3-1 過ぎた時間

 今にして思えば、齋藤と出会ったのは、偶然のようで必然だったのかもしれない。


 出会いは中学の頃。

 なんてことない日常に、正反対の彼が入り込んできたことから始まった。


 小学校は岩船で過ごしたけれど、中学は自転車で三十分ほどの離れたところに入学した。そこは中高一貫の、進学に特化した学校だった。


 瑞穂の成績は優秀だったし、入学に必要な費用は、瑞穂の家からしてみればさして高価なものではなかった。


 そして何より、ここでならいじめられないと思ったのだ。


 いざ入学してみれば、知っている顔は一つもなかった。

 その中で瑞穂は優秀な部類ではあった。けれど最も優秀というわけではなかったため、特筆して妬まれることもなく、いじめられることはなかった。


 瑞穂にとって、ここの中等部は最適に思えた。

 実際、友人がいないだけで、その通りだった。


 瑞穂は中学を全くの別環境に移したことによって、初めていじめがあたりまえでないことを知る。


 蹴ること、殴ること、暴言を浴びせること、その他すべては、瑞穂のいた小学校ではあたりまえだった。


 けれどここでは違う。暴力も、暴言もない。

 それらはいじめで、絶対にしてはいけないことなのだと知った。


 常識というものは、育つ環境によって構成される。

 瑞穂の生まれ育った環境は、暴力を肯定するものばかりだったから、そう思っていたのも仕方がない。


 同級生たちは勉強に精を出し、また、部活動にも同じくらいに精を出した。瑞穂は生まれつき体が弱いから、部活動に所属することはなかったけれど、その分勉強に力を入れた。


 やることがなかったからかもしれない。

 友人はいない。学校生活は各段楽しいわけでもない。けれど瑞穂は、それなりの生活に、それなりに満足感を得ていた。


 そんな平穏なテリトリーに、齋藤は入り込んできた。


 それは瑞穂が放課後、残って勉強をしていた時だった。教室で瑞穂は一人きりだった。


 差し込む陽はオレンジ色で、陽が落ちるのも随分と早くなったな、ととりとめもなく考える。

 窓の外からは野球部の野太い掛け声と、バットの金属音、サッカー部の爽やかな声がする。校内からは、吹奏楽部の演奏が聞こえた。


 少しだけ空いた窓からは、澄んだ空気が入り、どことない寂しさを運んでくる。

 葉が色づき始め、稲穂が黄色く実る時期だった。


 普段、誰も入ってくることのない教室の扉が開いた。

 思わずペンを動かすのを止めて、扉の方に目をやる。


 そこには齋藤がいた。


 実のところ、この時の瑞穂は齋藤のことを快く思っていなかった。

 彼は眉目秀麗で、勉強も運動も人よりもできて、人当たりも良く、話す人全員が友達というイメージだった。


 瑞穂の抱いていた齋藤のイメージ像は、瑞穂の性格とは正反対だった。だから勝手に相いれないものだと思い込んでいた。


 齋藤は瑞穂に気づくと、よ、と軽く手を挙げた。

 ほとんどしゃべったことすらないというのに、随分と馴れ馴れしいように思える。瑞穂は真似をするように手を挙げ返す。


 どうやら彼は忘れ物をしたようで、彼の席に乗っていた手さげ袋を手に取った。それから真っ直ぐには帰らずに、勉強をしている瑞穂の元へと歩いてきた。

 瑞穂の前の席に座って、振り返る。


 「よう。何してるんだ?」

 それはまるで、昔からの知り合いのような、棘のない接し方だった。

 「勉強だよ」


 素っ気なく言う。

 瑞穂は顔を上げたが、彼の目を見て言うことができなかった。いつも遠目で見る存在で、まるで人と会話をしているような感覚が無かったからだ。


 「そっか。そりゃあ見れば分かるか」

 齋藤はそう言って笑った。

 「瑞穂くんは部活とかやってないの?」

 「まぁそうだね。やってないよ」


