2-4 夏の終わりに
少し雲のかかった日だった。
昨日まで照り付けていた太陽は、灰色の雲に隠れているが、暑さだけは確かに雲を貫通して、地面まで届いている。むしろ空気に湿気を含んでいるから、普段よりも蒸し暑さが増して、身体中に張り付くような汗が纏わりついていた。
瑞穂は公園を訪れる。茉莉は今日もそこにいた。
「おはよう」
「おはようございます」
茉莉は微笑んで挨拶する。
五日も経過すれば、こうして自然に挨拶できるようになっていた。瑞穂がこの公園に来る目的は、自殺の下見なんかではなくなっていた。
しかしはっきり言っておくと、それは恋ではないだろう。
家にいることに耐えられずに、瑞穂は行き場を求めていた。この公園に茉莉がいても、いなくても、瑞穂はきっとここに来ていただろう。ただそこに、茉莉がいただけなのだ。
でも幸運なことに、茉莉は瑞穂にとって気兼ねなく話せる相手だった。
互いに素性も知らず、成人式が終われば自然に会うことも無くなる。そう思っていたからこそ、瑞穂は気楽でいられたのかもしれない。
そしてそんな気持ちが、自分について語る要因の一つだったのかもしれない。
何より、茉莉が話しやすかったから、というのもある。
五日もずっといて、会話には困らなかったけれど、特に話すことがなくなっていた。そこで自分について語っていないことを思い出す。自己紹介も名前だけで、ちゃんとしていなかった。
だから瑞穂は、茉莉に話した。
これまでの人生の全て。
余命宣告されたこと。三十五歳までしか生きられないこと。身体が人よりもずっと弱いこと。両親のこと。友人が自殺をしたこと。成人式のこと。
もう少ししたら、ここで自殺をするつもりだということ。
そしておおよその目安は夏の終わりと言った。
そうして語ったこれまでの二十年の人生を、たったの二分で終えてしまえた。
瑞穂は余命宣告のことを、父親以外に初めて語った。ひなたにも、中学からの友人だった齋藤にも言ったことはなかった。
瑞穂の話を聞いて、茉莉はただ、そうなんですねと言った。
それから考えるように灰色の空を見上げる。
空はいつもよりもずっと暗い。
けれどセミは相変わらずうるさく鳴いていて、草むらからはじりじりと虫の声が聞こえる。いつもと何も変わらない夏の色だった。
「まぁ、そんなこともありますよ。人生ですから」
その言葉には、わたしは瑞穂さんの自殺を止めませんよ、という意図が含まれている気がして、余計な気を遣われるよりずっと楽だった。
やっぱり茉莉は話しやすい人だなと思う。
心情を察して下手に止められるよりも、何も言わない方がずっといい。
話しやすい人とはつまり、瑞穂にとって都合のいい人なのかもしれない。そんな風に思う。
けれど瑞穂は、そう思ったことを数分後、心の中で訂正することになる。
「心残りとか、ないんですか? 死ぬんでしょう?」と茉莉は言った。
「まぁ死ぬけどさ。やりたいこと、ね。思いつかないんだよ」
そうですね、と前置きをして茉莉は言った。
「実はわたし、記憶が欠けているんです。だからわたしなら、記憶を取り戻したいなって思います。だったら、そのために旅をするとか、ただ当てもなく放浪するとかですかね。なんだったら、この公園で余生を過ごす、とかでもいいんですよ?」
「そっか。……あ、いや、待て。記憶喪失だったのか?」
「そうなんです。と言ってもまぁ、別に支障のない程度ですけどね。本当に些細なことなんです」
茉莉は不安気に、多分ですけど……、と付け加えた。
記憶が無いのなら、どれだけ記憶を失っているか分かるはずがない。
瑞穂はここで、初めて茉莉に気を遣われているのを感じた。
それは自殺をする瑞穂に、余計な心配をさせないようにという配慮だろうか。
けれど瑞穂は、その配慮があろうとなかろうと、茉莉を心配なんてしなかったに違いない。瑞穂はそういう、自分本位な人間なのだ。
「ま、わたしのことは置いておいて、なにかないんですか?」
「俺には遺書を残すような人もいないし。けどまぁ、考えてみれば、幾つか『やり残したこと』ではないけど、やってもいいかなってことはあるな」
「なんですか?」
「自殺した友人に顔を見せに行くことくらいだ」
なるほど、と茉莉は頷いた。
「夏の終わりに死ぬんですよね? なら、やり残したことをないようにしないと。早速行きましょう」
そう言って茉莉は、勢いよく立ち上がった。
「は?」
茉莉の行動に、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「実はわたし、暇だったんです。わたしだって、たまには外に行きたいんですよ。さぁ」
その行動を上手く理解できなかった。
「毎日ここにいるんじゃなかったのか?」
「それは暇だったからです。でも瑞穂さんが来たから、たまにはいいかなって思ったんですよ」
「でもなぁ」と渋る。
「そう言ってる間に、時間は過ぎていくんです。人間はいつか死ぬものですから」
それはそうか、と言いくるめられる。
別に成人式までの時間をどう過ごそうと、何も変わるわけではない。そうなら、少しでもやりたいことをしたほうがいいに決まっている。
「あぁ、分かったよ。……行こう」
渋々そう言う。
「さぁ、わたしを案内してください」
そう言って茉莉は、先に歩き出した。
ちょっと待て、とは言えなかった。
その様子は、今までのもの静かな感じから、随分とかけ離れているように思えた。
ここで座ったまま、茉莉を無視することはできた。
でも、どうしてだろう。その時は瑞穂の足は、茉莉を追った。普段の瑞穂なら、絶対にしないようなことだった。
少し早足で、先に歩いていた茉莉に追いつく。
こんな面倒なやつだったとは知らなかった。
瑞穂は困って茉莉をどうしようかと悩む。
今ならばまだ引き返せた。
けれど時間を潰す相手には丁度いいから、やっぱり彼女を連れて行った方がいいのかもしれない。どうせ齋藤の母親に会いに行くのは、数時間で終わることなのだ。
小さくため息をつく。
まぁこれで時間がつぶれるならいいかと思い、前を向く。
草と木だらけの、あちこちからセミの鳴き声が聞こえる坂道を、茉莉と下っていく。
今日も潮の香りがした。いつもとほとんど変わらない。
ただ、少しだけ動き出したようにも思える。
人生の残りが迫って、ようやく何か人生が動き出すのかもしれないと、ほんの少しだけ、心を躍らせていた。
しかしそれは、ただの勘違いであることに、瑞穂は気づかない。
それに気づくため要素は、瑞穂の中に、分かり易く含まれているというのに。
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