと、そのまま抱きついた。


 「瑞穂さん!」

 「茉莉、どうして!」


 しかしそれ以上言葉は繋がらず、物凄い衝撃と共に、二人は地面に叩きつけられた。

 茉莉から。

 身体中に痛みを感じるけれど、意識ははっきりとしていた。打撲で済んだのだろう。それよりも。そう思って抱きかかえられた茉莉を見た。


 その下に血があった。具体的には肉と池が。


 「茉莉……?」

 「待って、いて……くださ、い……」

 「喋らなくていい。無理するな!」

 「ほ、んとう、に、だいじょう、ぶなんで、すよ……」


 血まみれの、まるでゾンビのような顔で笑った。

 数分ほど声を掛け続けた。大丈夫か、大丈夫かと。声が枯れるまで、大きな声で言い続けた。


 夜の闇に、自分の声だけが響く。

 返事はない。


 そんな中、あることに気づく。

 茉莉の呼吸がはっきりとしてきていることに。


 回復していたのだ。

 ふと、もう一度ぐちゃぐちゃになった肉を見れば、先程の血の池が嘘だったように、肉が繋がっていた。


 「――は?」

 「ごめんなさい」


 茉莉は小さく、でも、はっきりとそう言った。

 それは死にかけの人間の言葉とは思えないほど、流ちょうだった。

 そして今度は、苦しさを全く感じさせないように言う。

 それは目の前の光景を現実と証明する。


 「わたし、病気なんです――死ねない病気なんです。ごめんなさい」


 言葉にできない。

 何を言っているのだろう。

 理解が追いつかなかった。

 どう考えてもおかしなことだ。


 誰かからそんな話を聞いたら、作り話だと思ってしまうに違いない。それくらい、馬鹿げている。

 でも瑞穂はあろうことか、考えた末に「そういうものもあるのか」と思った。


 だってそうだろう。

 自分のように命が限られている人間がいるのなら、命が限られていない、永遠に生きる人間も存在していたって、おかしなことではない。


 そう考えてしまった。それはおよそ、普通の人間の思考ではない。


 謝ったのは、永遠の命を前にして、瑞穂の寿命が限られていることについてだろうか。それとも瑞穂の自殺を邪魔したことだろうか。

 そんな具合に考える瑞穂の傍で、そんな気を知らずに、茉莉は懇願する。


 「でも死なないでください。せめて夏の終わりまで、死なないでください。お願いします! わたしのことを嫌いになってもいいですから」

 「……どうして死んでほしくないんだ?」

 「それは分かりません。でも、どうしても、死んでほしくないんです。もう二度と顔を見せなくたっていいですから、死なないで欲しいんです。どうか、どうか」


 茉莉は頭を下げて懇願した。

 問いに対しての答えになっていなかった。ここまでされるのは、今までの人生の中で初めてだった。直前に言われた出来事も相まって、混乱してしまう。


 「あぁ、分かったよ」

 状況はうまく飲み込めないけれど、とりあえずそう言った。

 「ひとまずは立って。帰ろう。人が集まってきた」


 橋の上には飛び降りを見ていた人々が集まっていた。

 警察に通報もされているだろう。

 面倒ごとは避けたかった。


 「さ、いくぞ」


 瑞穂は茉莉の手を引いて立ち上がる。

 その頃にはもう、身体は完全に元通りになっていた。その身体を見て、瑞穂は小さく「本当に死ねないんだな」と言う。


 「はい。そうなんです」

 茉莉は申し訳なさそうに俯く。

 「後で詳しく訊くから、今は行くぞ」

 「はい」消え入りそうな声で言った。


 そうして二人は自分たちの町、岩船へと歩き出す。


 遠くで祭囃子が聞こえた。

 それに合わせる掛け声も大きく聞こえる。それらに少しだけ力強さを感じるのは、今年の祭りの締めくくりが近いからだろう。


 春は終わりを告げ、夏がこの手から、まるで砂のようにこぼれ始めた感じがした。瑞穂たちは華やかな祭りを背にし、深い闇へと歩んでいく。


 もう、戻れない。

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