 そう言うと齋藤は、ふーんと相槌を打って、これ以上は踏み込んでこようとはしなかった。


 誰にも言っていないはずの、病気で体力がないことを知っているかのように。彼からしてみればただの気遣いだったのだろうけれど。


 「だからそんなに頭がいいんだね。知らなかったよ」


 それは瑞穂に向けた言葉のようで、独り言のようでもあった。

 つまり彼は、部活をしていない瑞穂を羨んだのだろう。瑞穂にはそれはが分かった。


 齋藤の言葉を聞いて、瑞穂は素直に驚いた。彼がそんな嫌味めいたことを言っているところなんて、見たことがなかったからだ。


 「どうしたの? そんな顔して」

 「齋藤くんでもそんな事言うんだなって」

 「そりゃあ言うさ。人間なんだし」笑いを付ける。

 「でも普段、そんなこと言う印象なかったから」

 「まぁ、そっか。そうだよな。確かにオレはそうかもしれないな」


 窓の向こうの朱色の空を見上げる。


 「齋藤くんから見て、オレってどんな風に映ってるんだ?」


 瑞穂は悩む仕草をする。

 しかし答えはずっと前から、頭の中にあった。それをあたかも今考えついたかのように言う。


 「うーん、一言で言えば、嫌なやつ、かな」

 「なんだそれ」と、齋藤は小さく笑う。

 「でも少し話してみて、印象が変わった。なんか思ったよりも近い人間なんだって思った」

 「じゃあ話す前までは嫌いだったってことか?」

 「まぁ、そう……なるね」


 齋藤の問いに、瑞穂は困ったように言った。


 「それは辛いな」


 言葉とは裏腹に、齋藤は笑った。


 「でもそれはお互い様だ。瑞穂君も思ったよりずっと、オレに近いところがあった。話してみないと分からないもんだな」

 「そうだね」

 「でもまぁ、よくも正直に言ってくれたな」

 「齋藤くんこそ。いつもいい人を演じるのは大変じゃないのか?」

 「そうしなきゃいけないことってのもあるんだよ」


 ぽつりと言う。

 瑞穂には、自分の理解の及ばない世界の話であることにすら気づかない。


 それから、放課後の終了を告げるチャイムが鳴るまで、学校の事や誰かの悪口などを話した。



 その日の出来事から、瑞穂には一人だけ友人ができた。

 性格も立場も正反対で、一見すると相いれないような二人。

 けれど、だからこそ、仲良くなれたのかもしれない。


 学校にいる間、二人は話さない。

 けれど放課後、三日に一回程度、こうして教室に集まって話をするようになった。

 その内容は齋藤の愚痴だったり、今日の学校での出来事についてだったり。


 その時間は瑞穂にとって、楽しいものだった。

 唯一の、かけがえのない青春らしいものだったと思う。



 *



 そうして時が過ぎ、中等部を卒業するとき、齋藤は高等部進学ではなく、高校受験を選択した。

 そのため齋藤と別れることとなる。顔を合わせたのはそれきりだ。


 別の高校に行っても、彼のことだから上手くやっていけるに違いないと思った。


 ありがたいことに、瑞穂が高等部に進学しても、齋藤は月に一回くらい電話をくれた。

 その内容は、中等部時代に放課後に話していたことと本質は何ら変わりなかった。


 家柄の関係で、どうしても超有名国公立大学に進学しなければならないこと、両親の厳しさ、兄が不出来なために齋藤に期待が倍のしかかっていること。


 それらの苦しみを、瑞穂は齋藤から聞いていた。


 だから瑞穂は知っていた。

 齋藤が悩み、苦しんでいることを。


 けれど手を差し伸べることなく、気づけば半年前に、齋藤は二度と話すことのできない存在になった。


 それにより、未来を考えるうえで、瑞穂は自殺という選択肢を得ることになる。


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